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 深い泥の底から意識をすくい上げるような、どこまでも重たくて心地よい眠りからリコがようやく目を覚ましたとき、部屋の重厚なカーテンの隙間からは、すでに南中をとうに過ぎた斜めの陽光が差し込んでいた。

 ここ数日間の逃亡劇、張り詰めていた死への恐怖、そして冷酷な地下牢の石床が嘘のように、体を包み込むシーツはふかふかで温かい。リコは大きく伸びをしてから、昨日執事の男が用意してくれた清潔な部屋着から、手回しの利くシンプルな衣服へと着替えを済ませた。用意されていた昼食兼用の豪勢な食事を夢中で平らげ、ようやく一息つく。その時、部屋の扉が静かにノックされた。

 入ってきたのは、昨日リコを案内してくれた物静かな男とはまた異なる、いかにも鍛え上げられた風貌を持つ実務的な佇まいの執事だった。その両手にはリコが見覚えのある、薄汚れてあちこちが擦り切れた革製の鞄が握られていた。


「アリナ様、こちらは貴女様の鞄と伺っております。処刑場の管理室に保管されていたものを、当将軍府の兵が回収してまいりました」


「あ……!ありがとうございます!」


 リコは弾かれたように立ち上がり、差し出された我が家のような鞄をひったくるようにして受け取った。

 王都から命からがら逃げ出してきたリコにとって、このボロ鞄だけが、彼女のこれまでの人生のすべてが詰まった唯一の財産だ。中には奥方様から頂いた大切なお金や、着替え、そしてわずかばかりの画材一式が眠っているはずだ。

 リコは執事の目を盗むようにして、すぐさま鞄の口を開け中身を細かくチェックする。すべて無事だ。


「それから、もう一点お伝えせねばならないことがございます」


 鞄の確認を終えたリコを見計らい、執事が一歩下がって恭しく頭を垂れた。


「ギラス将軍ですが、本日は早朝より国境付近での軍事演習のため、すでに将軍府を出立されております。そのため、本日は直接お会いいただくことが叶いません。代わりに、将軍より貴女様宛ての手紙を預かっております。こちらをどうぞ」


 執事から手渡されたのは、高級な羊皮紙ではなく、そこらの執務机にあった紙を無造作にちぎったような、メモ書きに近い小さな紙片だった。リコがそれを受け取ると、執事は「失礼いたします」とだけ言い残し音もなく部屋を退室していった。


 一人きりになった室内でリコは抱きしめていた鞄をベッドの上に置き、手渡されたメモを開いた。そこには、あの大柄で飄々とした老将軍が豪快にペンを走らせたことが容易に想像できる、力強くもどこか癖のある文字が並んでいる。


『リコ殿、陛下より事情はすべて伺っている。

 ジルという男から様子を聞いたが、泥のようにぐっすりと眠りこけているようだったな。起こすのも不憫ゆえ、こうして手紙を残すことにした。

 一先ず、そなたはわしの『親戚』として、しばらくこの将軍府で身柄を保護することになっている。今日からお主には専用の護衛をつけるゆえ、何か困ったことや必要な物があれば、彼らにことづけると良い。

 そなたの本当の身の上や、王都での出来事は、ここでは誰にも話してはならぬぞ。名は、牢で使っていたという偽名『アリナ』を引き続き公称として使うように。それでは、長旅の疲れをゆっくりと癒やすが良い。

追伸:わしからの手紙は読んだその場ですぐに燃やしておいておくれ』


 リコはメモをじっと見つめた。

 一見すると気さくなメッセージに見えるが、その実、リコの安全を確保しつつ、王都の政争の火種を徹底的に隠蔽するための指示が詰め込まれていた。

 リコは言われた通り、ベッドサイドに置かれていた室内灯の火屋を外し、その小さな炎にメモの端を近づけた。乾いた紙片は一瞬にしてオレンジ色の炎に包まれ、黒い灰となって灰皿の上へと崩れ落ちていく。

 燃え尽きる灰を眺めながら、リコはふと、手紙の中にあった「ジルという男から聞いた」という一節に思いを馳せた。


(ジルさん、私が寝てる間も将軍様と色々お話ししてくれてたんだ……)


 彼の不眠不休の苦労を思うと、今すぐにでも向かいの部屋へ行って「ちゃんと休めましたか?」と声をかけたくなった。

 リコがジルの部屋を訪ねるべきか、それともやめておくべきか、ベッドの上でもぞもぞと悩み始めた、まさにその時だった。

 トントン、と、先ほどの執事のものとは明らかに異なる、力強く硬質なノックの音が部屋に響き渡った。


「はいっ、どうぞ!」


 リコが慌てて居住まいを正して返事をすると、重厚な扉が開き、一組の男女が静かに室内へと足を踏み入れてきた。


 部屋に入ってきた二人を見た瞬間、リコの背筋にピリッとした緊張が走った。

 何より目を引いたのは、二人の腰に一際存在感を放って下げられている、立派な抜き身の剣だった。それは、リコが普段見慣れているジルの細身で優美なサーベルとは全く異なる、厚みと重量感のあるいかにも「一撃で敵を叩き斬る」ための大ぶりな両手剣だった。最果ての厳しい気候と戦場を生き抜いてきた兵士特有の、独特の威圧感が部屋の空気を一変させる。

 しかもそのうちの一人は、リコにとって非常によく見知った、できればあまり再会したくなかった男だった。

 あの看護施設の病室で、まだ怪我が治りきっていないリコを鋭い眼光で質問攻めにし、まるで獣のような油断ならなさを見せていた男——北の剣豪と名高いアンジである。

 そしてもう一人は、初めて見る女性の戦士だった。艶やかなブルネットの髪を頭の高い位置で一本のポニーテールにきゅっとまとめ、涼しげだがツンと釣り上がった目尻が印象的な美女だ。その佇まいからは、「男どもに絶対に負けるものか」という強烈な自負と、鉄のような意志の固さがひしひしと伝わってくる。

 アンジが一歩、靴の音を響かせて前に進み出ると静かに口を開いた。


「先日は手荒い真似をしてすまないことをした、アリナ。君がまさか将軍の『訳ありの親戚の娘』だとは知らなかったのだ。我々は今日から、君の専属の護衛を担当することになっている。改めて、私はアンジだ」


(……『訳あり』って何!?)


 リコは引きつった笑みを浮かべながら、心の中で不在のギラス将軍に向かって猛烈にツッコミを入れた。

 大方、ジルから事情を聞いた上で、アンジたちに対して「これ以上リコの正体を深く探らせないため」に、「隠密の親戚だが、表沙汰にできない『訳あり』の娘だ」とでも吹き込んだに違いない。適当な設定をデッチ上げたおかげで、アンジのような鋭い男が綺麗に騙されているのは有り難いが、同時にもの凄く不名誉な誤解をされている気がしてならない。


「私はヒナと申します。以後、お見知り置きを」


 女戦士の方も、アンジに負けじと一歩前に踏み出し、豊かな胸を張って凛とした声で名乗りを上げた。その鋭い視線がリコの全身を品定めするように観察する。


「よ、よろしくお願いします……。アリナです」





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