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「リコ、どうかされたんですか?」
静まり返った廊下に響いた微かなノックの音に応じるように、ほとんど間を置くことなく目の前の重厚な木目の扉が内側から開いた。そこから顔を覗かせたのは驚きと微かな安堵をその瞳に宿したジルだった。
お風呂上がりなのだろう、彼の白銀の髪はいつもより少しだけ無防備に波打ち、その端正な顔立ちが夕闇の迫る廊下の薄明かりの中に浮かび上がっている。
「別に、ただ……落ち着かないんです」
リコは小さく俯きながら、消え入りそうな声でそう言った。
ジルの前に出ると、急に自分の行動が恥ずかしくなってしまい、視線をどこへやっていいか分からない。視線を落とした先では、ここ数日間の過酷な逃亡劇と牢での幽閉に耐え抜いてきた、自分のボロボロの靴の先っぽに小さな穴が開きかけているのが見えた。そのみ窄らしさが、今の自分の心細さをさらに煽るようだった。
「そうですか……私もです」
ジルはリコの足元に一瞬だけ目を向けた後、自嘲するような、けれど酷く優しい声音でそう呟いた。
そう言うと、彼は自らの部屋の扉を大きく開き、リコを中へと通してくれた。部屋の調度品はリコの部屋とほぼ同じで、戦う者の城らしく無骨でシンプルだった。ジルに促され、備え付けられていた小さな木製の椅子に座るよう言われて、リコは小動物のように大人しくそこへ腰を落ち着ける。
窓の外から忍び寄るデンバー領の夕闇は、王都のそれとは比べものにならないほど深く、そして容赦なく寒かった。窓の隙間から入り込む北方の冷気に、リコが思わず自分の体をきゅっと抱きかかえるようにして、細い両腕をさすっていると、それに気づいたジルがベッドのほうへ歩み寄り、真っ白な毛布を両手で持ってきてくれた。そして、リコの小さな肩へフワリと優しくかけてくれる。
「ありがとうございます」
その温もりに救われながら、リコは素直に頭を下げた。
「いえ、ここは冷えますね」
ジルの端正な顔の輪郭が、窓から差し込む夕闇の青みがかった薄明かりに静かに照らされている。その横顔を見つめているうちに、リコの胸の奥から、せき止められていた感情が言葉となって溢れ出してきた。
「それだけじゃないんです。街道で襲われた日も今日も、ジルさんは私をあの恐ろしい場所から助けてくれました。……本当に、本当に感謝しています」
リコがもう一度、心からの気持ちを込めて感謝の意を述べると、ジルは過去の光景を脳裏に追体験するように重々しく大きな溜息をついた。その溜息には、彼がこの数日間にどれほどの心労を重ねてきたかが滲み出ている。
「そう言えば、あなたはなぜあのような陰惨な獄中に繋がれていたんですか?私がほんのちょっと目を離した隙にこれです……私とはぐれた後、一体あなたの身に何があったのですか?」
「えっと、その……あのあと私、森の中で王都からの刺客に追われて……矢で打たれたんです」
「な、なんだって……!?」
リコが記憶を辿りながらその時の過酷な成り行きを説明しようと話し始めた、まさにその瞬間だった。
突然、それまで一歩引いた場所にいたジルが床の石畳を強く踏み鳴らして、ずいと強引に距離を詰めて近づいてきた。そのあまりの迫力とスピードにびっくりしてリコは目を丸くしてジルを見上げる。そこには今までに見たことがないほど深く眉間に皺を寄せた彼が、今にもリコを喰い殺しそうな鋭い眼差しで見下ろしていた。
「どこですか」
「……え?」
「どこを矢で打たれたんですか」
地を這うような低い声で静かだが圧倒的な威圧感を全身から放つジルを前にして、リコは完全に怖気付いてしまい椅子の上で身体を仰け反らせた。彼の瞳の奥に宿る揺るぎない光が、リコの自由を奪う。
「背中ですけど……」
「見せなさい」
恐怖と困惑で椅子の上で思い切り仰け反ったリコに対し、ジルはさらに距離を詰め、まるで上から覆いかぶさるような体勢で顔を近づけてきた。ジルの放つ熱量と、彼の風呂上がりのリコと同じ香りが五感を支配する。
「な、何ですか? ジルさん怖いです」
リコは本能的に身を守るようにして、胸の前で小さな手のひらをぎゅっと握りしめた。しかし、ジルはその拒絶すら目に入っていないかのように、さらに強引にリコへと身体を近づけた。彼の広い胸板が目の前に迫り、もう既に半分以上リコの上にのしかかってしまっている。
「いいから、見せなさい」
有無を言わせぬ冷徹な響きを伴って、ジルが大きな手で、ぐいとリコの衣服の襟ぐりに手をかけた。




