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力強い蹄鉄の音が灰色の石畳に規則正しく響き渡る。馬の背で前後に激しく揺られながら、リコはジルの腕越しに、次々と後ろへ流れていく最果ての景色を眺めていた。
いくつもの厳重な検問所と、高くそびえ立つ第一の廓を潜り抜ける。要塞都市の心臓部へと近づくにつれ、空気は一層張り詰め、ついに二人の目の前に、威風堂々とした異様な存在感を放つ漆黒の巨躯が現れた。
馬に揺られながら辿り着いたその場所は、陽光を浴びて鈍く、黒く輝く城——この北方の地を統べる将軍府であった。首をうんと後ろまで反り返って見上げなければ、その全貌を視界に収めることができないほど、天を突くように高く聳え立つ、文字通りの巨大な要塞だ。王都の優美な宮殿とは全く異なる、戦うためだけに造られた無骨な造形にリコは圧倒されて小さく息を呑んだ。
しかし、命からがら城へ辿り着いたのも束の間、まるで彼らの帰還を待ち構えていたかのように、一人の緊迫した面持ちの伝令兵がギラス将軍の元へと血相を変えて駆け寄ってきた。
兵士が馬の足元で二言三言、将軍の耳元に早口で何かを囁く。それを聞いたギラス将軍は、あからさまに面倒くさそうな表情を浮かべた後、すぐ後ろに控えていたリコとジルを振り返って、申し訳なさそうにその白い眉尻を下げた。
「すまんのう、後のことはそこの執事が案内してくれる。どうやら、この老体をこれ以上ないほど手荒にこき使う輩が、奥で手ぐすね引いて待ち構えておるようじゃ。……やれやれ、行かねばならん」
これだけの騒動を起こしておきながら、どこまでも飄々とそれだけ言うと、ギラス将軍は「わしのかわいい親戚の娘御よ」と、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、パチリとリコに向かって茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた。そしてそのまま手綱を引くと、リコが何かを応える間もなく元来た道を足早に馬で引き返していってしまった。
嵐のように去っていった老将軍の姿に、リコはただただ呆気にとられてポカンと口を開けていた。
見送るリコを現実に引き戻すように、ジルが先に馬から飛び降り下からリコに向かってそっと両腕を差し伸べる。リコは生まれて初めて乗った軍馬の想像以上の高さに完全に怯え、へっぴり腰になりながら、ジルの逞しい身体に掴まってズリズリと不格好に大きな馬から降りた。地面に足がついた瞬間、あまりの安心感に膝の力が抜けそうになる。
将軍に代わって彼らを迎えたのは、一分の隙もない見事な礼釈を崩さない、物静かな執事の男だった。
リコとジルはその執事の男に非常に丁寧に案内され、クネクネと複雑に入り組んだ城の中を通される。リコは万が一の時のために、自分が歩いた道を必死に覚えようと最初は試みた。しかし、右へ左へと何度も折れ、酷く似通った灰色の石壁の廊下を三回ほど曲がったあたりで、考えるのがどうでも良くなってあっさりと諦めた。今の自分には、もうそんな気力は残っていなかった。
執事は迷いのない足取りで二人を案内し、やがて廊下の最奥、静かな一角で足を止めた。そこには重厚な木製の扉が綺麗に向かい合うようにして二つ並んでいる。ジルとリコは、そのまま向かい合ったゲストルームへ、それぞれ別々に通されることになった。
「向かいの部屋にいますから、何かあればすぐに声をかけてください」
自分のあてがわれた部屋の扉を開け、中に入ろうとしていたその時、後ろからジルの低く落ち着いた声がリコの背中にかけられた。リコがハッとして振り返ると、ジルはどこか労るような、静かな眼差しでリコを見つめていた。その瞳には、先ほどの処刑場で見せたような狂気的な焦燥はもうない。いつもの、リコの知っている冷静な彼の瞳だった。
「色々あって疲れたでしょう、とりあえず今日はゆっくり休んでください」
「ジルさんこそ、私のためにありがとうございます」
リコは胸の奥から湧き上がる心からの感謝を込めて、ペコリと深く頭を下げてから自分の部屋に入った。
執事は部屋の中に備え付けられていたクローゼットのタンスから、シンプルだが肌触りの良い上質な部屋着をリコに手渡すと、一礼して静かに部屋を去っていった。
一人きりになった室内を見回してみる。華美な装飾こそないが、隅々まで手入れが行き届いた、とても清潔で綺麗な部屋だ。リコは手渡された部屋着を両腕で大切に抱き締めたまま、部屋の隅に置かれた大きなベッドへそっと近寄ってみた。
真っ白なシーツがピンと張られたそのベッドは、シンプルでありながらも、見るからにふかふかで寝心地が良さそうだ。王都での貧しい下町暮らし、そしてここ数日間の冷たい地下牢の石床を思い返す。今まで、こんなにも暖かく寝心地の良さそうなベッドには一度だって寝たことがなかった。今すぐにでもその中に飛び込みたい衝動に駆られる。
しかし、リコはふと自分の衣服に目を落とし、我に返った。
ドロドロに薄汚れた囚人服のまま、この真っ白で綺麗なベッドに横になるのは、流石に気が引けたし憚られる。
そこでリコは、部屋の奥に備え付けられていた小さな浴室のシャワーを、大急ぎで浴びることにした。今までの人生では、体や髪を洗うものといえば、安価で質の悪い固形石鹸しか使ったことがなかった。しかし、この将軍府の浴室には、見たこともないような美しいガラス製のポンプボトルがいくつか整然と置かれ、それぞれから花や果実の、えも言われぬ良い香りが湯気と共に漂っている。
生まれて初めて目にするボディーソープやらシャンプーやらを恐る恐る使い、お湯で全身の汚れを洗い流していく。つい先ほどまでの、冷たい格子の中に閉じ込められて死を待つだけだった地獄のような待遇と、現在の天国のような至れり尽くせりの差に、リコは深い驚きとどこか現実味のない奇妙な感覚を覚えながら、浴室を後にした。
清潔な部屋着に着替え、さっぱりとした体でリコはベッドの端に腰掛けてみた。
信じられないほど柔らかく、体を優しく受け止めてくれる感触。けれど、その快適さが、逆にリコの心を妙にそわそわとさせた。
じっと、黒い石で出来た高い天井を眺めてみる。
窓の外からは、夕闇が迫る将軍府で働く人々の慌ただしい足音や、馬の鳴き声、遠くの話し声がかすかに響いてくる。ここは王都ではない。自分を殺そうとした厳しい最果ての地であり、全く見知らぬ異境の城なのだ。
「……うう、やっぱり、駄目だ」
心細さに耐えかね、リコはもそりとベッドから立ち上がった。
思い切って靴を履き直すと、そっと静かに自分の部屋の扉を開けて廊下に出る。
ひんやりとした静寂が支配する廊下。その向かい側にある、ジルの部屋の硬い木目の扉を、リコは意を決して小さくノックしたのだった。




