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「出ろ」
冷たい石床の上まぶたを閉じることができずじまいのまま、まんじりともせず迎えた翌日の朝は、憎いほどに穏やかで美しい日だった。
薄暗くジメジメとした牢の頑丈な鉄格子の隙間から差し込んでくる一筋の朝光は、まるで今日という日がこれ以上ない絶好の「死刑日和」だとでも言わんばかりの表情で、白く乾いた地面を照らし出している。その場違いなほどの天気の良さが、これからの運命を思うリコにとっては残酷極まりなかった。
廊下の奥から静まり返った空間を揺るがして響いてくる、容赦のない重々しい足音。リコの房の前でピタリと止まった数人の兵士たちのうち、一人が感情の起伏を一切排した声で、事務的にそう告げた。
ガチャガチャ、ジャラリ、と鉄と鉄が噛み合う冷徹な音が地下室の奥へと冷たく響き渡り、重い鉄扉がゆっくりと開け放たれる。その金属音は、リコの心臓を直接握り潰すかのように冷たかった。
牢の隅っこ、冷え切った壁に背中を預けて、まるで小さな虫のように縮こまっていたリコは、消え入りそうな声で、それでも必死に抵抗を示すように小さく首を振ってみた。
「私は、何もしてない」
「余計なことは言うな」
どれほど無実を訴えようとも、兵士の返答はどこまでも冷淡だった。相変わらず牢の隅っこで身体を硬直させて固まっているリコを見かねて、兵士は面倒くさそうに短くため息をつく。彼は毎日の業務として完全に慣れきった様子で牢の敷居をくぐると、リコの細い腕を大きな手で掴み、ぐいと力任せにリコを引きずり立たせた。
長旅と心労、そしてろくな食事を食べなかったせいですっかり痩せているリコの体は、まるで中身の詰まっていない軽い人形でも扱うかのように、大柄な兵士の思い通りにさせられる。何の抵抗もできずに立たされた拍子に、パラパラと体についていた土汚れが床に落ちる音が、やけに静かな空間に虚しく響いた。自分が今、どれほど惨めで無力な存在に成り下がっているかを痛感させられる。
「ほ、本当なの……ねえ、お願い、将軍様に会わせて。そうしたら全てわかるから」
「死ぬ前は皆同じことを言うさ。さ、行くぞ。ぐずぐずしてたら処刑時間に遅れちまう」
掴まれた腕を必死に引いてみても、あるいは全体重をかけて後ろへ押してみても、リコの非力な腕力では大柄な男の身体はピクリとも動かなかった。男の皮膚はまるで鉄板のように硬く、リコの必死の抵抗を嘲笑うかのようにびくともしない。
何とかしてここから逃げ出さねば、何か嘘でもいいから機転を利かせて時間を稼がねばと、必死に頭を回転させようとするのに、半ば諦めにも似た真っ黒な絶望が頭の中をじわじわと塗り固めていく。
周りを数人の武装した兵士たちにガチガチに固められ、リコは薄暗い廊下を連れ立って歩いた。抜き足差し足で逃げる隙など一瞬たりとも与えられない。
ひんやりとした廊下を通り抜け、角を曲がり、重厚な錠前のついた扉を抜けて、また次の角を曲がる。この要塞はまるで蟻の巣のように複雑に入り組んでいた。そうやっていくつもの頑丈な扉を抜け、ようやく地上へ続く階段を上って外に出た途端、リコはあまりの陽光の眩しさに思わず目を細めた。
見上げた空はどこまでも高く、澄み渡っている。まるで何かを祝福するかのようにキラキラとした輝きが、豊かな陽の光となって要塞の広場へと容赦なく降り注いでいる。そのあまりの眩しさと美しさが、これから命を奪われるリコの運命と対比して、ひどく残酷で、世界から突き放されているかのように感じられた。
「っ……」
「ほら、歩け」
一瞬、その光の美しさに足を止めそうになると、後ろに続く兵士に背中を強く小突かれて、リコは渋々一歩を踏み出した。
前後左右をしっかり囲まれて、腕は後ろで太い縄によって固く縛り上げられ、自由を奪うための腰縄までつけられては、どうあがいても逃げようがない。一歩一歩進むたびに、地面を踏みしめる自分の足が、まるで鉛のように重かった。
牢の近く、それほど遠くない広場の一角に、その場所——刑場はあった。
要塞の灰色の壁に囲まれたその空間を見た瞬間、リコにとって、死までのその物理的な道のりが、あまりにも短すぎるように感じられた。せめてもう少しだけ、この世界の空気を吸っていたかった。カタカタと完全に冷え切った指先が、自分の意志とは関係なく小さく震え続けている。
「膝をつけ」
遮るもののない開けた場所の中央、乾いた土の上にリコは力なくカクリと膝をついた。地面の細かな砂利が膝に食い込んで痛む。だがそれすらも遠い出来事のように感じられた。
処刑場の周りには、娯楽の少ない最果ての地ゆえにか、バラバラと集まった見物人たちが、まばらに様子を見守っている。
「あんな細っこい女が強盗したんだって——」
「盗むだけじゃない、人も殺したそうだ——」
「おお、恐ろしい——」
柵の向こうから聞こえてくる見物人たちの真実を何も知らない無責任な囁き声が、なぜか今のリコの耳には妙に明瞭に、一つ一つの言葉が脳裏に突き刺さるようにして残った。
その声を聞くたびに、頭の奥が冷たい氷水を流し込まれたように凍りついていく。やはり、この北の地は厳しい場所だ。王都のように、自分の本当の姿を知ってくれる人は誰もいない。ここでは自分はただの「悪魔のような人殺し」でしかないのだ。
やがて、それほど時間も経たないうちに、ザッ、ザッ、と力強く乾いた土を踏み鳴らし、背中に身の丈ほどもある重い大剣を背負った大柄な男が、ゆっくりと処刑場へやってきた。
それを見た見物人たちが、さらに興奮した様子でザワザワと騒がしく囁きあっている。その禍々しい武器と、一切の感情を削ぎ落としたかのような威圧的な風貌を見る限り、きっとこの大男は処刑人に違いない。
男の登場によって、リコの心は完全に絶望に塗り固められた。もう、頭の中が冷えきって何も考えることが出来ない。ただ、すがるような思いでひざまずいた自分の隣に立つ男を、すがるように見上げる。
「恨むでない」
大男が、表情を一切変えずに、唇をほとんど動かさずに低い声でリコに向かって囁いた。それはリコに対する悪意や憎しみからではなく、ただこれから行う仕事を淡々と、正確にこなすだけの声だった。その一言が、リコに「死」を突きつける。
(ああ、おしまいだ……)
「罪人、アリナ!」
一段高い台の上に立った執行官が、紙を広げ、滔々とリコの罪状を大きな声で読み上げ始めた。
その広場全体に容赦なく響き渡る声を聞いて、リコは身体から緊張の糸が完全に切れたように、弛緩したように力が抜けていくのを感じた。抵抗する気力すら湧かない。数分もしないうちに、あの重い刃が振り下ろされ、自分の命の灯火は完全に消え失せるのだろう。
自分のことを誰も知らない土地で、
自分を凶悪な犯罪者だと決めつける知らない人達の間で、
自分の本当のものではない、知らない名前のままで——
(ジル、さん……)
悔恨と、圧倒的な諦めが心を襲う。どうしてあの時、もっとうまく立ち回れなかったのだろう。なぜこんなところで、私は死ななければならないのだろう。
死を目前にして、五感がやけに鋭くなったような気がした。世界のすべてが、驚くほどによく見え、よく聞こえる気がする。
咎人を責める見物人たちの冷たい囁き声。
大きな鞘からスルリと大剣が引き抜かれる、ザラついた金属の摩擦音。
リコは、これが最後になるかもしれない世界の景色を、ゆっくりと辺りを見回すようにして眺めた。境界線の向こう側にいるどの目も、好奇心と冷徹さを含んでリコのことを見つめている。
「言い残すことはあるか」
執行官が、形式的な哀れみの目を向けながらリコを見た。
その時、処刑場に一陣の風が吹き荒ぶ。冷たい北の風が、リコのミルクティー色の髪をひと束さらって、ふわりと宙に揺らした。
リコはゆっくりと首を横に振る。もう、言うべき言葉は何も残されていなかった。
ただ、じっと前を見つめた。刑場の門戸は固く閉ざされ、ぐるりと囲われた柵の間から人々が息を呑む様にして、今か今かとその瞬間を待っている。その冷酷な視線の中心に、自分がいた。
処刑人の大剣が空を切る、ヒュウという鋭い風切り音を、リコの鋭敏になった耳が捉えた。
大仰に、天に向かって処刑用の巨大な大剣が両手で高く振りかぶられる。太陽の光を正面から反射して、その分厚い鉄の刃がギラリと眩しく輝いた。
視界が急激に滲んで、初めて自分が涙ぐんでいることにリコは気づいた。だが、もう遅い、何もかも遅いのだ。
刃が頂点に達してから落ちてくるまでのすべてが、まるで果てしなく長いスローモーションのように感じられる。死を前にするとは、こういう奇妙な感覚なのだろうか。周囲のすべてが遠のき、寂れた場所の処刑場だというのに、降り注ぐ陽光のせいかなぜかひどく美しく感じた。
その時だった。
極限まで鋭敏になったリコの耳が、土を猛烈に蹴り上げる、力強い蹄鉄の音をとらえた。それも一頭ではない、複数の軍馬が狂ったように疾走してくる音だ。
何事だろうとハッとして目の前の処刑場の扉を見つめる間もなく、その頑丈な門戸が、外から力任せに蹴破られるようにして、派手な音を立て吹っ飛ぶように開く。
「やめよ!即刻刑を中止せよ!!」
地鳴りのような、鬼気迫った男の声が高らかに広場全体に響き渡ると同時に、激しく土埃を上げながら、馬に乗った男達が数人、処刑場の中へと怒涛の勢いで傾れ込んできた。




