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 リコの首が、まるで油の切れた古い人形のように、ギギギ……と不自然な音を立てそうなほどのスローモーションで後ろへと回る。振り返ったリコの視界に飛び込んできたのは、描きかけのスケッチを苦々しげに握り締め、怒りのあまりわなわなと全身を震わせている、白銀の髪を持った一人の兵士の姿だった。


「え、えへへ……ジ、ジルさん……オヒサシブリ、デスネ……?」


 絶体絶命のピンチに陥った時、人間が取れる行動は一つ。リコは顔面の筋肉を総動員して、引きつった愛想笑いを貼り付けた。


「何がお久しぶりですか! 三日前、厨房の裏口からあなたをつまみ出したばかりでしょう!」


 ジルと呼ばれたその男——王城の治安と規律を司る若き下っ端兵士は、その瞳を極限まで細め、リコを射殺さんばかりに睨みつけていた。広大な城内を執念深く捜索して走ってきたのだろう、彼の胸元は少し荒く上下しており、額には薄っすらと汗が浮かんでいる。

 そのきっちり着込んだ隊服が呆れと怒りで歪んでいる様は、それ自体が非常に絵になる光景ではあったが、今のリコにそれを鑑賞する心の余裕はなかった。


 彼こそが、リコと愛すべき色男たちの間に立ち塞がる、最大にして最凶の障壁であった。


 三日前に厨房へ忍び込み、包丁を握る「渋いイケおじ料理長」の腕の血管を盗み見ていた時も。

 五日前に執務棟の廊下で、書類の山をひっくり返して慌てる「ひよこのように庇護欲をそそる新米文官」のドジな姿を模写していた時も。

 その一週間前に、汗を拭いながら薔薇の手入れをする「無骨な庭師」の眩しい横顔をスケッチしていた時も。

 すべて、この執念深い白銀の男によって現行犯逮捕され、計画を台無しにされてきたのだ。


「許可のない部外者は城内への立ち入りを禁ずる。この大原則を、私は一体何千回言えばあなたのブリキのような耳に届くのですか? 全く、あなたがこうして不法侵入を繰り返すたびに、私の本来の職務がどれほど滞り書類仕事が山積みになるか、少しは考えたことがあるのですか?」


 ジルは頭痛に耐えるように、細い指先で自身の眉間を強く押さえる。憂いを帯びたその立ち居振る舞いが、リコにとっては非常に癪だった。


「……だったら、見逃してほっといてくれればいいのに。誰も頼んでないわよ……」


 リコは不満げに唇を尖らせ、蚊の鳴くような声で小さく文句を呟いた。

 だが、その小さな囁きは彼の耳を誤魔化すことはできなかった。ヒクリ、とジルの端正な口角が空を裂くような鋭さで神経質に跳ね上がる。その不穏な表情の変化を察知し、リコは慌てて「私は無害な市民です」と言わんばかりの愛想笑いを再起動させた。


「えへへ、冗談です、冗談! もう二度としません! 本当です!……だから、その、お願いですからその描きかけの絵を返していただけませんか? かなり良い線が描けていたんです!」


 リコが手を伸ばして懇願すると、ジルの堪忍袋の緒がついに限界を迎えたようで、城壁に木霊するほどの声が響き渡った。


「返せるわけがないでしょう!! 兵士の徒手格闘術の型や訓練風景は、我が国の軍事機密に準ずる秘匿事項ですよ! あなたは自分が国家の法と安全を脅かしているという自覚が、爪の先ほどでもあるのですか!」


「そんな殺生なーーーー!!」


 ガーン、という巨大な効果音が背後に物理的に落ちてきそうなほどの衝撃を受け、リコは絶望の表情を浮かべた。そして、なりふり構っていられなくなった彼女は、ジルのわずかに乱れた制服の裾へとすがり付いた。


「お願いです! 神様、仏様、ジル様! どうかそれだけは返してください! 絵を描くことは私の神聖な仕事なんです! 明日のパンを買うための飯の種なんです! それが無いと、私は干からびて明日食べる物にも困ってしまう……! というか、最近はジルさんが目を光らせすぎているせいで、新作が一本も上がってないんですよ! 私のファン(貴婦人方)が飢えているんです!」


 最後の方は、完全に個人的な逆恨みと本音が丸出しになっていたが、リコにとってはまさに死活問題だった。ここで簡単に引き下がるわけにはいかない。


「やれ、城の秘伝レシピは機密だの! やれ、新米文官の男のプライドを傷つけるなだの! やれ、庭園の中庭の様子を模写するには事前の申請書が三枚必要だの……! そうやって権力を振りかざして、善良でか弱い一市民を虐げて楽しいですか!? こちとら日々の生活のために必死に生きているんです!」


 最初は涙ながらに縋り付いていたはずが、次第に声に怒気が混じり始め、最終的にはジルに向かって小さな拳をブンブンと振り回し始める。その手の付けられない豹変振りに、ジルは深いため息を吐いた。そして、いつもの手慣れた動作で、リコの汚れた襟首を後ろからヒョイと、子猫の首根っこを掴むように持ち上げる。


「ハイハイ、そこまでです。……嘘をつくのはやめなさい、リコ。あなたの描いた姿絵が、都の裏市場や貴婦人たちの秘密のお茶会で、どれほどの高値で取引されているか、私は知っているんですよ。一部では金貨が飛び交っているとか。なんなら、我が万年貧乏兵団の活動資金として、その莫大な利益を少し分けてほしいくらいです」


「げっ、何でそこまで知ってるのよ……! あ、待って、ダメ! 離して、私の話を聞いて、まだあそこの新兵の腹筋の影がーー!!」


 首根っこをがっしりと捉えられ、ズリズリと引きずられていくリコ。その無様な姿を見送りながら、訓練場の兵士たちは、上官の目を盗んで、笑いながら大きく手を振っていた。


「リコちゃん、また来てねー!」


「次は俺を一番格好よく描いてよー!」


 雲一つない快晴。空気はどこまでも清々しく、新緑の香りが鼻腔をくすぐる。

 そして、欲望に忠実な天才絵師リコが、王城の治安を預かる白銀の兵士によって無慈悲に連行されていく姿は、この美しい王城における、至極ありふれた日常の光景であった。





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