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リコはそっとねじ込むようにして、湿った石壁の穴を潜り抜けた。
王城の北側、排水路に程近い城壁の隅には、小さな亀裂のような隠し穴がある。普段は排水路から勢いよく排出される濁った汚水と水飛沫によって完全に隠されているが、壁に取り付けられた整備用の錆びついた鉄梯子を数段降りると、ちょうど大人が一人這い出せるだけの隙間が現れるのだ。
こんな薄暗く不衛生な場所を通るせいで、リコの顔に張り付いたビン底のような丸眼鏡はすぐにズレるし、飛び散ってくる汚水や泥のせいで、お気に入りの色褪せたスカートは少しばかり発酵したような臭いを放つ。だが、リコにとってそんなことは、これから城内で成し遂げる偉大な芸術活動——いや、至高の「大業」に比べれば、塵芥ほどの価値もない些末な問題だった。
「うう、狭い……でも、ここを抜ければ……!」
泥にまみれた指先で地面を掴み、狭い穴から芋虫のように抜け出ると、そこは王城の広大な庭園の、手入れの行き届いた垣根の裏手だった。生垣の棘に服を引っ掛けながらも、リコは慣れた手付きで這い出し、すぐに身を屈めて駆け出した。
今日、リコが目指す目的地は兵士たちの訓練場である。
陽光を浴びて汗ばむ筋肉質な男たち、ぶつかり合う肉体、そこから立ち上る野生的な色気——それらを五感のすべてで存分に摂取し、己の筆に魂を宿らせる。
それが今日の目的だった。リコは人差し指でズレた眼鏡をグイと元の位置に押し戻すと、訓練場へと続く小砂利の道を、足音を忍ばせながら、しかし恐るべき執念に満ちた速度で突き進んだ。
リコは今、巷で絶大な人気を誇る絵師である。
しかし、ただの絵師ではない。王城や都に生息する「麗しき男たち」の姿絵専門の絵師なのだ。
これまでの画壇といえば、厳かな風景画や、格式高い礼服をきっちりと着込んで硬直したポーズをとる貴族の立ち絵ばかりが主流だった。そんな退屈な芸術界のパワーバランスを、リコの絵は根底から覆した。彼女が描くのは、男たちの日常の一瞬、汗、はだけた胸元、そして無防備な表情——まさに新しい芸術のジャンルをこの国に確立させた開拓者だった。
当然、保守的な界隈の老絵師たちからは「品性下劣」「芸術への冒涜」などと口汚く蔑まれることも多かったが、世の女性たちは違った。目の肥えた公爵家のお嬢様方から、人生の酸いも甘いも噛み分けた高齢のご婦人方に至るまで、リコの描く姿絵は飛ぶように売れた。新作が出るたびに絵草紙屋の前には長蛇の列ができるほどだ。何より、リコ自身もこの仕事こそが天職であり、神から与えられた使命だと一毫の疑いもなく信じていた。
勝手知ったる城内の死角を縫うように通り抜け、リコはついに城の最東端に位置する開けたエリアへとたどり着いた。
今朝の都は雲一つない快晴で、清々しい空気が満ちている。さらに、その空気を切り裂くようにして、激しい掛け声と、頑強な筋肉と筋肉が容赦なくぶつかり合う鈍い音が、リコの鼓膜を心地よく震わせた。
「ああ……これよ、これ……!なんて素晴らしい肉体かしら……!」
垣根の隙間から訓練場を覗き込んだリコは、うっとりと頬を染めて呟いた。彼女の手はすでに、懐から取り出した紙片と炭筆を握り締めている。
リコは即座に臨戦態勢に入り、狂ったように筆を走らせ始めた。今描いているのは、いわば脳内への焼き付けを補佐するための瞬発的なメモだ。完成画には程遠い粗い線画だが、大急ぎで描き留めたこの無数のポーズや筋肉の陰影を元に、彼女は自宅のアトリエに何日も籠り、命を吹き込んだ極上の完成画へと昇華させるのである。
今日の訓練は、どうやら武器を持たない「徒手格闘術」のようだった。
上半身を裸にした兵士たちが、泥と汗にまみれながら激しい肉弾戦を繰り広げている。
「腰が高い!」「もっと踏み込め!」と、時折響く鬼上官の激しい檄に合わせ、兵士たちが一斉に体勢を変える。その一連の躍動は、リコの目には洗練された雄々しい男たちの舞踏のように映っていた。
「売れる……これは間違いなく売れるわ……! 」
ぶつぶつと狂気的な笑みを浮かべながら、炭筆で紙を引っ掻く薄汚れた女——
客観的に見れば、訓練場の片隅に潜むその姿は不審者以外の何物でもなく、異様な雰囲気を放っている。
しかし、訓練場の男たちはそんなリコの視線にすっかり慣れっこだった。それどころか、リコの存在に気づいた数人の若い兵士たちは、上官の目を盗んで、リコに向かって白い歯を見せてヒラヒラと手を振って見せる余裕さえあった。
それもそのはず、リコの描く姿絵の経済効果は凄まじかった。
彼女の絵のモデルに選ばれた男は、翌週には都中の貴婦人や良家のお嬢様方の間で名前が知れ渡り、一躍時の人となるのだ。ファンレターや贈り物が殺到し、街を歩けば黄色い歓声が上がる。それはまるで、劇場のトップスターになったかのような錯覚を抱かせるものだった。そのため、兵士たちにとってもリコに「見初められ、描かれること」は、一種のステータスであり、出世街道ならぬモテ街道への切符だったのだ。中には、わざとリコの視線がある方向に大胸筋を強調するようなポーズをとる、計算高い者まで現れる始末だ。
「いいわ、その大腿四頭筋のキレ、最高よ……!」
垂涎ものの兵士たちの肉体美に目を血走らせ、一心不乱に右手を動かしていたその時だった。
突然、視界が遮られた。リコがまさに魂を込めて描いていた紙が、上空から伸びてきた白い手によって、吸い込まれるようにひったくられたのだ。
「ああっ!?」
その瞬間、リコは全身の毛穴が収縮するような感覚を覚え、ギクリと肩をすぼめて硬直した。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
「……また、あなたですか。本当に懲りない人だ」
頭上のはるか高い位置から、冷徹で、死ぬほど呆れかえったような男性の声が降ってきた。




