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入ってきたのは、豊かな黒髪と、圧倒的な上背を持つ大柄な男だった。彼は断りを入れることもなく大股で部屋へと侵入し、その表情は極めて厳しく、眉間には深い不機嫌そうなシワを刻み込んでいる。
「アンジさん!まだこの子は意識が戻ったばかりで、絶対安静の身なのよ!」
後ろから、顔を真っ赤にしてプリプリと怒った様子でエリカさんが駆け込んできた。しかし、男はその抗議を完全に無視した。
リコが驚いたまま、粥のついたスプーンを握った手を手元で固まらせていると、黒髪の男は無言のまま威圧的な足取りでリコのベッドの目の前に仁王立ちになった。部屋の空気が一瞬で凍りつく。
「目が覚めたらしいな」
リコが圧倒的な存在感にポカンと口を開けてフリーズしていると、男は感情の起伏を一切感じさせない落ち着き払った冷徹なトーンで質問を開始した。
「名は、なんという」
「リ……、アリナです」
あまりの威圧感に気圧されて、危うく本名である「リコ」と答えるところだった。慌ててリコは、噛みそうになりながらもジルから与えられた偽名を告げた。男の鋭い眼光が、リコの動揺を逃さず捉える。
「アリナか……あのような王都から遠く離れた辺境の街道で、お前は一体何をしていた」
アンジと呼ばれたこの男の目には、明らかな「疑惑」の色が宿っていた。
命の恩人であるはずの男から、完全に犯罪者か間諜のような目を向けられている。その事実に気づいた瞬間、リコの全身に冷たい緊張が走った。ここで正体がバレれば、王都の年寄衆に居場所が筒抜けになり確実に殺される。
「私は、ただの……街道を、歩いていたら、暗闇から急に恐ろしい刺客に襲われて……」
「質問を変えよう。お前は王都の正規兵か?」
「…………」
重ねて尋ねられて、リコは完全に返答に困ってしまった。
王都の兵士などではない。ただの下町のしがない絵描きだ。だが、かといって「実は不法侵入常習犯の絵描きで、国家の陰謀に巻き込まれて逃げてきました」などと正体を明かしてはいけないと、ジルにきつく口止めされている。沈黙するリコを、アンジの冷たい視線が射抜く。
「お前は、王都の二等兵が着用する制服を身に纏っていたな。何用があって、そのような格好でこのデンバー領まで参った?」
これ以上黙っていれば、それこそ間諜として即座に牢へ叩き込まれかねない。リコは必死に頭を回転させ、王都を出る前にジルと兵長が話していた「設定」を必死に手繰り寄せた。
「……罪人を、王都から遠流の地へ連行している途中でした。島流しの刑の、執行です」
「罪人をデンバーへ遠流していた、とお前は言うのか」
「はい、そうです」
「では、その連行していたという罪人の名は?」
嘘に嘘を重ねる状況に、冷や汗が止まらない。リコは必死に記憶の底をさらい、あの夜、一緒に歩いていた男の名前を一生懸命に思い出した。
「カインズ、という男です。下町での、痴情のもつれで相手の男をナイフで殺害し、島流しの刑になりました。私はその護衛の付き添いとして……」
「……本当か?」
アンジの声のトーンが、さらに一段と低くなった。そこには、明確な「嘘を暴いた者の確信」が込められていた。
嘘はついていない。カインズという男が罪人であり、島流しの途中だったのは厳然たる事実だ。リコは恐怖に震えながらも、必死に真っ直ぐ前を向いて頷いた。
「嘘ではありません。本当のことです」
「ならば妙だな。そのカインズという罪人の男は、先日、お前が倒れていた場所からそう遠くない街道沿いで、胸を矢で射抜かれた死体となって発見されている。当然、こちらでも身元と王都からの通達をすべて照合して調べてあるが……その罪人の連行記録には、『ジル』という名の男性兵士が、たった一人で王都から連行していたと明確に記録されている。そこにお前の名前など、一文字も存在しないが?」
ドクリ、とリコの心臓が、今まで経験したことがないほど嫌なふうに激しく脈打った。
頭の芯がサーッと冷めていく。当然だ。ユーゲン兵長がリコの存在を年寄衆から隠すために、あえて公式の記録にはジルの名前しか残さなかったのだ。だが、そんな王宮の内情が、この遠く離れた北方の地に伝わっているはずもない。
「さらに不可解な点がある。そのカインズを連行していたはずの『ジル』という兵士は、道中で賊に襲われたと近くの宿場町に届け出たのを最後に、そのまま忽然と行方をくらませ失踪している……これでもまだ、自分は正当な護衛の兵士だと言い張るつもりか?何かおかしいとは思わないか?」
リコはゴクリと、乾いた生唾を飲み込んだ。
アンジの口から語られた事実によって、リコの胸には二つの感情が同時に沸き起こった。一つは、あの地獄のような襲撃から、ジルが生き延びてくれたという、涙が出るほどの圧倒的な安心感。そしてもう一つは、今現在、行方を眩ませてしまった彼がここにはいないという、底知れない絶望だった。
ジルは生きている。だが、今この瞬間、リコが置かれている状況は完全に孤立無援、絶体絶命だ。
「女。お前は確かに兵士の服を着ていたが、お前は本当に、王城を守る兵士なのか?」
アンジの一歩が、ベッドの木枠を唸らせる。
「……っ、女の兵士が、王都にいることがそんなにおかしいですか?」
「そうではない。あの制服、お前の体型に対して明らかに着丈も肩幅もサイズがあっていなかった。まるで、他人のものを急場しのぎで盗んで着たかのようにな」
「それは……」
「更にだ。こちらでお前の身の回り品として一時保管している、その粗末なカバン。中身を検めさせてもらったが、底から一介の貧しい下級兵士が一生かかっても手にできないほどの大金が見つかっている……あのような不自然な大金、一体どこで手に入れた?」
お金。その言葉に、リコはハッと思いだした。
あの昼間、高級住宅街の奥方様に、魂を込めて描き上げた絵を売り払った時の、正当な報酬の代金だ。あの後アトリエに戻った直後に刺客に襲われ、追われるようにしてそのまま都を飛び出したため、お金を銀行に預ける暇もなく、カバンに入れっぱなしのままここまで旅をしてきてしまったのだ。
「王都の兵士を襲ったという『賊』の正体は、実は兵士に化けたお前自身ではないのか?その制服も、その大金も、失踪したジルという兵士から、お前が力ずくで、あるいは寝込みを襲って盗んだものなのではないか?」




