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アンジは夜の闇に紛れるような豊かな黒髪と、熊を思わせるほどの大柄な体躯を持つ男だ。
彼は若い頃に罪を犯し、この過酷な北方の地、デンバー領へと遠流された身であった。しかし、彼の腕を買ってか北の将軍の寛大な計らいにより、アンジは罪人でありながら王府の警備や、要人の護衛といった職務を任されるようになっていた。
今回もまた、将軍の直接の命を受け有力な商団の護衛として付き添っていた。旅程は順調そのものであり、城への帰還まであと数日という街道沿いで、一団は今夜の野宿を決め込んでいた。焚き火の周囲では、長旅の疲れを癒すように、商人や護衛の兵たちがそれぞれに体を横たえて休んでいる。
「アンジさん」
周囲の暗闇に鋭い視線を走らせ、微動だにせず警備を続けるアンジの元に、一人の若い男が親しげに近寄ってきた。
彼はこの大規模な商会を運営する長のひとり息子であり、いずれは莫大な富を動かす商会を背負って立つ人物だ。今回の商談は彼の経験を積ませるために、この若い息子が実質的な団長を務めていた。
「今回は商団の護衛を引き受けてくれて、本当にありがとうございます。伊達に『デンバー領一の剣豪』と呼ばれてはいませんね、あなたは。偏屈な将軍様が、罪人であるあなたをあそこまで可愛がるのも深く頷けるというものです。あなたのおかげで今回の旅は大きなトラブルもなく、無事に終えることが出来そうだ」
満足気に笑いながら、その若い団長は手元に持っていた上質な酒を木杯からゴクリと一杯飲み干した。
無理もない。今回の商談は大成功を収め、持ってきた品はすべて高値で売り払い、さらに次期に向けた新しい独占契約までまとめてみせたのだ。若くして父親譲りのなかなかのやり手であり、利益を上げて上機嫌になるその人の良い笑い方は、下町の老商人にそっくりだった。
「屋敷に帰るまで気を抜かぬ方が良い」
アンジが低い声で釘を刺すと、若い団長は怒る風でもなく、カラカラと快活に笑った。
「ははは、あなたの言うとおりですね。さすがは百戦錬磨の戦士だ、耳が痛い」
二人の近場で、パチパチと薪が爆ぜ、焚き火の火が夜の冷気に踊る音が聞こえた。アンジの彫りの深い顔に、炎の揺らめきに合わせて濃い影が踊る。
しばらくアンジがその男と今後の予定について話していると、その穏やかな空気を引き裂くように、遥か遠方の深い森の奥から、鋭い女の悲鳴が風に乗って聞こえてきた。
「きゃああああ!」
引き裂かれるようなその声を耳にした瞬間、二人の間に凄まじい緊張が走った。
「皆を起こしておいてくれ。様子を見てくる」
アンジは迷うことなく、地面に突き立てていた大剣を手に取ると、近くに繋いでいた愛馬に一足飛びで飛び乗った。
背後では、的確な指示を受けた団長が慌てて商団員達に大声をかけている気配がする。すぐに経験豊富な他の護衛達が商団の周囲の守りを固めるはずだ。
アンジは馬の腹を蹴り、悲鳴の聞こえた方向へと暗い街道を疾風のごとく駆けて行った。幸いにも、今夜は月が奇妙なほどに明るい。手元を照らすカンテラがなくとも、長年の戦場暮らしで鍛え上げられたアンジの夜目は、周囲の景色を十分に捉えていた。
「……っ」
ある程度森の奥へと進んだところで、アンジは馬の手綱を強く引き、その場に立ち止まった。
馬の荒い鼻息だけが響く暗闇の中、アンジは全神経を目と耳に凝らす。周囲の虫の音が、不気味なほどにうるさく鳴り響いていた。何か周囲に異常はないかと、耳を皿のようにしてそばだてる。
その時、アンジの鋭い聴覚が、パキリと木々の奥で微かに枝が折れる音を捉えた。続いて、金属が擦れ合う、微かに抜刀される音が冷たい風に乗って耳に届く。
「はっ!」
アンジは音の聞こえた方向へ鋭く馬の手綱をとり、茂みを踏み荒らしながら突入した。
丈の高い茂みを越えると、そこにはすぐに二人の人間の姿が月の光の下に浮かび上がった。一方は、サイズが合っていないぶかぶかの軍服を着た兵士のようだった。その兵士は、背中に長々と一本の矢が不気味に突き刺さっており、土に尻餅をついたまま、必死に後ずさっている。
そしてもう一方は、黒い装束を纏った細身の男のようだった。一見すると普通の旅人の装いをしているが、手首の返しや足の運びといったその動きは、明らかに常人のそれではない。一流の暗殺者の動きだ。
お国の兵士と、その命を不当に狙う怪しい男。どちらを助けるか、アンジの脳内での選択は一瞬で決まった。
ここまでの暴挙を見過ごして放っておくこともできない。アンジは馬を走らせながら腰の短剣を引き抜くと、今まさに無抵抗の兵に向かって冷酷に剣を振りかざしている黒装束の男へ向かって、全力でそれを投げつけた。
鋭い風切り音を立てて飛んだ短剣。やはりその襲撃者の男は只者ではないようだった。背後からの奇襲に間一髪で気づき、驚異的な反射神経で身体をひねって短剣をかわす。
だが、そのわずかな隙があれば、デンバー領一の剣豪にとっては十分だった。
アンジは一気に馬の距離を詰め、兵士と男の間に割って入るように飛び降りた。ヒラリと身をかわした襲撃者の男が、さらにこちらとの距離をとり、油断なく立ち上がる。
男は突如現れた大柄なアンジの存在に、一瞬だけ攻めあぐねて迷ったようだったが、次の瞬間にはその細身の剣をスラリと滑らかに振り、恐るべき踏み込みで襲いかかってきた。アンジは腰の大剣を引き抜き、横真一文字に薙がれた冷たい刃を真っ正面から受け止める。
金属と金属が激しくかち合う甲高い音が、夜の森に高らかに響き渡った。
一瞬の間、アンジと男は至近距離で互いの視線を激しく睨み合った。
相手の襲撃者は、アンジの尋常ではない腕力と力量を瞬時に読み取ったのだろう。これ以上の深追いは危険と判断したのか、自ら剣を弾くようにして距離をとると、見事な身のこなしで身を翻し、一瞬にして夜の森の闇へと走り去って行く。
追うべきか、それとも否か——
アンジは一瞬だけ追跡のために足を踏み出そうと迷ったが、背後から先ほどの兵士の苦しげな呻く声が聞こえ、追跡を諦めた。
振り返ると、兵士は冷たい地面にぐったりと倒れ込み、すでに完全に意識を失っているようだった。アンジは大股でその兵に近づき、その身体を抱き起こす。背中から痛々しく飛び出している長い矢の羽を、持ち運びの邪魔にならないよう、力任せにバキリと折った。
「おい、しっかりしろ!」
アンジが荒っぽく呼びかけても、兵士は血の気の引いた青い顔をして意識を失ったまま、ピクリとも動かない。
浅い呼吸を苦しげに繰り返すその小さめの兵士の身体を、アンジは自身の逞しい馬の背に乗せ、自身も鞍にまたがると、大急ぎで商団の待つキャンプの元へと引き返した。
キャンプへ戻ると、アンジはすぐに若い団長に訳を話し、商団に同行させていたお抱え医師を大至急呼び寄せさせた。
急遽張られた即席の医療用テントの中で、松明の明かりの下、医師による緊迫した処置が始まった。テントの外で、アンジは森の中で目撃した一部始終の出来事を団長に話す。
「なるほど……お国の兵士が背後から射られ、さらに手慣れた暗殺者に口を封じられそうになっていた、と。ただの身代金目的の強盗や、この辺りに出没する山賊の類では無さそうですね。何か、非常に深い訳がありそうだ」
報告を聞き、若い団長が顎に手を当てて深刻そうに目を細める。
「あの兵士が目覚めたら、事の真相を詳しく聞いてみましょう。そもそも、こんな辺境の地にたった1人で兵士がいるという理由自体、大いに気になりますしね」
しばらくテントの外で二人が意見を交わしていると、幕が開き、険しい顔をした医師によって二人は医療テントの内部へと呼び入れられた。医師は、寝台に横たわる兵士を背に、二人に向かって静かに話し始める。
「命に関わる最低限の応急処置はすべて済ませましたが、一刻も早く本格的な治療が必要です。背中の傷自体も深いですが、何より矢尻に悪質な毒が盛られていたようです。この激しい麻痺の症状からして、おそらくアオガヒイリの毒でしょう。アンジ殿の発見があと少しでも遅れていれば、間違いなく手遅れでした」
アンジが寝台の上の兵士を見ると、毒の進行が抑えられたのか、先ほどよりは少しだけ呼吸が落ち着いたようだった。
「それから、もうひとつ……」
医師は、何やら非常に言いにくそうな様子で、チラリと寝台を見やりながら言葉を続けた。
「処置のために服を脱がせて分かったのですが、この兵士……どうも女性のようです。胸元が、サラシのような分厚い布で、固く隠されていました」
「女性……!?」




