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22



 その直撃を受けたのは、事態に気づかずに眠り続けていたあの罪人の男だった。矢は男の胸の真ん中を深く貫いていた。


「うっ……あ、が……」


 男が短く呻いた。

 彼が着せられていた罪人服の粗末な白い麻布に、わずかな赤が滲んでゆく。男の身体は数度痙攣した後、そのまま動かなくなった。

 口封じだ。年寄衆の放った追っ手が、ついにここまで追いついてきたのだ。


「きゃあああ!」


 目の前で繰り広げられたあまりにも凄惨な死の光景に、思わずリコの口から高すぎる悲鳴が上がった。

 しかし、その声をかき消すように、ジルはリコの腕を強く引っ張ると、近くにある視界の遮られた深い茂みの中へと全力で彼女の身体を押し込んだ。


「逃げなさい!」


 ジルに鼓膜を破らんばかりの声で怒鳴られて、その気迫に弾かれたようにリコは四つん這いから立ち上がり、無我夢中で駆け出した。背後からはジルが腰のサーベルを鋭く鞘から引き抜く、金属の抜刀音が響き渡る。


 暗闇の森の中、ドクドクと狂ったように心臓が鐘を鳴らしていた。脳のすべての領域を、剥き出しの恐怖が完全に支配する。

 眼鏡がないために木々の輪郭はぼやけ、暗闇も相まって自分がどこを走っているのかすら分からない。それでも、もつれる足を必死に叱咤し、リコはただ前だけを向いて走った。とにかくこの深い森を抜け、広い街道に出れば、近くに明かりの灯る民家や、巡回中の領主軍の兵士を見つけられるかもしれない。


 走る最中も、ジルのことが心配で胸が張り裂けそうだった。だが、戦闘訓練すら受けていない自分が、あの血生臭い戦場に留まって一体何が出来たというのだろうか。足手まといになり、ジルの足を引っ張り、状況をさらに悪化させることは火を見るより明らかだ。


 だが、冷酷な現実は走る彼女の背中を容易く捉えた。

 不意に、リコの背中にドスンという鈍い、凄まじい衝撃が走った。背後からの追撃の矢が肩の辺りを貫いたのだ。衝撃で完全に足を取られ、リコは勢いよく地面へと倒れ込む。

 倒れゆく瞬間、視界の中の景色がまるでスローモーションのようにゆっくりと流れて映った。


「う、あ……っ」


 倒れ込んだ後、ワンテンポ置いてから、焼けるような鋭い激痛が背中の傷口から全身へと広がる。

 痛みに耐えながら必死に振り返ると、そこに立っていたのは、月の光を浴びた見知らぬ黒装束の男だった。男はリコを完全に仕留めるべき獲物として見据えている。その男は冷たい月に刃を煌めかせながら、今度こそ確実に息の根を止めるために静かに剣を抜刀した。


 脳内でジリジリと、最大級の危険を告げる警報が鳴り響く。本能が「早く立ち上がって逃げろ」と叫んでいる。それなのにどうしたことか、みる間に両足から力が抜けていき、指一本動かすことができなくなっていった。

 ……おそらく、矢尻に強力な毒か何かが塗られていたのだろう。リコの視界が急速に歪み、完全にぼやけ始める。

 土に濡れお尻を突いた体勢で、リコは残った右手の力だけでジリジリと無様に後退した。なんとかして、少しでも男から離れ、逃げ道を作らなければならない。

 しかし、そんな彼女の涙ぐましい足掻きを一笑に伏すように、黒装束の男は悠然とした足取で、リコとの距離を一歩ずつ確実に詰めてきた。


「何か言い残すことはあるか」


 男の低く冷徹な声が、静まり返った森に響いた。

 死の足音がすぐ目の前まで迫り、リコの腹の底が凍りつくように冷えてゆく。気がつけば、彼女の細い喉元には、今にも皮膚を切り裂きそうな刃の切先がぴたりと突きつけられていた。


「……あ……、……」


 リコの喉からは、ヒュウ、ヒュウと、空気が漏れるような奇妙な音が出たきりだった。恐怖で声帯が完全にすくみ上り、言葉にならない。男は冷酷な眼差しのまま、リコの息の根を止めようと刃を高く振りかざす。

 万事休す。完全に、時間切れだった。


 だが、死を覚悟してリコが静かに目をつぶった、まさにその刹那だった。

 背後の闇から、地響きを立てるような激しい馬の蹄の音が鳴り響いた。

 凄まじい速度で飛来した一本の短剣が暗闇を裂き、リコに迫っていた男の手元を正確に掠めた。予期せぬ衝撃に男が驚いて後ろへ大きく飛び退いた途端、馬から飛び降りた大柄な、夜の闇よりも深い黒髪を持った男が、巨大な剣を容赦なく振りかざしながら二人の間に猛然と飛び込んできた。


「何をしている」


 低い、獣の唸るような声だ。

 そう思ったのを最後に、リコはとうとう意識を手放した。




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