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国を揺るがす陰謀の渦中から辛くも脱出した二人に用意されていたのは、決して平坦な道のりではなかった。建前上、今回の旅路は「罪人の島流し」である。それゆえ、指定されていた目的地は、王都の華やかさとは対極に位置する、遥か北方の辺境——デンバー領であった。
そこは冬が長く、作物も育ちにくいうえに、地中から採掘できる資源にも乏しい極寒の土地だった。さらに地理的な不吉さとして、常に隣国や国境を脅かす不気味な蛮族の侵略の危険に晒されている、軍事的な最前線でもあった。王都から険しい連峰を越え、未舗装の街道を徒歩で進み、冷たい大河を船で乗り継ぐ。どれほど急いだとしても、最短で二十五日ほどはかかる過酷な工程が待ち受けていた。
現在、デンバー領には将軍府が置かれ北方全域の防衛を司る北の将軍と呼ばれる男が軍を直接指揮していた。 近年は王族の急速な減少という政治的な煽りを受け、現在は王室の血を引く者ではなく、今は亡き王妃の父である厳格な老将軍が、その地位を実質的に引き継いで治めている。
「北の将軍には、陛下が直々に裏から話しを通しておいてくれるそうです。我々が領内へ到着した後は、立場上、一度は公に挨拶に伺わないといけません」
ジルのぶかぶかの制服を着こなし、制帽を目深に被ったリコは、その説明を聞きながらぼやけた視界を泳がせた。
「えっ、北の将軍ってイケメンですか?」
「……あなたのその、どんな状況でも男の顔の造形を気ににする癖は、何とかならないんですかね」
ジルは本当にどうしようもないというふうに、大げさに頭を振る。
彼らの数歩前には、手枷をはめられた本物の罪人の男が、逃亡を諦めたように大人しく従っている。人通りの途絶えた寂しい街道の砂鳴りを聞きながら、ジルは小さく溜め息を吐いた。
「引き連れている罪人の男よりも、急に連れ出されたあなたの方が圧倒的に手がかかりそうで、私は今から恐ろしいですよ」
「そんなことないですよう。昨日、夜営の火の側で、ボロボロに破れていたジルさんの制服の右袖を綺麗に縫ってあげたのは私なんですからね。もっと感謝してください」
「それは……あなたの命を狙う刺客の刃を防いで救ったのですから、それくらいの手伝いは当然でしょう」
「そもそも、私をこんな危険な国家機密の件に巻き込んだのはジルさんじゃないですか。私は下町の自分の家で、のんびり絵を描いて暮らしてたのに。本当は一歩だって王都を離れたくなかったんですからね」
痛いところを突かれたのか、ジルはむっつりと黙り込んでしまう。
リコを救うためとはいえ、彼女の平穏な日常を完全に破壊してしまったのは事実だ。長い沈黙の後、ジルは歩調を緩めることなく、しかし押し殺した声で囁いた。
「……本当に、その件に関しては申し訳なく思っています。あなたの平穏を奪った責任は重い。だからこそ……あなたのことは、この命に代えても私が必ず守ります」
「ふふ、頼りにしてますね」
ニッコリとリコが眼鏡のない素顔で無邪気に笑むと、ジルは妙に気まずそうに、慌てて視線を前方の街道へとずらした。
それからしばらくの間、三人は余計な会話を断ち、黙々と街道を歩き続けた。
当然ながら、鍛え上げられた男二人と違って、基礎的な体力も体格も著しく劣るリコは、二人の容赦のない歩調について行くのに死ぬほどの苦労を強いられた。旅の最初の数日間は地獄そのものだった。硬い軍靴のせいで足には幾つもの痛々しい靴擦れができたし、重い鞄を背負い続けたせいで、肩も腰も、全身のどこかかしこが悲鳴を上げるように痛くなった。
それでも、過酷な旅程が終わりに近づく頃には、人間の環境適応能力というべきか、リコにも驚くほどの体力がつき始めていた。いつの間にか、男二人の歩調に遅れることなく、しっかりとついて行くことができるようになっていたのだ。
心なしか、上着のベルトを締めた感覚から、以前の頼りない身体よりも幾分か全体が締まったような気さえしていた。
「あと、3日もあれば到着しますね。」
その日の夕暮れ、深い森の開けた場所で最後の野宿の準備をしながら、ジルがぽつりと言った。ここを乗り越えれば、残りの旅路はいくつかの宿場町を経由することになるため、ようやく屋根のある場所で休むことができる。
上質な寝袋もなく、王都から持ってきた私物の入った鞄を枕代わりにし、冷たい地べたにゴロリと直接横たわることにも、リコはすっかり慣れてしまっていた。
ふと顔を上げて横に座るジルを見上げると、彼はいつものように、抜刀の構えを崩さぬままサーベルを愛おしそうに抱いて座り込んでいる。リコは旅の間中、彼が一体いつ眠っているのか、それが不思議でならなかった。
やがて辺りは完全な漆黒の暗闇に包まれ、静寂の中に不気味な虫の音がうるさいほどに響き渡る夜となった。
不思議と、いつになく全く眠れなかったリコは、もぞもぞと起き上がってふと夜空を見上げた。王都の空とは違い、空気の澄んだ北方の大気の向こうには、気の遠くなるような無数の星が瞬いていた。
「眠れませんか?」
焚き火の消えかけた残火の向こうから、ジルが静かに低い声で話しかけてきた。少し離れた場所では、木に繋がれた罪人の男が小さないびきをかいて眠っている。今夜は、月の美しい夜だった。
「少しだけ、頭が冴えちゃって」
リコは小さく頷いた。寒さに身を震わせながらもぞりと身体を起こすと、抱きかかえた鞄を胸の前に置いたまま、暖を求めるようにジルの方へ静かに寄り添った。
「たくさん、歩きましたねえ」
「そうですね」
ジルは視線を星空に向けたまま、小さく頷いた。
「ずいぶん、遠くまで来ちゃいました」
「そうですね。王都の者たちは、私たちがまさかこん
な場所まで逃げ延びているとは夢にも思わないでしょう」
「……ジルさん。私たちが初めて出会った日のことを覚えていますか?」
リコの唐突な質問に、ジルの唇の端がわずかに緩んだ。
「もちろんです。忘れるはずがありません。あなたはあの時、鬼の形相でジルベール第一書記官を執拗に追い回していましたからね。私は遠くからそれを見ていて、あまりにも書記官が不憫に思えて、助けに入ったのです」
「ふふ、そうだったんですね。私はあの日、せっかく見つけたイケメンを逃してしまったのが悔しくて……だから、代わりにジルさんに『モデルになってください』ってお願いしたんですよ」
「そうでしたね……あの時は、新手の暗殺者か詐欺師の類かと思って、本気で警戒していました」
「でも、ジルさんの絵、下町の市場で結構売れてるんですよ? 街の女の子たちから『ジルさんの新しい新作の姿絵はまだかー』って、いつもせっつかれてたんですから」
「まあ、悪くはない気分ですね」
ジルが喉の奥で、ククッと小さく笑う声が聞こえる。
その穏やかな横顔を見て、何だかリコは胸の奥がとても嬉しくなった。自分は身寄りのない孤児院で育った身だ。幼い頃から辛いことにも、理不尽な苦しいことにも耐えることには慣れていた。だが、あの孤独だった頃と今が決定的に違うのは、自分のすぐ隣に、命を懸けて「守ってくれる」と言ってくれる、確かな存在がいることだ。
見上げると、やはり透き通るような美しい月夜だった。どこか冷徹でありながらも優しく輝く銀色の月が、誰かに似ているような気がする。
あまりの心地よさに、リコがそっと瞼を閉じようとした、まさにその瞬間だった。
突然、世界が反転した。リコは凄まじい力でジルに引き寄せられ、そのまま二人でもつれ合いながら、冷たい地面に激しく転がった。
「えっ……!?」
驚いて目を見開くと、目の前にはジルの厚い胸板があった。さらに視線を上に上げれば、信じられないほど険しい表情をしたジルの横顔が目に映った。
ジルの鋭い視線の先、さっきまでリコとジルが肩を並べて座っていた場所のすぐ後ろの木に、一本の鋭い矢が深く突き刺さり、不気味に震えている。もし避けるのが一瞬でも遅れていれば、二人の頭部を正確に射抜いていたはずの凶矢。間髪を容れず、ヒュンという冷たい風切り音と共に、二本目の矢が闇を切り裂いて飛来した。
ドスっという、肉を抉る鈍い音が暗闇に響き渡る。




