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 ユーゲン兵長の口から漏れ出たその言葉に、リコは背筋が凍りつくのを感じた。

 ……思ったよりも悪いことのようだ。なんなら予想の遥かに上を行く最悪の惨状である。

 始めはちょっと城へ絵を持って行くだけ、自分の絵が何かのお役に立つならそれだけで御の字、くらいの軽い気持ちでジルの後に付いてきただけなのに。いつの間にか私は、国家の闇の中に潜む見えない誰かに、本気で命を狙われているらしい。

 押し寄せる現実の恐怖に耐えかねて、思わずリコはギュッとジルの服の袖を強く握りしめた。


「兵長、城壁侵入記録簿も証拠の絵もないとなれば、あの男の無実の立証は年寄衆に阻まれて無理でしょう。すぐにリコを王都の外へ逃さないと……!」


「お前の言う通りだ」


 額を突き合わせて、非常に低い声で具体的な逃走経路の相談を始めた二人の男。その緊迫した空気に、リコは大慌てで割って入った。こちとらそう簡単に王都を出て行ける状況では無い。


「ま、待ってください!そんな急に王都を出ろだなんて……私、行けません!」


 先ほどまで怯えて黙りこくっていたリコが、突然遮るように急に声を出したので、ジルが驚いたように顔をあげた。


「あなたは今の状況がどれほど逼迫しているのか分かっていないんです。このまま家に帰せば、明日にはあなたは死体となって転がっていますよ?死にたいんですか?」


「で、でも、急に王都を出ろだなんて……私にも都合が」


 必死に食い下がるリコに対し、ジルは眉間に深いシワを寄せて、諭すように一歩リコへと近づいた。その目には強い意思が宿っている。


「お願いですから、言うことを聞いてください。あなたのことは必ず守ります。落ち着いたら王都へもきっと帰って来れますよ」


「……わかりました」


 そこまで真っ直ぐな目で、必死に「守る」と言われてはリコもこれ以上抵抗出来なかった。

 これから一体どうなってしまうのだろう。先の見えない暗い不安に駆られて、リコは腕に抱えた鞄をギュッと壊れんばかりに抱き寄せる。

 なにやらジルと短い相談を終えた兵長は、最後に二言三言、今後の段取りについての言葉を交わし、部屋を出るために立ち上がった。彼はリコの前に立ち、その鋭い目を少しだけ和らげた。


「リコさん、巻き込んでしまって申し訳ないが今は時間が無い。すぐに王都を出てください。護衛はこのジルに任せます」


「……はい」


 そう言って部屋を足早に出て行く兵長の背中を、リコは力無く見送った。王宮の治安を預かる彼にも、やらねばならない隠蔽工作の阻止や、年寄衆への牽制など、やることが山積しているのだろう。彼の姿はあっという間に廊下の奥に見えなくなり、入れ替わるようにジルが静かに部屋の扉を閉めた。


「いいですか、リコ。よく聞いてください。」


 ジルは振り返ると、部屋の緊張感を維持したまま、ガサゴソと部屋の隅の棚の扉を開け、奥から何か大きな布の塊を取り出した。広げてみれば、それは見慣れた色の布地——どうやら予備の兵士の制服のようだった。


「これは私の制服で申し訳ないですが……今はとりあえずこれを着てください。それを着て、罪人の島流しに付き添う兵として一緒に王都を出ます。あなたが今日城に入城したことはすぐに年寄衆に情報がまわるでしょう。見つかる前に、さっさと逃げますよ」


 リコはもはや反論する気力もなく、黙って頷いた。

 ジルがリコに背を向け、見張り役を買って出たその後ろで、リコは大急ぎで自分の粗末な服を脱ぎ捨て、渡された軍服に袖を通す。成人男性であるジルの服は当然ながらリコにはぶかぶかだったが、袖や裾を幾重にも捲り上げ、大きすぎるウエストは頑丈な革ベルトでなんとか強引に締め上げた。それでも歩くたびに少し腰のあたりが落ちてくる。

 仕上げに、支給品の制帽を目深に被り、自分の特徴である長い三つ編みは器用に帽子の中に隠した。


「着替えましたよ」


 リコが衣服の擦れる音を止めて声をかけると、ジルがこちらを振り向く。そしてリコの姿を上から下まで眺めると、ひどく失礼なことを言った。


「これなら兵士にしか見えませんね、鶏ガラボディが今回は味方したようだ」


「殴りますよ」


 肉付きの薄い自らの体型を揶揄され、リコが拳を握りしめて怒る文句を完全に無視して、ジルは一歩近づくと、リコの顔に手をかけた。


「あなたの瓶底眼鏡は有名ですから、これは外した方がいいですね……」


「え、これも外さないといけないですか?」


 眼鏡を失えば、折角のイケメンを逃してしまうかもしれない。リコが不安を口にすると、ジルは眼鏡のフレームを掴んだまま言った。


「あなたの命には代えられません、しばらくは我慢してください」


 リコは不満げに唇を尖らせただけで、それ以上は大人しくされるがままだった。

 そっと顔から分厚い眼鏡が外されていく。遮るもののなくなったリコの顔から、これまで瓶底レンズの歪みのせいで誰の目にも留まらなかった、アメジスト色の美しい瞳が完全にその姿を現した。夜の微光を吸い込んで、それはまるで最高級の宝石のように妖しく、深く輝いている。


 目の前で、リコの素顔を至近距離から見てしまったジルが、突然言葉を失い、驚いたように小さく息を呑んだのが分かった。部屋の空気が一瞬だけ止まる。


「……今まで、なんてものを隠していたんですかあなたは」


 ジルの声は、どこか呆然とした、戸惑いを含んだものに変わっていた。リコは視界がぼやけて彼の正確な表情が見えない中、心外そうに言い返した。


「……なんですか、眼鏡してる顔の方が良いって言ってるんですか?失礼な」


「いや、そういうことでは……いえ、やっぱりそういうことですね。あなたは眼鏡をしていた方がいい。うん。絶対にその方がいい」


 何かから目を逸らすように、ジルはぶつぶつと自分に言い聞かせるように言葉を重ねた。リコはその態度がますます気に入らず、吐き捨てるように言った。


「このブタ野郎」


「今のあなたに言われると、何だか……いえ、何でもありません。とにかくこの眼鏡は私が預かります」


 ジルがガサゴソと、外した眼鏡を壊れないように布に包んで内ポケットへ片付け、旅の支給品や何かを準備している間、リコも鞄をたぐり寄せ、さっきまで着ていた自分の服を丁寧に畳んで詰めた。

 

 薄暗い事務室の中でしばらく二人が息を潜めて待っていると、廊下から再び足音が近づき、ユーゲン兵長が姿を現した。

 兵長はジルの前に立つと、周囲に見つからぬよう懐からいくつかの書類と、逃亡資金となるまとまった金銭を渡しているようだった。

 眼鏡を取り上げられてすべての輪郭が優しくぼやける今の状態なら、あの恐ろしい三白眼の兵長の顔も、なんだか角が取れてまろやかになって見える気がする。リコはそんな現実逃避に近いことを考えていた。


「事情を知っているものが少なく、護衛がジルしかつけられない。すまない」


 兵長は低く重い声でそう言うと、最後に二人の若い兵士——片方は偽物の兵士だが——の肩に手を置いた。


「……二人とも気をつけてくれ」


 今日はお屋敷で豪華な晩餐をご馳走になっていたのに、一夜にして逃亡者の身分だ。兵長に静かに見送られ、胸の中に言葉にできない一抹の不安と重い責任を残しながら、リコとジルは足早にその部屋を出た。

 通用口から外へ出ると、夜風が容赦なく吹き付け、ぶかぶかの制服を揺らす。視界がぼやけるリコの手を、ジルが再び力強く握り締めた。




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