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 ジルの白銀の髪の間、こめかみから垂れる血をそっとハンカチで拭う。それは激しい戦闘から時間が経過していたため、既に完全に乾いていて茶色くなっていた。


「……先程は、助けてくださってありがとうございました」


 リコは、いつもの騒がしさを押し殺した、小さな声で礼を告げた。

 静かな事務室の中で、わずかな衣擦れの音だけが響く。先ほど自分の目の前で輝いた抜き身の白刃、そして火花を散らした金属音。それらを思い出すと、今更ながらに身体の芯から恐怖が這い上がってきた。


「本当に、ジルさんが居なかったら私はどうなっていたことか……」


「……仕事ですから。あなたが無事だったらそれでいいんですよ、リコ」


 ジルはハンカチの感触に少し身を硬くしながらも、どこか穏やかな声でそう応じた。


「怪我までして。どこかに消毒薬は無いのですか?」


「大した怪我ではありませんから大丈夫です。今は急ぎますので、用が済んだら医務室へ伺いますよ」


「必ず行ってくださいね」


 乾いたハンカチではこびりついた血を拭うのにも限界がある。リコはすぐに綺麗にすることを諦めた。

 手を戻すと、ジルは言葉を発することなく、ジッとリコのことを見つめている。その真摯な眼差しに見つめられると何となく居心地が悪くなって、リコは自身の顔の半分を覆うような分厚い瓶底眼鏡の向こうで視線を逸らした。


「事情を説明してくれますか?」


「ああ、そういう約束でしたね。さて、どこから話したものか……」


 ジルは視線を落とし、少し考えるように膝に腕をついて体の前で手を組んだ。


「先日、隣国のイデール王国から王子が国賓として来城したのは知っていますか?」


「ええ、もちろん知っています!盛大な大名行列で近所中の噂でしたもの!イデールの王子はイケメンだったって、私も見にいけば良かったなあ」


「これは極秘ですが、その王子のお茶菓子に毒が盛られていたのです。犯人とされる男が見つかったのですが、どうやら濡れ衣のようでして……」


 リコは身を乗り出し、ジルから詳しく話しを聞いた。

 毒を盛ったとされる第一容疑者は、ヘクセル王子の世話係を務めていた男。そして、その男が犯行時刻に厨房にいたという証拠は、何者かによって完璧に捏造されたものであること。そして何より、男が無罪を主張していた「その時間は中庭で猫と遊んでいた」という、誰も信じなかった『悪魔の証明』を完璧に覆す唯一の光が、リコが今朝までアトリエに置いていた、あの描きかけの絵だったということ。


 驚いてあんぐりと口を開けたまま、事態の大きさにリコが何も言えないでいると、ガチャリと静寂を破って部屋の扉が開いた。

 入ってきたのは黒髪の鋭い三白眼を持った一人の男だった。彼は周囲を威圧するようなキビキビとした動作で入室して来た。途端に、それまでリコの前に座っていたジルがガタリと音を立てて椅子から立ち上がり、直立不動の姿勢で敬礼する。


「ユーゲン兵長、娘を連れて参りました」


 訳もわからず、リコは男の放つ圧倒的な凶相と軍人特有の威圧感に気圧されて、反射的にジルの大きな後ろへ一歩隠れた。

 この男、確かに中々の強面であり、街の不良が裸足で逃げ出しそうな冷徹さを纏っているが、骨格が整っており、それはそれで一部の熱狂的な婦人層に人気を博しそうな顔をしている。画家としての本能が刺激され、もし彼の姿絵を描けば下町の市場で大層売れそうだ、などという不謹慎な思考が一瞬頭をよぎる。


 リコの頭の中で、早くもお金の音がチャリンチャリンと景気よく響いている中、兵長と呼ばれたその男は散らかった方の机のそばに立って、ジルの背後に隠れるリコのことをじっと見つめた。その三白眼がリコを射抜く。


「ご苦労だったな、ジル。話は聞いている」


「兵長、それが……城へ来る途中、絵を取りに彼女の家へ寄ったところ刺客が待ち構えており、一戦を交えました」


 ジルの報告を聞いたユーゲン兵長の鋭い視線が、ジルの怪我したこめかみ、そして派手に破れた制服の右袖へと静かに動いた。


「残念ながら絵は既に何者かに奪われた後のようで、見つけられませんでした」


「刺客は?」


「申し訳ありません、取り逃しました」


「そうか」


 兵長は感情を読み取らせない声でそれだけ言うと、ドサリと重々しい音を立てて部屋のさらに奥の方にある上座の事務机に腰をかけた。

 その机の上には、書類が乱雑に積み上げられており、それぞれの束の前に「決裁」「未決」と書かれた木製の箱が置かれている。書類が次々と放り込まれている様子からして、その机が兵長自身のものであることは明白だった。


「危惧していたことだ」


 黒髪の兵長は、深く背もたれに体重を預け、苦渋を噛み締めるように難しそうに口を開いた。


「こちらも陛下に話を聞いてからすぐにその娘、リコと言ったか、その娘の城壁侵入記録簿を取り寄せに行ったのだ。だが、その娘の報告書は無かった」


「えっ、確かにあの日私が報告書をあげましたが」


 ジルの声が驚きで裏返る。リコが不法侵入したという公式の記録、それこそが「絵が描かれた日時」を公的に証明する第二の矢となるはずだった。


「そうだ。消されている。しかも、厨房で怪しい男を見たと証言した者の行方も分からなくなっている」


「……そんなことが」


 ジルがこれまでにないほど深く眉間にシワを寄せている。

 事態は、彼らの予測を遥かに超える速度で悪化していた。証拠となる絵は奪われ、それを補強するはずの公式記録は抹消され、さらに事件の鍵を握る偽証者までもが闇に葬られたか、あるいは年寄衆の手によって隠匿された。リコには政治の細かい仕組みまでは詳しくは分からないが、何かしら決定的に良くないことが起きていることだけは、室内の凍り付いた空気から十分に分かった。


「お前が刺客を撃退したのは幸いだ。急いでその娘を匿わねば……殺されてしまう」





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