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17

 



 ジルは暗闇から現れた刃を弾き返し、扉の奥に広がる不気味な暗闇に向かって、迷うことなく真っ直ぐに己のサーベルを突き立てた。そのまま勢いよく、ジルは家の中へと敵を押し込むようにもつれ込んでいく。

 一瞬のタイムラグの後、暗闇に包まれた家の中から、再び何度も耳を劈くような甲高い金属音が鳴り響いた。


「あ、あ……」


 リコは地面にへたり込んだまま、声にならない声を漏らすことしかできなかった。

 ドタン、ガコンと、慣れ親しんだ我が家の中から、およそ生活音とはかけ離れた激しい破壊音が鳴り響く。狭い家の中で、リコが大切にしていた陶器の置物や、飾られていた小物が粉々に割れる絶望的な音が聞こえてきた。

 恐怖で身体が硬直する。どのくらいの時間が経っただろうか。最後にガシャンと、アトリエの窓ガラスが派手に割れる轟音が夜の路地に響き渡り、それを境に、ようやく嵐のような静寂が訪れた。

 玄関先で腰を抜かしたまま、指一本動かすことができないリコの元に、暗闇の奥からゆっくりと人影が近づいてきた。ジルだった。彼はひどく忌々しそうに大きな舌打ちをして、顔を顰めている。


「逃げられました……大丈夫ですか、リコ?」


「わ、私……」


 次から次へと起こる異常事態に、脳の処理が追いつかない。言葉が全く出てこないまま、リコはただ茫然とジルを見上げた。

 彼はサーベルを右手に持ったまま、左手で血と汗で乱れた白銀の髪を乱暴にかきあげている。暗闇の中でどれほど激しくやり合ったのだろうか、彼のこめかみからは一筋の赤い血が滲み、兵士の制服の右腕は、鋭利な刃物で切り裂かれたように無惨に破れていた。


「ジ、ジルさんこそ、その怪我……」


「私?私ですか?私は平気です。こう見えても訓練を積んだ兵士ですから、この程度の荒事には慣れています。それより……あなたが無事で、本当に良かった。扉が開いて、あなたの目の前に敵が見えた時、私は本当に生きた心地がしませんでしたよ……」


 大きく一つ息をつきながら、ジルはサーベルを鞘に収め、リコの小さな手を握って優しく地面から立たせてくれた。

 彼の温かい手に触れた瞬間、遅れてやってきた凄まじい恐怖の感情がリコの全身を支配した。身体がガタガタと震え出し、嫌な風に心臓がドキンドキンと脈打っているのが、自分でも痛いほどよく分かった。あそこでジルが助けてくれなければ、自分は今頃、冷たい死体になっていたのだ。


「のんびりしている暇はありません。急いで城へ行かないと。すぐに必要なものだけ、家の中から持ってきてください。この様子じゃあ、恐らく数日はこの家を空けることになる」


「は、はい……」


 まだ完全に頭が回らないまま、リコはジルの指示に従って、荒らされた家の中に足を踏み入れた。慌てて引き出しから最低限の貴重品を掴み、着替えの服を数枚、鞄に押し込む。もともと貧しい絵描きの一人暮らしであり、荷物の少ない家なので、持ち出すべきものも驚くほど少ない。

 さすがに、これまで集めてきた重い画材一式をすべて持っていくことは不可能だ。しかし、せめて肌身離さず持っているスケッチブックと木炭くらいは持って行こうと、おそるおそるアトリエに足を踏み入れると、そこにはジルが腕を組み、非常に難しい顔をして立ち尽くしていた。

 リコはジルの視線の先を追った。


「絵は盗まれてしまったようですね……」


「絵、ですか?」


 リコは首を傾げ、散らかり放題のアトリエの辺りを見回した。

 先ほどの激しい戦闘のせいで、キャンバスはなぎ倒され、家の中はぐちゃぐちゃになっている。だが、よく観察すると、戦いの衝撃で散らかっただけでなく、棚が乱暴に荒らされていたり、机の引き出しがすべて引き出されていたりした形跡がある。誰かが明確な目的を持って、この部屋を捜索したのだ。

 そんな惨状だったから、鈍感なリコはアトリエから具体的に何が盗まれたのかなんて全く気がつかなかった。ただ、寝室の奥に隠しておいた、これまでのささやかな貴重品が無事だったのは、不幸中の幸いと言うべきだろう。


「中庭で男と猫が戯れている絵ですよ。今朝、私に見せてくれたじゃないですか。」


「あ、本当ですね……」


 ジルの言葉に促されてイーゼルの上を見ると、そこにあるはずのキャンバスが消え失せていた。

 そう言えば今朝の朝食の際に、固いパンをモゴモゴと口に含みながら、二人でその描きかけの絵について、「この光の表現が良い」だの「猫の毛並みがどうだ」だのと、あーでもないこーでもないと言い合ったのだ。

 あれからリコなりにインスピレーションを得て、さらに筆を加え、ほとんど完成間近にまで仕上がっていた大切な作品だった。それがこんな形で盗まれてしまったのは、一人の芸術家として純粋に残念であり、悲しかった。


「ジルさん、そんなにあの絵が気に入ってたんですか。なんだあ、とうとうジルさんも、私の描く絵の本当の価値を分かってくれるようになったんだ……」


 リコは少しだけ場を和ませようと、いつもの調子で軽口を叩いた。しかし、ジルの反応はリコの予想とは全く異なるものだった。


「あの絵の価値を分かってないのは、あなたの方です。あれは、ただの風景画じゃない。人一人の命が、ひいては、この国家の政局を根底から揺るがす価値がある絵です。現に今や、あの絵のおかげで、あなたの命までが刺客に狙われる羽目になっている……!」


 リコの言葉を鋭く遮って、ジルは絞り出すように、辛そうに言った。

 彼の灰色の瞳には、怒りと、それ以上の深い悲痛さが滲んでいる。そんな、今までに見たこともないような深刻な表情をされては、リコもこれ以上ふざけるわけにはいかず、返す言葉を完全に失ってしまった。


 ただ、偶然目にした光景を描いた絵。城壁の穴から忍び込んで、中庭で猫と遊ぶ優しそうな世話係の男を描いた、ただそれだけの絵が、なぜ人の命や国家の政治に関わるというのだろうか。


「……これ以上ここに留まるのは危険です。急ぎましょう、詳しい事情は、城に着いてから話します」


 ジルのその言葉を最後に、二人は破壊された思い出の詰まった家を後にした。

 割れた窓ガラスから差し込む冷たい夜風が、リコの頬をなでる。リコはジルに手を引かれながら、自分が知らぬ間に引き返せない不条理な渦へと巻き込まれていくのを肌で感じていた。





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