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「だが、それを信ずるに値するだけの証拠が、今ここにはないのだ」


 王も、自らの胸を締め付ける感情を押し殺し、歯痒そうに答えた。

 犯人とされるこの男は、犯行時刻とされる時間帯の厨房の出入りが目撃され、服の裾から毒と同じ成分が検出されたのだ。男は無実を主張するが、それを裏付けるアリバイがひとつもない。客観的な事実の前には、王の個人的な直感など何の役にも立たなかった。 


「本当に、本当に私は厨房などへは行っておりません!あの時間帯は、私はひとりで中庭にいたのです……。誰もいない場所にいたということを、どうやって証明しろと言うのですか。それを証せとは……あまりにも酷な、悪魔の証明であります……!」


 弱々しく、諦めたように男が声を出す。

 誰もいない中庭に、ただ一人で佇んでいたという事実。それを証明することは、目撃者が存在しない以上、不可能なことだった。


「……己の無実を証明出来ないのであれば、潔くその命を差し出せ。ヘクセルのために」


 王の言葉に、地下の拘置所が水を打ったように静かになった。

 その言葉は残酷に響いた。これ以上醜く無実を叫び続ければ、年寄衆はそれを「ヘクセル王子による口封じの工作」として利用し、王子の罪をさらに深く捏造するだろう。男がここで沈黙し、罪を背負って死ぬことだけが、皮肉にも愛する主君を守る唯一の方法だった。王の真意を悟ったのか、やがて男が心を決めたように息を呑む音が響き渡る。


「陛下……不肖ながら私は、世話係としてヘクセル殿下に心よりお仕えしてまいりました。望むべくもない状況ですが……殿下のため、この国の安寧のためとなるのでありましたら、この命、喜んで差し出しましょう」


 男は震える手で毒杯を掴む。

 黒く塗られた木製の杯には、並々と死の液体が満たされていた。男の指先は小刻みに震えていたが、その声には不思議なほどの気高さが宿り始めていた。


「陛下、殿下のために命を捧げる身として、どうかひとつだけ、最期の願いをお聞き届けください」


「かまわん、申せ。余の届く範囲であれば、必ず叶えよう」


「この事件の業は、全て私が背負って冥府へと逝きます。ゆえに、どうか……残される私の家族と、ヘクセル殿下にだけは、これ以上の火の粉がかかりませぬよう、お守りください……」


 薄紙の向こうでも、男が涙を流したのがわかった。

 白い紙が涙を吸って、じわりと色を変えていく。無実の罪で命を落とす男の、それがこの世に残す最後の未練であり、切なる祈りだった。王は力強く頷いて返す。


「必ずや、そのようにしよう。そなたの家族には、誰一人、指一本たりとも出させぬと誓おう」


 王の堅い約束は、暗い地下室において絶対の法としての響きを持っていた。年寄衆への牽制も含めた、王の精一杯の誓いだった。王の言葉に、男は意を決したのか杯を掲げ、堂々と背筋を伸ばす。先ほどまでの怯えた囚人の姿はそこになく、主君に命を捧げる一人の忠臣としての誇りが、その背中に満ちていた。


「陛下の御代よ、八千代に……!!」


 男は高らかに申すと、杯を煽った。

 ゴクリと喉が動き、男が苦しそうに呻く。毒の即効性は凄まじく、男の身体は激しく拒絶反応を起こした。しかし次第に男の呼吸は小さくなり、やがてすぐに息絶えた。床に崩れ落ちたその身体は、二度と動くことはなかった。


 安堵したように年寄衆がゾロゾロと下がっていく中、王は動けずにジッと息絶えた男を見下ろしていた。

 大臣たちは、まるで観劇でも終えたかのように満足げな足取りで、一人、また一人と去っていく。彼らの背中を見送りながら、王の心には冷たい怒りと、自らの無力さに対する激しい嫌悪が渦巻いていた。指示を出された下っ端兵が遺体に駆け寄り、死体を運ぶ準備を始める。


 牢の鍵が開き、若い兵士が中へ入っていった。兵士は男の遺体の前に膝を突き、処刑の完了を確認するためにその顔に手を伸ばす。

 薄紙を外した瞬間、その兵は少しの間息を止め、みるみるうちに顔色が悪くなっていった。

 白銀の髪を持ったその若い兵士は、まるで信じられないものを見たかのように、目を見開いたまま完全に硬直してしまった。死体を見るのは初めてなのかもしれない。王は兵の側に寄り話しかける。


「気持ちの良いものではないな。初陣の身には、少し刺激が強すぎたか」


「陛下……っ!」


 下っ端兵は驚いたように控えると、慌てて敬礼をとった。


「そなたのような、陽の当たらぬ仕事を黙々とこなす者がいるからこそ、この組織が成り立つのだ。……茶を下賜しよう。後で東第二棟の客間に来るが良い。少し心を落ち着かせるといい」


 王はあえて多くを追及せず、ただその労いの言葉だけを残して背を向ける。

 ジルゼンは王の側で下の者に目配せをした。仕事のできる女官が心得たとばかりに下がる。部屋に行けば既に茶の用意が整っているであろう。

 王宮の暗黙の了解に従い、女官は音もなくその場を離れ、王が到着するまでの短い時間で完璧な準備を整えるために走った。

 王は行きとは違ってゆっくりと歩をすすめ小さな部屋へ向かった。テーブルと椅子が用意された小さな客間である。

 先ほどまでの急ぎ足とは対照的に、王の足取りは重かった。一歩進むごとに、先ほど命を散らせた男の悲痛な叫びが耳の奥で蘇るようだった。東第二棟の隅にあるその部屋に入り、ビロードのソファに腰掛けると、腰が優しく沈んだ。


 王が席に着くと、すぐに部屋に良い香りが充満し、メイドが茶を持ってきた。少しだけ熱めに淹れたティーポットから香り豊かなお茶がカップに注がれる。湯気と共に広がるのは、王が好む特有の甘酸っぱい香りだ。

 王は口角を下げてお茶の湯気を見つめた。先ほど呆気なく命を散らせた男を想う。こうして一つ、重い石が肩に継ぎ足されるのだ。数えきれぬ重責を背負えど、常に進み続けなければならない。

 王という地位は、孤独と不条理の塊だった。多くの人間を守るために、時には少数の無辜の民を切り捨てねばならない。そのたびに、見えない重石が王の身体を押し潰そうとする。それでも、立ち止まることは破滅を意味していた。

 ジルゼンが一歩進み、王に告げた。


「陛下、先ほどのかの兵士が到着したようです。お通ししてもよろしいですか」


「通せ」


 王が告げると、すぐに扉が開き先程の下っ端兵、白銀の髪の兵士が入ってきた。幾分固い面持ちで、椅子の横に立っている。

 兵士の顔色は、地下にいた時よりもさらに白くなっているように見えた。彼は自らの身にこれから何が起こるのかを恐れるように、直立不動の姿勢のまま微動だにしない。


「非公式のものだ。余とそなたしかおらん、座って楽に茶を楽しむが良い」


「……ありがとうございます。失礼いたします」


 固い動きでその男は席についたが、カップには手をつけなかった。恐らく、なぜ自分が呼ばれたのかはかりかねているだろう。

 目の前に置かれた上質な磁器のカップから、豊かな湯気が立ち上っている。しかし、兵士の目はそれに焦点を合わせることもなく、ただ一点を見つめて固まっていた。


「名は、何という」


「ジル、と申します。ユーゲン兵長の隊に所属しております」



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