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「……うるさい」


「ははは!」


 弾かれたようにケタケタと笑う同僚の声が、静かな執務室に響く。ジルは思わずこめかみを強く押さえ、押し寄せる頭痛に耐えるように目を閉じた。


 ジルが同僚とそんな減らず口を叩き合っていた、その時だった。

 執務室の重い木製の扉が開き、いつも以上に険しい表情を浮かべたユーゲン兵長が、一束の分厚い報告書を抱えて入ってきた。兵長はドサリと音を立てて自分の椅子に座ると、疲労の極みに達した様子で、持っていた書類をジルの机の上へと滑らせた。


「……すぐに、この書類を公式の公文書としてまとめてくれ。内容の精査と署名ができ上がり次第、すぐに手続きを踏んで、犯人の処刑が執行される」


 ジルのペンを握る手が、ピタリと止まった。彼は差し出された書類に目を落とし、驚きに眉根を寄せて訝しんだ。


「え……? 兵長、いくら何でも、こんなにすぐですか……? 事件の発覚からまだ数日しか経っていませんし、取り調べだって、昨夜の段階ではまだ決定的な供述は得られていなかったはずですが」


 王城での暗殺未遂という大罪とはいえ、通常であれば、背後関係の徹底的なあぶり出しや、手続きを挟むため、刑の執行までには数ヶ月の猶予があるのが通例だ。これほどの拙速な処刑は、明らかに異常だった。


 兵長は疲れた様子でただ仕方ないといったふうに、深く頭を振った。


「宮廷の『年寄衆』から強い圧力がかかった。どうやら、陛下と裏で何やら取り引きをしたようだ」


「……では、ヘクセル王子はどうなるのですか?」


 ジルは思わず声を潜めた。ヘクセル王子は、我が国の第一王子だ。今回毒殺未遂の犯人として捕縛されたのは、その王子の最も近くに仕えていた筆頭世話係の男である。

 もしその男が正式に罪を認め、そのままスピード処刑されるとなれば、主である第一王子もまた、「隣国の王子の暗殺を企てた首謀者」としての疑いを消せないまま、苦境に立たされるはずだ。何かしらの蟄居や、王位継承権の剥奪といった重い処罰が下る可能性があった。


「王子はお咎め無しだ」


 兵長は短く、冷徹な事実だけを告げた。


「お偉いさん方はこの機に乗じて何をするか分からん。……とにかく、今回の件に関して第一王子の関与は『一切なかった』ということで幕引きだ」


 ひとまずヘクセル王子にお咎め無しという結果を聞き、ジルはホッと胸を撫で下ろす安堵の息を吐いた。だが同時にその裏にある宮廷の冷酷な力学を察し、背筋が寒くなる。

 恐らく、この事件を機に第一王子の権威を失墜させようと追求の構えを見せる年寄衆と、何としてでも我が子を庇い立てしたい陛下との間で政治的駆け引きがあったのだろう。

 その妥協の産物として、「すべての罪を世話係一人の単独犯として擦り付け、早々に処刑して口を封じる」という結論に至ったのだ。


 思わぬ方向へ事が動いているが、これ以上の激震を望まず、早々に事件の決着をつけたい陛下と、第一王子側の陣営に消えない「泥」を塗ることに成功した年寄衆との間で、一時的な思惑が一致したのだろう。犠牲になるのは、地下牢にいる男一人だ。


「……わかりました。すぐに、陛下へ提出できる形に仕上げます」


「頼んだ。書類が出来たら、お前自身が伝令として拘置所へそのまま書類を持ってきてくれ。刑の執行に立ち会う検察官への手渡しが必要だ」


「わかりました。直ちに取り掛かります」


 ジルは短く返事をすると、すぐにペンをインク瓶に浸した。

 王城の裏で蠢く、ドス黒い権力の闇。それに比べれば、今朝リコと共に歩いたあの小麦の香りが漂う朝の市場がいかに平和で、愛おしい場所だったかを痛感する。ジルはあの不法侵入ばかり繰り返す馬鹿な少女が、決してこの闇の渦に巻き込まれないようにと祈りながら、猛然と書類を作成し始めるのだった。



◇◆◇



 石造りの長い地下通路には、不吉なほど冷ややかな湿気が満ちていた。

 王は大股で服の裾を翻し、拘置所へ急いだ。すぐこの場で処刑が断行されるという、あまりにも唐突な報せがもたらされたからだ。王宮を揺るがした毒殺未遂事件。その犯人として捕らえられた男の命の灯火が、まさに今、消されようとしていた。


「無念です、陛下。まさか年寄衆がここまで強硬に手続きを進めてしまうとは……」


「私もだ、ジルゼン。奴らに先手を打たれた」


 側仕えのジルゼンは白髪頭を垂れながら王に続いた。二人の足音が、重苦しい残響となって天井の闇に吸い込まれていく。


 ヘクセル王子の世話係の男がすぐに処刑される。恐らくこの男は無実なのであろう。提出された捜査報告書に目を通したときから、王はその不自然さを感じ取っていた。あまりにも綺麗に証拠が揃いすぎているのだ。目撃証言、衣服から検出された毒物の微粒子。どれもが、最初から彼を犯人に仕立て上げるために用意されたかのような、完璧なお膳立てだった。

 背後にいるのは、王権の拡大を阻もうとする保守派の重鎮——年寄衆に違いない。彼らはヘクセル王子に汚名を着せ、その地盤を揺るがすために、最も近い距離にいる世話係の命を狙った。

 王とてその企みには気づいていた。しかし、一介の世話係の命を救うために年寄衆の決定を覆すには、それを裏付けるための時間が足りなかった。今日という日を逃せば、年寄衆は「王は身内の罪を隠蔽しようとしている」と民衆を煽るだろう。王にとっては、血を吐くような苦渋の決断であった。


 王が拘置所に着いたときには、年寄衆の重鎮が並び、既に処刑の手筈は整っていた。

 地下の最深部にある広間は、松明の炎が怪しく揺らめき、壁際に並ぶ老人たちの冷酷な表情を浮かび上がらせている。彼らにとって、この処刑は正義の執行ではなく、政敵を追い詰めるための確実な一手でしかなかった。王は牢を挟んで、頭垂れた男に一歩近づく。


 重い鉄格子の向こうで、囚人服を着た男が床に膝を突き、絶望の淵に立たされていた。


「……最期に、何か言うことはあるか」


 慣例により世話係の男の顔には薄紙が垂らされ、王の顔が見れないようにされている。その男は頭垂れたまま、実に歯痒そうにうめいた。


「無実です……! 私は何もやっていません。神に誓って、ヘクセル殿下も何も知らぬことです……!」








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