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「今回の騒ぎのせいで、ここ数日間、城から一歩も出られずに働いていたんですよ。疲れ果てて、もうここから宿舎までのわずかな距離すら、歩く体力が残っていません。……王都で私が遭難して死んでもいいのですか」


 きっぱりと、堂々と、さも自分が被害者であるかのように言い切ったジルに、リコはしばらく呆気にとられていたが、やがてフゥと諦めたように大きな溜息をついた。彼の目の下の、今にも消え入りそうなほど濃い隈を見れば、それが嘘偽りのない限界状態であることは一目瞭然だったからだ。


 リコは奥の部屋から、自分の薄い予備の掛け布団を持ってくると、ソファの上のジルにそっと、かつ乱暴に投げかけた。そして部屋の中心にある主カンテラの芯を下げ、明かりを消していく。

 実際、ジルは本当に疲れ果てていた。衣服から微かに香る絵の具の匂いと、リコの家の独特の生活臭が、彼のガチガチに強張っていた脳の緊張を、心地よく解きほぐしていく。瞼が鉛のように重い。


「……いいですか、ジルさん。もし、夜中に私が寝ている寝室のドアを開けて入ってきたら、容赦なくその腕に噛みついてやりますからね!」


 リコは、手元を照らす小さなカンテラを抱えながら、寝室の引き戸の隙間から顔を出して、精一杯の威嚇を放った。

 ジルは目を閉じたまま、顔の前で手をシッシッと振り、犬でも追い払うような動作をして見せた。


「安心してください。あなたのような、肉の削ぎ落とされた鶏ガラのような娘には、天地がひっくり返っても興味はありません。早く寝なさい」


「な、なんですってー!もう、本当に失礼な人!」


 リコはぷっくりと頬を膨らませ、怒りにまかせてバタンと音を立てて寝室の戸を閉めた。

 カンテラの小さな光が消え、アトリエには完全な静寂と、窓から差し込む淡い月光だけが残された。

 暗闇の中、ジルは布団に深く包まりながら、小さく息を吐いた。

 城内を覆う、あの血生臭い陰謀や、明日の朝から始まるであろう醜い権力闘争。それらのすべてが、この狭く薄汚れたアトリエの壁一枚に阻まれて、遠い世界の出来事のように感じられる。

 彼女の不用心さに呆れつつも、この変わらない「日常」がそこにあることに、ジルは心からの救いを感じていた。彼はリコの怒った顔を思い浮かべながら、数日ぶりとなる、深く穏やかな眠りの中へとゆっくりと落ちていくのだった。



◇◆◇



「おいジル、おはよう。……聞いたぞ、今朝リコちゃんと仲良くパン屋に行ってたんだって?」


 翌日、ジルがまだ重い身体を引きずるようにして出勤すると、すでに自分の席についていたいつもの同僚が、これ以上ないほどニヤニヤとした笑みを浮かべて話しかけてきた。

 ジルは手にしていた書類を机に置くと、死んだ魚のような目で同僚をジットリと見上げた。


「……一体、誰にそれを聞いたんですか」


 ジルの湿度の高い視線など、同僚は意に介す様子もなかった。彼はますます笑みを深くし、楽しそうに指をパチンと鳴らす。


「誰って、城の食堂のおばちゃんだよ。今朝、出勤するときに市場の裏のパン屋から、焼き立ての大きなバゲットの袋を抱えて、これまた大きな袋を持ったリコちゃんの背中を押して歩くお前を見かけたんだってさあ」


(なんと、女の噂話の恐ろしいことか……)


 ジルは心の中で頭を抱えた。まだ朝の業務が始まって一時間も経っていないというのに、すでに一般市民の動向が王城の食堂にまで筒抜けになっている。この調子だと、午前中が終わる頃には、城中の情報通のメイドたちの間で「ジルの朝帰り」として、尾ひれがついて噂が回りきっているに違いない。

 女たちの凄まじい情報伝達速度に恐れ慄いているジルの肩を、同僚はポンと軽く叩いた。


「今さら隠すことないだろ?おいおい、とうとうあのアトリエにお泊まりかよ。やるなぁ、お前も」


「隠すも何も、あなたに私のプライベートを逐一報告する必要は無いでしょう」


 ジルは冷淡に突き放すが、同僚は「なんだよ、つめてーなあ」と、まったく堪えていない。


「別に、あなたの下品な脳みそが思っているようなことは何もありませんよ。昨夜、彼女に『もうしばらく城に来るな』と忠告しに行ったんです。そうしたら、あまりにも連日の激務で疲れていたため、帰る体力が残っておらず、彼女の部屋のソファで泥のように眠ってしまっただけです」


「ふーん?仕事が終わったのも、日付が変わる直前だったのにさ。それからわざわざ宿舎とは真逆の方向にあるリコちゃんの家に行ったわけだ。ふーん、なるほどねぇ?」


 同僚の、すべてを察したようなニヤケ顔に、ジルは言い知れぬ決まずさを覚えてそっぽを向いた。


「……別に、他意はありません。あの人は孤児院あがりで、放っておくと生活のすべてを犠牲にして絵の具を買い漁り、食事もまともにとらない様な無鉄砲な女です。……だから、ついつい昔の癖で、世話を焼いてしまうだけですよ」


 そう、ボソリと言い訳を口にしながら、ジルは今朝の出来事を思い出していた。

 朝、ソファの上で目を覚ましたジルは、台所の棚に食材が何一つ残っていないことに気づいた。朝食を取ろうにも、わずかばかりのスープの残滓しかない。呆れ果てたジルは、まだ眠い目をこするリコの首根っこを掴んで街のパン屋へと連行したのだ。

 せめて数日間は飢えずに済むようにと、小麦の香ばしい匂いが漂う店内で、大量の黒パンやバゲットを買い込んでリコに持たせた。おかげで、しがない下っ端兵であるジルの財布は、朝一番からひどく寂しいことになってしまっている。


 まったく、合点がいかない。リコは富豪の奥方たちから、それなりの大金を稼いでいるはずなのだ。それなのに、なぜ自分の身の回りのことにはあんなにも無頓着でいられるのだろうか。

 あの稼ぎがあれば、もっと治安が良くて壁の厚い、安全な家に住めばいい。服だって、いつも着ているような、あちこちに油絵の具のシミがついた質素なワンピースではなく、普通の町娘が着るような、綺麗で可愛らしい物を買えばいいのだ。それなのに彼女は、すべてをキャンバスと絵の具に変えてしまう。


 ジルがそんな不満を心の中で溢れさせていると、同僚はようやくからかうのをやめて自分の席についた。彼は机に肘をついたまま、形の良い唇を綺麗な三日月形に吊り上げて不敵に笑う。そして最後にこう言い放ちやがった。


「なあジル、お前さ……リコちゃんのこと、好きなんだろ?」



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