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小さな古い家がひしめき合うように建ち並ぶ、薄暗い住宅街の一角。その中でも、さらに一段と粗末で、今にも崩れそうな小さなアトリエ兼住宅があった。
中の住人はまだ起きているのだろうか、小さな歪んだ窓からは、カンテラの柔らかな明かりが漏れている。ジルは扉の前に立つと、几帳面に3度ドアをノックした。
「はーい、どちらさまですか?」
間髪入れずに、ガチャリと鍵が開く音がして、扉が大きく開かれた。
ジルは、そのあまりの警戒心の無さに、一瞬で頭の芯がカッと熱くなるのを感じた。わずかばかりの憤りと、それ以上の安堵から少し眉根を寄せ、彼女を室内に押し込むようにして、スルリと狭い家の中へ入り込んだ。
相も変わらず、ここの家主は不用心極まりない。
「あ、やっぱりジルさんだ!こんな時間に珍しいですね!」
「『やっぱり』じゃないんですよ、やっぱりじゃ」
ジルは呆れ果て、リコの顔を真正面からジトリと睨みつけた。
「相手が誰かも確かめずに二つ返事で扉を開けるなと、私は何度も耳にタコができるほど言っているでしょう」
リコは、ちょうど寝る支度をしていたところだったらしい。いつも着ている絵の具まみれの作業着ではなく、驚くほど真っ白で質素なワンピース姿に、夜風を防ぐための古いショールを肩に引っ掛けていた。いつもは頑固なまでにきっちりと三つ編みに結われている、ミルクティー色の柔らかな髪は、今はすべて解かれて、ゆるゆると彼女の細い肩にかかっている。
その、普段とは違う無防備な少女の姿に、ジルは一瞬だけ視線を泳がせたが、彼女の顔に鎮座する分厚い瓶底メガネを見て、すぐにいつもの調子を取り戻した。
「あ、そうでした!つい、ジルさんの足音が聞こえたような気がして……ごめんなさい、テヘヘ」
頭を掻いて笑うリコに、反省のいろはこれっぽっちも見られない。
「反省します。……で、こんな遅くに、一体何の用事ですか?まさかまたお腹を空かせて、私のスープを奪いに来たわけじゃないですよね?」
リコは慣れた手つきで、ジルの重い上着を受け取りながら尋ねた。
ジルは極限の疲労から、言葉を返す気力もなく、部屋の隅にある古びたソファへと文字通り倒れ込んだ。
「……忠告をしに来たんですよ。あなたのその、安い命を守るために」
「……忠告、ですか?」
リコは上着を掛け、不思議そうに小首を傾げた。
「いいですか、リコ。……もう絶対に、城に来てはいけません。当分の間、あの敷地に一歩でも近づくことは厳禁です」
「えっ!?」
驚いた様子で大きく目を見開いたリコを見て、ジルは(やっぱり、今日ここへ来て正解だった)と確信した。この様子なら、明日の朝にでも、またあの「庭師」とやらの新作を描くために、生垣の隙間を探し回るつもりだったに違いないのだ。
「『えっ』じゃないんですよ。そもそも、一般市民が勝手に入り込んで良いような場所ではないんです、あそこは」
ジルが軽く睨むと、リコは子供のように唇を尖らせて肩をすくめた。
「そんなこと言ったって、私にはどうしても、すぐにでも描かなきゃいけない理由が……新作が必要なんです」
「理由などどうでもいい。……詳しくは国家機密に関わるので言えませんが、今、城内は少し——いえ、極めて騒がしい状況にあります。そんな時に、あなたがまたコソコソと忍び込んでみてください。変にスパイや暗殺の疑いをかけられて、地下牢で拷問されても文句は言えませんよ。いつ、どんな危険な暴動や政争に巻き込まれてもおかしくない状況なんです。だから、絶対に城へ近づかないでください。これは、私からの友人としての最大の警告です」
「そんなあ……せっかく、いい依頼が入ったのに……」
口を尖らせてあからさまに抗議するリコを尻目に、ジルはもはや限界を迎え、ドサリとソファに横になって目を閉じた。
部屋の奥には、彼女の小さなアトリエスペースが見える。そこには、イーゼルに立てかけられた、描きかけの新しいキャンバスがあった。
何気なく視線を向けると、そこには、一匹の気ままな猫と、それに振り回されながらも無邪気に戯れている一人の男の様子が、温かい色彩で描かれていた。男の顔つきは穏やかで、不思議な愛嬌に満ちている。
「……わかったらさっさと寝室へ行って、もう寝なさい。夜更かしは体に毒です」
ジルは視線をキャンバスから外し、腕で目元を覆いながら言った。
「はーい……って、あの、ジルさん?ジルさんは、ご自分の宿舎へ帰らないんですか?」
「……あなたのその、緊張感の欠片もない気の抜けた顔を見ていたら、なんだか私の張り詰めていた神経まで、完全に気が抜けてしまいました。身体が動きません。少しここで横になって、夜が明けたら帰ります」
「ええっ!?そんな勝手な!ここは一応、妙齢の乙女の家ですよ!?」




