104
イデール王国の王子、ブラッドは城の廊下を足早に歩いていた。
カツカツと小気味よく響くブーツの音が、ひび割れた漆喰の壁に跳ね返る。彼が向かっているのは、王の執務室を兼ねた奥の小謁見の間である。
父である王に呼ばれているのだ。その召集の報せは、普段以上に性急で、どこか焦燥感を孕んだものであった。
歩を進めながら、ブラッドは窓の外に広がる王都の情景に目をやった。
視界に入るのは、かつての美しい緑を失い、白茶けて干からびた不毛の大地である。
今年は例年に類を見ない日照りが続き、また冷夏のせいで作物が実らず弱小国のイデールでは国民が飢えに瀕していた。
本来であれば太陽の恵みをもたらすはずの夏が、異常な高温と不規則な寒冷の波を交互に引き起こすという、天の気まぐれ。その致命的な天候のおかげで秋に穂を垂れるはずの穀物も全滅に近いだろう。
イデール王国は土地が狭く、もともと農業の基盤が脆弱だった。そこへ襲いかかったこの天変地異は、国家の息の根を止めかねない致命傷となっていた。
昨年は雨が降り続き、疫病と飢えが蔓延しており、最早王宮の備蓄は底をついている。長い長雨によって倉庫の穀物はカビに塗れ、わずかばかりに残る備蓄など焼石に水という状況だ。
市場には人影もなく、配給を求めて城門の前に力なく座り込む民たちの痩せこけた姿が、ブラッドの心に重くのしかかっていた。
昨年は支援を願い出ようと隣国の大国、リギラ王国へと外遊をしていた。
それが、ブラッドがリギラへと赴いた最大の目的であった。
王妃である母はリギラ王国の出身で、見込みはあった。王妃フェフィリアの実家がリギラの王家であるという強固な後ろ盾があるからこそ、この弱小国は今まで独立を保っていられたのだ。
実質的にイデールはほとんどリギラの属国に成り下がっており、リギラの支援無しでは立ち行かないほどに国内の状況は逼迫している。
しかし、運命の歯車は最悪の方向へと回転した。外遊中に母の父であるリギラ国王が亡くなり、締結した支援の話は立ち消えとなってしまったのだ。
絶対的な権力者であった前国王の崩御により、リギラ中央の政治は一気に混沌へと突き落とされ、イデールのような小国への人道支援など一顧だにされなくなった。
それでも諦めきれず、新陛下に再度支援を願い出ようと日程を調整していた矢先、ブラッドの叔父にあたるヘクセル陛下までも暗殺され、死んでしまった。
ブラッドは葬儀に出席したときの母の気落ちようを思い出す。
漆黒の喪服に身を包み、人目を憚らず涙を流していた母フェフィリア。父を亡くした矢先に年の離れた弟まで亡くしてしまったのだ。その絶望の深さは計り知れなかった。
だが、その悲しみはすぐに猛烈な怒りへと変貌を遂げた。弟ヘクセルの死がペンバーの手によるものだと知った母は激怒し、鎮北王からの申し出を受諾した。
リギラ国内でペンバー打倒のために挙兵した鎮北王とアンジの軍勢。彼らがイデール王家に秘密裏に接触してきた際、母は躊躇なくその手を取ったのだ。
城攻めが起きた時、拘束されて身動きが取れなくなったギラス将軍の一団の代わりに、我らが暗躍し一部の兵たちを買収して回ったのだ。
リギラ王家の血を引くイデール王妃からの直々の命令と、莫大な裏金。これによって、リギラ王城の堅牢な城門を守る近衛兵たちは容易に魂を売った。
おかげで城はあっさりと開城し、その玉座を明け渡した。
しかし、その歴史的なクーデターの裏で、ブラッドは思いもよらない衝撃的な事実を突きつけられることとなった。
その時までブラッドは知らなかった母の妹、第三王女の秘密を知ることになる。
リギラ王国の歴史から完全に抹消されていた存在。第三王女であったリリアは、かつてその護衛であったアンジと密かに契りを交わし、子供を身籠もっていたのだ。
王族の姫と、一介の身分の低い護衛武官との許されざる恋。それに激怒した前王はアンジを島流しの刑に処し、妊娠中の妹は王妃の実家へ下がらせた。
だがそれだけでは王の怒りは収まらず、生まれたばかりの赤子は取り上げられ、王家ゆかりの教会が経営する孤児院へと捨て置かれたのである。
自らの血筋に泥を塗った汚れとして、その存在自体をこの世から消し去るかのように。
……それが、リコだ。
あまりにも過酷な運命の悪戯だった。リコの母、リリア王女は子供を取り上げられアンジと引き離された悲しみに耐えきれず、そのまま体を壊し、何年もの病床の末ついに事切れたという。
誰にも看取られることのない、寂しい最期だった。
姉である母、フェフィリアは、身分違いの恋で妹の人生を狂わせ、結果的に死に追いやったリリア王女に手を出したアンジを憎み続けていたが、それが今回の城攻めの件で雪解けたようだ。
愛する弟ヘクセルを殺し、王位を簒奪したペンバーを余程恨んでいたのだろう。共通の敵を前にして、過去の確執は吹き飛んだ。母はアンジとギラス将軍に全面的に手を貸し、ペンバーを追い詰めるのに一役買った。
リコが自分の従兄弟にあたる血筋だと知り、ブラッドは当然驚いた。
自分の胸の奥にくすぶり続けているあの娘が、まさかリギラ王家の正統なる血を引く人間だったとは、夢にも思わなかったからだ。
それに加え、リコのことは「アリナ」だと思っていたのだ。デンバーの黒城で出会った、小生意気で、しかし誰よりも美しいアメジストの瞳を持つ小娘。ブラッドは彼女をアリナという名の平民だと信じて疑わなかった。
だが今思い返せば思い当たる節もった。一介の小娘ーーあとで調べたところ、ギラス将軍の訳ありの親戚ーーに北の剣豪アンジが護衛として四六時中目を光らせていた。
あの気高き、大陸最強と謳われる男が、ただの平民の娘を影のように守り続けるなど、常識では考えられないことだった。
貧しいデンバーの地で護衛がつくほどの身分の者はもちろん限られている。その異様な光景の理由が、彼女の血筋を知ったことで全て氷解した。
そして実際リコはギラス将軍の曾孫にあたり「訳ありの親戚」という表現はあながち間違っていたものではないのだ。
すべては、彼女の本当の身分をペンバーの魔の手から隠し通すための、将軍の壮大な大芝居だったのだ。
思考を巡らせているうちに、ブラッドは目的の扉の前に立っていた。深く息を吸い込み、重い木製の扉を押し開く。
「来たか、待っていたぞ」
ブラッドが謁見の間に入ると、王が視線を上げずに言った。




