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机の上には、国内の深刻な飢餓の状況を示す報告書や、各地からの嘆願書が山積みにされている。
忙しく執務に励み、王は手を動かし続けている。その顔には深い深い疲労の皺が刻まれており、国の命運が風前の灯火であることを雄弁に物語っていた。
「父上、お呼びでしょうか」
ブラッドは居住まいを正し、一歩前に出て一礼した。
「ああ、単刀直入に言おう」
王は万年筆を置くことすらなく、鋭い声で言った。
ブラッドは会談と軍事演習大会の合間を縫ってここへ来た。同じく父王も時間は無いのだろう。国内の飢饉対策、不満を募らせる貴族たちの抑え込み、他国との外交交渉。
どこもこうなのかは知らないが、少なくともイデール王国の王族はいつもこうである。時間がない。国家の破滅が秒単位で迫っているのだ。ゆえに面倒な口上は抜きにして、直球で話し合う。それがこの親子の、そしてこの国のスタイルだった。
「お前、リギラ王国を乗っ取ってこい」
あまりにも常軌を逸した父親の言葉に、ブラッドは思考が完全に停止した。
「……は?」
声が裏返った。いやいやいや、ちょっとお茶を淹れてくれとでも言わんばかりの平易なテンションで言われても困る。今、この男は何と言った? 他国の、それも大陸一の大国であるリギラを「乗っ取ってこい」だと? 国取りとはそういうものなのだろうか。
ブラッドは一瞬、父を前に激しく混乱した。目の前の老いた王が、あまりの飢饉のストレスでついに正気を失ったのではないかと本気で疑った。
「間抜けた声を出すな。今のリギラの状況は知っておろう?」
「ええ」
ブラッドは混乱を必死に抑え込み、頷いた。
リギラ王国はヘクセル陛下の弔い合戦の後、鎮北王とアンジを主郭とした暫定政権が樹立し、国を治めている。
ペンバーという巨悪は排除されたものの、その後の舵取りは難航を極めていた。早々にリコが新王へと即位するかと思われたが、思いがけず国内外から批判が巻き起こり即位を阻まれているのだ。
その理由は、長年リギラを支配してきた「伝統」と「偏見」であった。
男系を主張する派閥と、ギラス将軍率いる派閥とで揉めているらしい。保守的な民衆にも男系を推す者が多くおり、そもそも何処の馬の骨かも分からん孤児院育ちの女に王位を継がせるということに疑問を呈する者も多くいた。
いくら血統が正統であろうとも、孤児院で育った平民同然の小娘に、大国の政務が執れるはずがないという反発が、貴族層を中心に根強く残っているのだ。
リギラは今、指導者不在のまま政治的空白の危機に直面していた。
王はついに手を止め、万年筆を机に置くと、ぎろりと鋭い眼光でブラッドを睨みつけた。
「我が国は最早自力では立ち行かぬところへきておる。フェフィリアを王妃に娶った時から属国に成り下がり、そしてそうするしか無かった。そしてこの日照りと冷夏よ。民は飢えに苦しみ、国内の生産ではどうすることも出来ぬ」
「……はい」
ブラッドは沈痛な面持ちで肯定した。イデールの悲惨な現実は、王子である彼が誰よりも熟知している。
「隣国では孤児院上がりの小娘を嫌い、男系を推す声も多いとか。だが、あの国に男の王族はもう残っておらん。……だが、お前はどうだ。リギラの王の血を引く男だ」
王の言葉の意図が、徐々に輪郭を持ち始める。ブラッドの背中に冷たい汗が流れた。
「……父上、よもや、」
「リコ殿下に婚姻を申し入れよ。お前のその血を武器に、即位させると交渉するのだ。そして我が国への支援をもぎ取ってこい」
それは、リギラの混乱に乗じた、極めて冷徹で、かつ完璧な政治的策略であった。男系の血を引くブラッドがリコの夫として共同統治者に収まれば、リギラ国内の保守派の反発を完全に黙らせることができる。リコにとっても、これ以上ない渡りに船の話のはずだ。
「ですが、私がいなければこの国が後継を失います!」
ブラッドは思わず反論した。自分がリギラへ入り婿として赴けば、イデール王国の王位を継ぐ者がいなくなってしまう。しかし、父王はせせら笑うように首を振った。
「かまわん、お前がリギラの王となった後、わしが崩御した後はこのイデールをリギラに併合すれば良いのじゃ。最早この国はすでにリギラの支援無くしては立ち行かぬのだ。お前がリギラの王となり、リコ殿下と連立政権を樹立し、そしてこの国を救ってくれ。今、この時も民は飢えで苦しんでいる!」
「ち、父上……」
国家の独立を捨ててでも、民の命を救う。父が下したその凄まじい決断の重さに、ブラッドは言葉を失った。イデールという名を捨て、リギラの一地方となる。それが、この小さな国が生き残るための唯一の道なのだ。
「考えてもみよ。孤児院上がりの娘に政が務まるか?だが、お前ならどうだ。生まれた時から帝王学を学び、王族としての心得もある。これはリギラにとっても喉から手が出るほど欲しい選択なのじゃ。お前が王となり、わしが死んだ後はこの国をリギラの一地方として立ち直してくれ」
父王の熱を帯びた言葉が、ブラッドの胸の奥に眠っていた「野心」、そして「恋情」を激しく揺り動かした。
ブラッドはリコを思い出した。
あのデンバーの地で出会った、気高く美しい娘。
あの美しい髪に手を差し込み、唇を奪いたいと何度思ったことだろう。
ただの平民だと思っていた時から、彼女の存在はブラッドの心を捉えて離さなかった。初めて王族の自分を袖にして、鳥のように逃げおおせた女だ。
自分の地位も、美貌も、傲慢な誘いも、彼女には一切通用しなかった。その敗北感が、かえって彼の執着を極限まで高めていた。
自国に帰って来てからも、何度夢に見たことか。彼女の冷ややかな視線、あの美しいアメジストの瞳、凛とした佇まい。
これが恋だと気づいた時には既に遅かったのだ。あれほど欲しいと願った女は他にいない。
平民の娘だと思っていた彼女が、今や大国の次期女王候補。そして、父から下された命令は「彼女を娶り、その国を乗っ取れ」というもの。
国家の破滅を救うという大義名分のもと、合法的に、かつ大手を振ってあの愛おしいリコを我が物にできるのだ。
これは、ブラッドにとっても願っても無い提案だった。
ブラッドの唇が、不敵に、そして歓喜に歪む。彼は父を真っ直ぐに見据え、王子としての、そして一人の男としての顔に戻って不敵に言い放った。
「議会のジジイどもは、父上が説得してくださいよ」
「……無論じゃ」
ブラッドのその返事に、父王はニヤリと笑った。
国家の命運を賭けた、傲慢で甘美な「国取り」の歯車が回る。




