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「私の娘を利用しようとは、良い度胸だ」
アンジが毛羽立つような声で静かに告げる。地を這うようなその重低音には、相手を骨ごと噛み砕かんとする圧倒的な殺意が込められていた。どちらの男にも厳かな圧があった。長年、国の頂点で権力を弄んできた陰謀家と、戦場で無数の命を奪ってきた武人の放つ覇気が、広間の中央で激しく衝突する。
「それ以上わしに近寄れば、ギラス将軍を殺す」
ペンバーは冷ややかに微笑み、最後の切り札を提示した。囚われの身となっているはずの老将の命。それがアンジたちの最大の弱点であると確信しているかのような口振りだった。しかし、アンジの表情は全く崩れない。
「それがペンバーの古狸最後のハッタリか。将軍は既に脱出したと報せがある」
「…………ふん」
自らの謀略が、アンジの送り込んだ別動隊によって完全に看破されていたことを知り、ペンバーは小さく鼻を鳴らした。その表情にわずかな翳りが差す。
一歩、一歩、ゆっくりと馬が歩きリコとアンジは玉座へ近づく。
蹄の音が静かな広間に規則正しく響き、二人の距離は確実に狭まっていく。
「逃げぬか。そなたであればってきり抜け道から尻尾を巻いて逃げ出すと思っておった」
アンジの辛辣な問いかけに対し、ペンバーはただ自嘲気味に口元を歪めるだけだった。
「抜け道の先に兵を待たせているのであろう。そのくらいこの老いぼれにも予想がつく」
逃亡の道すら既に塞がれていることを見抜く程度には、この老いた支配者の頭脳は未だ明晰だった。ペンバーはそっと玉座を撫でた。金色に輝くその椅子の背もたれを、名残惜しそうに、慈しむように指先でなぞる。彼にとってその椅子こそが、人生のすべてであったのだ。
「陛下亡き今、その座は我が娘、リコのものだ」
アンジが高らかに言う。その宣言は、何百年と続いたこの国の古い歴史の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる鐘の音のようであった。ペンバーはリコを見据えた。その射すような視線が、真っ直ぐに彼女の存在を捉える。
「その小娘がここに座ると言うか。この血塗られた玉座に。……政の采配を何も知らぬその娘がここへ座ったとて、議会に、民に、良いようにされるだけよ」
「…………」
リコは真っ直ぐペンバーを見つめ返す。その言葉に含まれた猛毒のような現実論に、彼女は決して視線を逸らさなかった。眼鏡の下の、アメジスト色の瞳は美しく、そして冷たい。
かつて過酷な運命に翻弄されるだけだった少女の瞳には、今や敵を凍りつかせるほどの絶対的な拒絶と決意が宿っていた。
「……リコ、どうする」
アンジがリコの耳元でそっと囁いた。その大きな手が、優しく彼女の肩を包み込む。
「私の主人はもう、お前だ。恐れるな、その采配を振るえ」
リコはそっと馬の毛を握りしめる。その手触りは硬く、まるで手のひらに突き刺さるようだ。
その痛みが、彼女の脳裏にある迷いを消し去った。ここで生ぬるい慈悲をかければ、再びこの男は闇から這い出し、自分たちのすべてを脅かすだろう。何より、奪われた命への報いを今ここで果たさねばならない。
「……殺して」
リコの小さな呟きは、だがしかし広間に響いた。
か細く、しかしこれ以上ないほど冷酷な決定。その一言が放たれた瞬間、広間の空気が一変した。
ペンバーがその瞳を細くしリコを見据える。自らが育てたつもりのない王家の血が、これほどまでに冷徹な決断を下したことへの驚きと、どこか満足げな諦念がその目に混ざり合う。
アンジが大剣を片手に馬を飛び降りた。その巨体が床に着地した音が、処刑の始まりを告げた。
「おおせのままに、陛下」
アンジが大股でペンバーに近寄る。一歩ごとに死の影がペンバーへと迫る。それでも、老宰相は最期の瞬間までその傲慢さを崩さなかった。ペンバーは高らかに声をあげた。
「お前にこの玉座は乗りこなせぬ!数百年と続く血の玉座だ!何も知らぬ小娘め、やがてお前は臣下に、民に、この国に!裏切られるだろう!」
その呪詛が広間に響き渡るのと同時に、アンジが大剣を振り上げた。ペンバーは抵抗しない。自らの運命を、そして己が残した呪いの言葉が少女の未来を縛ることを確信しているかのように、馬に乗り聳えるリコをじっと見つめ、そして、その体は激しく血を吹き散らした。
鮮血が大理石の壁と玉座を赤く染め上げ、一つの命がここに潰えた。
「国の逆賊の首をとったり!!」
その声は王族が民に謁見する際のバルコニーから高らかに聞こえてきた。
王城の外、広場に集まっていた無数の人々や兵士たちの間に、その凄まじい叫びが伝播していく。ジルは驚いてその首をあげる。未だ戦の熱気が抜けない中、彼の視線は引き寄せられるようにして遥か上方のバルコニーへと向けられた。
アンジがバルコニーで高らかにペンバーの首を掲げていた。滴る血が陽光に照らされ、残酷な勝利の証として民衆の目に焼き付けられる。その隣で、土気色のリコが無表情のまま立ち尽くしている。
彼女の身には、いつの間にか豪奢な毛皮の外套が纏わされていたが、その顔には血の気が全くなく、まるで精巧に作られた人形のようだった。
戦が終わり、地下講堂から解放されていた民衆がその様子をみてワッと声をあげた。噂を既に流布していたのが効いたのか、民衆は歓喜に湧いている。長年の圧政から解放された喜びと、突如現れた正統なる血統への熱狂が、広場を地鳴りのように揺らしていた。
「ギラス将軍の弔い合戦だわ!」
一人が叫べば、それが波となって民衆全体へと広がっていく。彼らにとって、この凄惨な政変は正義の執行であり、祝祭そのものであった。アンジはその民に、捕虜に、兵士に向けて朗々と続ける。
「その汚い手で権力に溺れていた年寄衆は断罪された!我らはこれより正統なるものに王位を継承し、この国を平定する!清きものは喜べ!悪に染まるものは怯えよ!」
割れんばかりの歓声が、バルコニーの彼女を称えるために押し寄せる。
だが、その熱狂の嵐のただ中で、ジルは肩を震わせた。
「リコ……あなたはそれを、望むのですか……?」
バルコニーに佇む彼女を見る。
民衆の歓呼を一身に浴びながらも、どこか遠い世界を見つめているような彼女の横顔。
ずいぶん遠くへ来てしまった気がした。
あの日、陛下に絵描きの娘の話をしなければ。
彼女の持つ特別な絵に気づかず、ただの市井の娘として見過ごしていれば。
終わったことだと目を瞑っていれば。
自分の任務だけを全うし、王城の闇に干渉しなければ。
まだこの手にリコはいただろうか。
すぐ隣で、あの無邪気な笑顔で微笑んでくれていただろうか。
取り返しのつかない過去への悔恨が、ジルの胸を容赦なく抉る。
ただ、リコに笑っていて欲しかった。
重い王冠など被らず、国家の命運など背負わず、ただ一人の少女として穏やかに生きてほしかった。二人で共に、小さな幸せを見つけられればそれでよかったのだ。朝の光の中で他愛のない会話を交わし、慎ましくも平穏な日々を重ねていくこと。それだけがジルの本当の願いだった。
だが、現実は彼女を遥か高みの玉座へと押し上げてしまった。
これからリコが即位すれば、下っ端兵士のジルでは到底食べさせてあげられないような豪華な食事がでるだう。王宮の最高料理人たちが腕を振るった、見たこともない料理が彼女の食卓を飾る。
ジルでは到底手が届かないような高級なドレスに袖を通すのだろう。最高の職人が仕立てた、絹と宝石の衣装が彼女の身体を包む。
いつでもその身を屈強な衛兵に守られ、その身の周りは甲斐甲斐しくメイドたちが世話をすることだろう。
ジルの入る隙間など、彼女の新しい世界のどこにも存在しない。
だが、陰謀渦巻くこの城内で彼女が地に足をつけ立っていられるだろうか。自らの無力さと、これからの彼女を待ち受ける孤独の深さを思い、ジルは絶望に囚われる。自分はもはや手の届かない場所から見守るしか無いのだろうか。あの細い肩を抱きしめることも、その涙を拭うことも許されない、ただの観客になってしまったのだろうか。
リコを抱きしめた夜を思い出す。
彼女の確かな温もりと、鼓動が自分の胸に伝わってきたあの瞬間。
その唇を奪った夜を、全身で激しく彼女を感じた夜を。
互いの孤独を埋め合わせるようにして、確かに繋がり合ったあの夜の記憶だけが、今のジルの冷え切った心を狂おしいほどに焦がしていく。あの時の彼女の吐息も、肌の柔らかさも、すべてが嘘であったかのように、バルコニーの上の彼女は気高く、そしてあまりにも遠かった。
ジルはただ、唖然とリコの姿を見つめ続けた。
鳴り止まない民衆の歓声の中で、彼はただ一人、動きを止めた石像のように、遠ざかっていく最愛の人の残像がその目に焼き付けられていた。




