101
驚いてリコが顔をあげるのと、ジルがリコから体を離したのは同時だった。ジルの顔には、リコと同等、あるいはそれ以上の驚愕と動揺が走っていた。どうやらジルも知らなかったらしい。彼は完全に硬直したまま、ヒナを凝視した。
「リコが、次期王位継承者……?ヒナ、あなたは一体なにを言っているのです?」
ジルの声は低く、どこか怒りを含んでいた。自分が命懸けで守ってきた彼女が、突如として国家という巨大な怪物の中心に据えられたのだ。その困惑は計り知れない。リコもまた、自身の耳を疑いながら首を横に振った。
「ええ……そうですヒナさん。私が王位継承者などとそんな話は到底信じられません」
しかし、ヒナは動じなかった。リコの手を引いて立ち上がらせた。彼女は冗談を言うような性格ではない。それはリコもジルもよく知っている。ヒナの目は、一点の曇りもなくリコを見据えていた。
「あなたは第三王女、リリア様とアンジさんの間にできた一人娘。……正統な王位継承者です」
「な……」
リコは愕然とし、言葉を失った。
リリア王女。かつて病で早世した儚い王女。その名前は知っていた。だが、まさかその王女が自分の母親で、自分を護ってくれたあの粗野で不器用なアンジが、父だったというのか。
自分の血管を流れる血が、王城の主たちと同じ、呪われた王家の血だという事実。その衝撃に、リコの足元が崩れそうになる。
同様に、ジルも驚きに目を見開いている。彼は兵士だ。その血筋が意味する政治的な重みを、誰よりも理解していた。
「リコさん、行きましょう。アンジさんの元へ。父君があなたを待っていますよ」
ヒナがそう言い、リコの手を引いた。リコは頭が真っ白のまま、引っ張られて足を一歩踏み出す。だが、その回らない頭の中、連れられそうになるリコの手を、後ろから強い力が引き止めた。
ジルだった。彼はリコの手首をがっしりと掴み、ヒナの前に立ちはだかった。
「……待ってください。私はその話を聞いていません」
ジルの声は地を這うように低かった。その目には、ヒナに対する明確な拒絶と不信感が宿っている。
「……そうでしたか」
ヒナが口を真一文字に結んだ。彼女とて、ジルの反発を予想していなかったわけではないだろう。
「私はリコを助けてほしいと書状を送っただけです。このような……王政にリコを巻き込んでどうするつもりです!」
ジルは声を荒げた。その叫びは、厩舎の壁に反響して虚しく響く。彼はリコを、このドロドロとした権力闘争から遠ざけるために戦ってきたのだ。それなのに、助け出した結果が「次の王に据える」では、本末転倒ではないか。
「私が決めたのではありません。この国が、必要としているのです」
ヒナは冷静に現実を突きつける。ペンバーを排した後の国をまとめるには、血統の正当性を持つリコが絶対に不可欠なのだ。
だが、そんな国家の都合など、ジルには知ったことではない。ヒナのその物言いにジルは一層リコの手を強く掴んだ。その指が白くなるほどに。
「ダメです、リコ。あなたがこの王城に足を踏み入れる必要はない。このような、汚れた権力の渦に身をひたす必要は無いのです」
「ジルさん……」
リコはジルの顔を見た。彼の目は、恐怖に揺れていた。リコを失うことへの恐怖。再びあの冷たい王城の闇に、彼女が囚われてしまうことへの恐怖。
「私はあなたを王にするために、ここから出したのではない。あなたを、自由に……そして、幸せに……」
ジルの言葉は、最後は祈りのようだった。リコの腕を掴むジルの手に、リコはそっと自分の手を添えた。彼の温もりを感じながら、リコは静かに、しかし決然と首を振った。
ジルが懇願するような瞳でこちらを見ている。その瞳に、リコは自分の空っぽになったような瞳を見た。
「ジルさん……私は、もう……行かないと」
「ダメです、リコ、ダメだ……!」
「ペンバーから冠を奪えるのは、きっと私だけなのです」
リコの声から、先程までの怯えは消えていた。彼女の脳裏に、冷たい独房の床、殴られたこめかみの痛み、そして何より、クリスの無念の死に顔が鮮明に浮かび上がっていた。もし自分が王位継承者という「力」を持っているのなら、それを使わない手はない。
何かに突き動かされるようにリコはジルの手を優しく押し返す。
「ちがう……そんなことをしても、クリスは戻ってきません。あなたはまた、王城の闇に飲み込まれるだけだ!」
ジルは必死に声を絞り出した。リコを止めたい、その一心だった。
「わかっています!!だからこそ!進み続けるのです!!そうしろと言ったのは、ジルさんでしょう……!!」
かつて、ジルが自分に言った言葉。立ち止まるな、諦めるな、腹を括れと背中を押してくれたのは彼自身だったはずだ。
リコはジルの手を振り払った。
リコはヒナに連れられて、厩舎を飛び出し、再び混沌とした戦場の中を駆けてゆく。
残されたジルは、腰に剣を携え、跪いたまま立ち上がれなかった。
床に落ちた藁を見つめながら、彼の拳が砂利を握り締める。
「リコ、王城に入ってはいけないと、……あれほど言ったでしょう……」
その呟きは、激しい鬨の声にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。
リコはヒナとともに走った。
もう止められない、引き返せないのだ。背後からジルの叫びが聞こえるような気がしたが、彼女は決して振り返らなかった。自分にその王位を手にする権利があるのであれば、ペンバーに一矢報いるその力があるのであれば、振るわずにはいられなかった。
クリスを殺した男を許せない。あの傲慢な顔で、自分たちを踏みつけにしてきたあの男がここにのさばるなんて、一生、許すことはできないのだ。王座を引きずり下ろし、すべての罪を償わせる。そのためなら、王冠の重みなど喜んで背負ってやる。
激しい乱戦の中を、ヒナの大剣が道を切り開いていく。王都の兵たちが次々と倒れ、北方の兵たちが歓声を上げる。その中心、中庭の一番血生臭い最前線に、その男はいた。
リコはアンジを見つけた。
戦場で剣を振るう大男だ。周囲の誰よりも巨大で、誰よりも凶暴な、極北の猛虎。彼の振るう一撃ごとに、王都の兵が木の葉のように吹き飛んでいく。その手は、敵の返り血で赤黒く染まり、なおも進軍の触れを出している。
「押せ! 敵を本丸へ追い詰めろ! 一歩も退くな!」
その怒号が響き渡る中、ふと、大男の動きが止まった。
戦場の喧騒の中で、彼がその視線を向けた先に、泥と血に汚れながらも、真っ直ぐに自分を見つめる少女の姿があった。
父がリコを見た。
リコも父を見た。
二人は戦場の中駆け寄ると、強く、強く抱き合った。




