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第七話 消えない傷、見えない壁

「何? 謝りたいことって」


 帰宅した俺達は夕食も摂らずに、リビングのソファに腰を下ろした。三人掛けの両端。間一人分の距離は、そのまま心の距離に思えた。


「その」


 伝えたい言葉があった。胸の奥にこびりついた、一言が。


 けれど、それじゃあないんだ。今、俺が言うべきなのは……伝えないといけない言葉だ。


「あの時は、ごめん」


 夏美に向かって、深々と頭を下げる。


「中三の時の?」

「……性欲に流されて、許されないことをしてしまった。しっかり段階踏んで、ちゃんと準備をするべきだった。いくら夏美と……ああいうことをしたかったからって」


 夏美にただ『いいよ』と言われた。それだけで理性は吹き飛び、歯止めがかからなくなった。彼女の体に溺れた。


「しなかったもんね、避妊」

「……夏美の人生を、滅茶苦茶にするところだった」


 事の重大さに気づいたのは、夏美が去った後だった。中学生が妊娠したらどうなるか——行為の最中は頭の片隅にすら存在しなかったくせに。


「だから、ごめん。許してくれなんて言わない、一生恨んでくれていい。だけど、こんなに近くにいるのに……謝罪しないのは違うと思うから」


 また夏美と楽しい毎日を送りたい。下らないことで笑って、今日は最高に楽しかったと伝えたい。買ってくれたシャツはボロボロになっても捨てたくないって駄々を捏ねたい。


 そのために、二人の間に存在する透明な壁に手を触れた。壊せる日は来なくたって、どかす努力はしたかったから。


「……誘ったの、あたしの方じゃん。それに」


 顔を下げる夏美。その視線は、彼女の下腹部に向けられていた。


「結果的には、妊娠しなかったわけだし」

「そうだとしても!」


 声を荒げた理由が自分にもわからない。事実を今知って安堵したから? それを悟られたくなくて、大声で隠そうとしたから? だとしたら、俺はあまりにも最低な人間だ。


「あのさ、空」


 夏美は天井を見上げていた。その目には、うっすらと涙が滲んでいた。


「もしも、もしもだけどさ……」


 目の前の彼女が何を考えているのか、今は何一つわからない。幼いころからずっと一緒で、好物も誕生日も忘れたことなんてないのに。


「できてたら……空はどうしてた?」


 その『もしも』を、俺はずっと悩み続けた。


「何度も考えたよ、それは。まずは俺の両親と……夏美の両親に思いっきり殴り飛ばされて」

「うん」


 俺と夏美が関わる全ての大人から、殴り飛ばされていただろう。当然だ、それだけのことなのだから。


「それでも……できることは何でもしたと思う。新聞配達とか、夏美のおじさんの会社で下働きでもさせてもらうとか。甘い考えなんだろうけどさ」


 現実を知らない、文字通り子供の妄想だ。だけどそれに縋りたくなるぐらい、彼女の隣に居たかった。


「あたしもさ、もしできてたら……そんな感じなんだろうなって思ってた」


 救われたような気分になる自分が、心底嫌になる。同じ気持ちで良かったね、なんて軽々しく口にできない。俺と夏美で、言葉の重さがあまりに違うから。


「ねぇ空」


 夏美は俺の頬に手を触れてくれた。指先の冷たさが、針のように刺さる。


「空が謝ることじゃないよ」


 目を潤ませたまま、夏美が答える。それがあの日の景色と重なる。腕の中で泣いていた姿に。


「悪いのはあたし。誘ったのもあたしで、嘘をついたのもあたし」

「嘘?」

「……安全日の数え方なんてさ、あの時知らなかったから」


 ああ、そうだったんだ。俺が考えていた以上に、この『もしも』は現実だったんだ。


「だったら、余計に」


 俺が悪かったんじゃないか。


「空はさ」


 夏美の手が頬から離れる。


「大学でさ、素敵な彼女できるといいね」

「俺は」


 お前以外と、そうなりたくなんて、ないよ。だけど俺の唇は、夏美の人差し指に塞がれてしまった。


「あたしは」


 夏美は瞳を潤ませて。


「たまたまルームシェアすることになった、地元が一緒なだけの友達。それだけだから」


 ずっとずっと大好きなままの、大切な幼馴染なのに。


「ね?」


 夏美はソファから立ち上がり、自分の部屋へと戻っていく。一人分のスペースが、歩幅につられて広がっていく。


「大学生活、お互い頑張ろうね」


 扉が閉まる。あの扉を開けられたなら、あの涙を拭えるだろうか。けれど、できない。踏み込めない。ほんの少しを越えられない。


 怖いんだ、彼女に触れて——またどこかへ消えてしまうのが。


 見えなかったはずの壁が、今は確かにそこにあった。




◇◇ ◇




 だめだな、あたしは。最低で最悪だ。


 この二日間楽しかった。空に彼女が居なかったと聞いて心の底から喜んでいた。二人で東京の街を歩いて、馬鹿みたいに浮かれていた。


 空の心に、消えない傷をつけたくせに。


 苦しんでいたんだ、ずっと。あたしの軽率さが、身勝手さが。辛い時に一番側にいてくれた人を苦しめていたんだ。


 あの時、もっと話し合うべきだったのに。遠ざけたらもっと傷つけていた。


 でも一番最低なのは、空の謝罪が嬉しかったことだった。あたしのことを真剣に考えてくれていたことが、あったかもしれない未来に悩んでくれていたことが。


 嬉しい、本当に。だからあたしは最悪だ。


 空はこんな女のことなんて、忘れなきゃいけないのに。


 あたしが空にできることなんて、全てを諦めさせることだけなのに。


 あたしなんか、空の重荷にしかなれないのに。




『——死ねば良かったのに』




 いつか聞いた誰かの声が、まだ、忘れられない。

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