第五話 いつかの冗談の景色の中で
「おはよう、空」
瞼を開けると夏美がいる。昔は随分と見慣れた光景だった。けれどこれは三年半と少しの間、どれだけ願っても届かない景色だった。
「……今何時?」
できるだけ平静を装いながら、夏美も見飽きただろう態度を取る。
「七時半」
「……あと三十分もあるだろ」
八時に出るんだから、八時まで寝れるだろうに。馬鹿だな夏美は相変わらず。
「あのねぇ、八時に家出るのに八時に起きたら寝坊でしょ」
「じゃあ二十分。十分もあれば準備終わるから」
そこで気づく。子供のころとは明確に違い……下半身が元気になっていることに。
「……冗談はさておき、早く出ていってくれない? 着替えたいんだけど」
体をくねらせ、何とかしようとする。鎮まれ鎮まれと念じるが、夏美が顔を近づけて来た。やめろオカズの方から寄って来るな。
「二度寝する気でしょ。何年その手を喰らったと思ってんの? 今更騙されないんですけど」
「そこは否定しないが、大人になった俺を信じて欲しい」
いや本当に、今日だけは信じて欲しい。今の俺にはあのころと違い、疚しい気持ちしかないのだから。
「はいはい、さっさと布団から出ましょうねっ!」
さすがバスケ部、腕力が凄い。たかだか引っ越しバイトで鍛えた程度の俺では、夏美の力に逆らえなかった。
「えっ!? あー……」
そして露になる俺の下半身。ちなみに俺の寝間着はパンツとTシャツだけなので、服の皺が、みたいな言い訳は一切通じない。
「ごゆっくり」
目を背けた夏美が、静かに部屋を後にする。一人残された俺は、涙を流していた。
大人になるって、しょっぱいんだな。
八時ちょうどに家を出た俺達。ゆっくりと電車に揺られながら、目的地まで進んでいく。あいにく座れなかったが、吊り革に並んで立てるぐらいの余裕があった。まぁ平日だもんな。
「ここでしょ? ここも行きたいし……あ、これも気になってたんだ。おやつにいいんじゃない?」
「ガイドブックとか田舎者丸出しだろ」
「いいでしょ実際に田舎者なんだから」
ひらがな三文字のガイドブックに、山ほどの付箋をつけていた夏美。よっぽど東京観光を楽しみにしていたんだろう。俺達の田舎、ショッピングモールぐらいしかなかったもんな。
電子音と共に、電光掲示板が多言語で到着を教えてくれる。
「着いた、降りるよ!」
「こら走るなって!」
そんな、どこにでもあるデートの始まり——。
——なんて平日の朝の東京にあるはずもなく。
『押さないでください! 押さないでください! 二分後に次の電車が参ります! まいりまぁすぅ!』
ビィーーーーーーーーーーーーーーッ! 怒号のような警告音がなる。それから企業戦士たちの舌打ちに、春休みの学生……まぁ俺もなんだけど。
何とか車内に滑り込んだ俺達は、駅員に詰め放題のサトイモのごとく押し込まれる。それもガキの思い出作りじゃない、熟練のおばちゃんによる家計圧縮の類のやつだ。
今、俺達は人じゃない。貨物だ。
「誰だよ、八時って言ったやつ」
扉に顔面を押し付けながら、何とか悪態をつく俺。朝の通勤ラッシュは、パーソナルスペースの概念を破壊できるらしい。
「あんたでしょ……だから五時半って言ったのに」
それは早すぎるだろいくらなんでも。けど、これから毎朝? 嘘だろ大学行くたびこの地獄に巻き込まれるのか?
「俺、自転車で大学通うわ……」
「買ったらあたしにも貸してよ……」
なんとか渋谷駅を脱出した俺達には、満身創痍の四文字が良く似合っていた。
「やっと着いたか……何時間乗ってたっけ」
「十分ぐらい、らしいわね……」
息絶え絶えに呼吸する俺達。うーん東京の空気は美味しくない。
「一時間は乗ってただろ……相対性理論か何かか?」
「世紀の発見おめでと」
立ち直ったのは夏美が早かった。彼女は勢いよく立ち上がり、リュックから観光雑誌を取り出した。
「とりあえず」
丸めて棒のようにして、交差点の先の行列を刺す。
「朝マフィン!」
看板を確認する。間違いなく地元にもあったバーガーチェーンだ。だが問題は客だ。多すぎる、いくらなんでも、多すぎる。
「……全員マフィンのために並んでるの?」
「だと、思う」
もしかして東京の住人って、全員頭おか——。
「コンビニとかで済まさない?」
「駄目。単にマフィンが食べたい訳じゃないの、あたしは。渋谷で朝マフィンを食べたって経験がしたいの」
だめだ、夏美も東京の風に飲まれてしまっている。早くこいつに常識を取り戻させないと——。
行列に並び終え、一口齧って気づいてしまった。俺は朝マフィンとコーヒーではなく、それをトレイにのせて座る権利を購入したのだと。
席の間隔は地元よりもよほど狭く、気を抜くと肩がぶつかるぐらいの距離。それでも二人並んで観光雑誌を開くには十分なスペースだった。
しかも後ろから『まだ食ってんのかよ』という視線を浴びせられる。なのでコーヒーをちびちびと飲んでアピールするという姑息さも身に着けてしまった。俺も東京の風に飲まれてしまった。
「何で天井見上げてんの?」
「これが東京の味かって」
「地元のショッピングモールにもあるでしょここ」
そうだけど、地元でコーヒーまだ残ってますよアピールなんてしたことないから。
「でさぁ、行ってみたいとこなんだけど」
「その前に俺のシャツ買わない?」
ちなみに今日は昨日ほど暑くない。世間的には望ましいことだが、昨夜シャツを奪われた俺には望ましくない。つまりTシャツ一枚だと寒いのだ。
「じゃあさ、あそこの駅ビル行かない? 雑貨屋さんとか入ってるみたいだし」
ガイドブックと窓の外のビルを交互に指さす夏美。
「ん、了解」
という訳でコーヒーを飲み干す。遅延プレーのおかげで、二口分しか残っていなかった。なお夏美はそもそもコーヒーは飲み終えていた。心が強い。
「リュック持とうか?」
ガイドブックをしまう夏美を見て、つい声をかけてしまう。
「軽いから別にいいよ」
散々高校でバスケで走り回ったんだ、こういうのは今更か。
「まぁでも、色々買ったら頼りにしてるから」
「そりゃどうも」
と、ここで気になってたことをもう一つ。
「ところでシャツの予算っていくらぐらい?」
「五千円ぐらい?」
東京怖い。
「……二千円のシャツにして三千円を小遣いにできる?」
「絶対ダメ」
別に高くなくていいのに、と思うものの夏美の顔はやる気に満ちていた。こうなったこいつを止める方法を、俺はまだ知らない。
今日はとことん付き合うかぁ。




