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第三十四話 君がここにいる喜びだけが

 いつもと変わらない金曜日の朝が来る。顔を洗ってタオルで拭くと、夏美が遅れてやってくる。


「おはよ」

「おはよう、今日は朝練なし?」

「しばらくないんだー」


 夏美の朝は遅くなった。必然的に俺の起きる時間も、少し余裕が出るようになった。


 二人並んで歯を磨く。途中肘が当たったから、こっちも肘を当て返す。


「一限からだっけ」

「いや二限から」


 うがいをしたら欠伸が出る。原因ははっきりしている。


「また遅くまでアニメ見てたの?」

「また遅くまで見てました。朝飯パンでいい?」

「お願いね。あ、今日燃えるゴミの日だった。玄関に出してくれてる?」

「置いてあるーっ」

「それじゃあ出してくるね」


 夏美も歯磨きを終えたので、それぞれの家事へと向かう。ばあさんは共用のゴミ捨て場へ、じいさんはキッチンへ朝飯へ。


 トーストを焼いてトマトを切って、ベーコンエッグを二つ作る。飲み物は牛乳でいいか。


「毎日ありがとね。いただきまーす」

「どういたしまして。いただきます」


 二人で手を合わせ、朝食を食べる。途中テレビで天気を確認する。右上に時計が表示される。八時か、余裕で間に合あと十六時間十六時間十六時間十六時間十六時間十六時間十六時間十六時間。


「夏休みって帰省する?」


 もうそんなことを考える時期かと驚く。カレンダーは見ないが。六月が終わったら、七月には試験がある。それが終わると晴れて夏休みだ。


「あぁ、した方がいいよな。夏美も?」

「するんだけど、合宿の合間とかになるんだよね。新幹線も早めに予約した方が安いからねーっ」

「なるほど」

「一緒に帰るよね?」

「そりゃあね」


 住み始めたころならいざ知らず、今夏美と地元に帰るなら……確実に二人一緒になるだろう。


「ママ、大喜びするだろうな」


 何がとは言わないが、夏美のおばさんはそりゃあ喜ぶだろうさ。俺の母さんもだ。


「おじさんは?」

「ママが説得済みだと思うよ。じゃなかったら一緒に住まわせないって」


 それもそうか。


「そっちは? 反対されるかな?」

「ないない。大歓迎が予想されます」


 トーストを齧りながら、想像する。少なく見積もって特上寿司は食えるだろうな。


「そう考えると、外堀ってとっくに埋められてたんだよねぇ」

「だなぁ」


 何なら埋めた外堀の中で暮らしているすらある。


「「ごちそうさまでした」」


 二人で手を叩くが、食器を下げるのは俺だ。


「じゃあ俺洗っとくから」

「ん、お願い」


 時計を見る。八時十五分か。あと十五時間四十五分あと十五時間四十五分あと十五時間四十五分。


「あ、そうだ夏美」

「何?」


 土曜日って、日付変わった瞬間から?


「……なんでもないです」

「変なの」


 聞けない。代わりにまた時計を見る。八時十六分か。あと十五時間四十四分あと十五時間四十四分。


「後期はさ、もうちょっと予定合わせない? ……一緒に大学通えるように」

「だね」

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 が、夏美は動かない。なるほどね。


「ん」


 夏美に小さくキスをする。唇が離れ、混ざった唾液が糸を引く。


 いつもと変わらない朝——な訳ない。


「今度こそ行ってきます」

「今度こそ行ってらっしゃい」


 夏美をキッチンで見送る。やっぱり時計を見る。今日の十五時間四十二分は、人生で一番長くなりそうだ。






 何一つ身の入らない講義を受けて、帰宅してひたすら料理を作った。土日に小腹が空いたなら、いつでも温めるだけで食べれる状態だ。夏美が帰宅後一緒に夕食を食べた。ちなみに無言だった。


そして風呂と歯磨きを済ませると、時計は二十二時四十五分。夏美の風呂は大体一時間なので、俺がやるべきことは。


 そう、宇宙英雄伝説の続きを見ることだ。


「またそれ見てるし……」


 風呂上がりの夏美に後ろから声をかけられる。いつもより少し長風呂だった。気持ちは非常によくわかる。


「待って今いいところだから」

「アニメの見過ぎは禁止でーす」


 夏美に停止ボタンを押されてしまう。

 

「あーっ!」

「子供かっ」


 夏美がソファの隣に座る。テレビのチャンネルをザッピングしても、面白そうな番組はひとつもない。ので消す。


「あと五分で土曜日だな……」


 呟きながら、夏美の姿を横目で見る。初日に俺が奪われたシャツを着ている。その下には……何も、着ていなかった。


「……やらしい目で見ないでよ」

「はぁ? 見るに決まってるだろ」


 夏美が俺の腕に抱きつき、頭をこつんと寄せてくる。


「初日にもしたよね、こんな会話」

「したね」

「あたしのこと、ずーっとスケベな目で見てたもんね」

「……嫌だった?」

「……ちょっと興奮してた」


 無言になる。時計の秒針だけが部屋に響く。空いていた俺の左手を、夏美の右手が絡み取る。指を指の間に握ると、互いの吐息が近くなる。


「長いね、三分」

「ちょっとフライングする?」

「んー……ルールは守りたい、かな」


 二人して秒針だけを眺める。絡み合う指先から、徐々に体温が混じっていく。


「あと一分」

「だね」

「カウントダウン、する?」

「いいね、年越しみたいで」

「じゃあ、五秒前で」


 互いの息が荒くなる。こんな瞬間が訪れる日をずっと前から待っていたから。


「「ごー」」

「「よん」」

「「さん」」

「「にー」」

「「いち」」


 カチッと。日付の変わる音がしたから。


 夏美が俺の首に手を回し、貪るようなキスをしてきた。朝のそれは、おままごとだったと思い知らされる。


「——はぁ」


 唇が離れる。互いの視界に、互いしか映らなくなる。


 彼女が笑う、俺も笑う。阻むものはどこにもない。


 自然と涙が零れ落ちた。だけどもう、拭わなくたっていいんだ。


 君がここにいる喜びだけが、涙の溢れる理由だから。

 



「あたしのこと、全部愛して」




 他には、何もいらない。

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