第三十二話 あの時伝えられなかった言葉を君に
キッチンに向かい、コップを二つとペットボトルの緑茶を取り出す。冷蔵庫の小さな引き出しを開けると、自動製氷の氷は減っていた。タンクに水足すのは……後でいいか。
俺は氷少なめで、夏美は多め。無音の部屋に、トクトクと注がれる音だけが響く。
「はい」
「ありがと」
三人掛けのソファに二人で座る。もう間は空いていない。肩と肩が触れる距離に、すぐ隣に夏美がいる。
「あらためて、優勝おめでとう。試合凄かったな」
「ありがと……応援、ちゃんと届いていたから」
二人で冷たいお茶を飲む。夕方の試合の熱気が、和らいでいくように思えた。
「第三クォーターでシュートが入った時、思ったんだぁ。あたしを縛っていた……あたしの呪いは、もうないんだって」
「そっか」
「うん。大切な仲間と、今日までのあたしと……空の声が、解いてくれた。ありがとう、本当に」
「どういたしまして」
二人してまたお茶を飲む。今度は気恥ずかしさからくる熱を、どこかに逃がしたかったから。
「何から話したらいいのかな」
「本当にな」
大事な話をしないといけない。それなのに俺の心は随分と軽かった。繰り返していく日々の中で少しづつ縮んだ距離が、大丈夫だと教えてくれるから。
「えっとね、最初に言っておくけど……あの時、空の事が嫌になったわけじゃないから」
「そっか」
それでも嫌われなかったという事実に救われる。
「うん、むしろ逆」
「逆って?」
一口だけお茶を飲んで、夏美がもたれかかってきた。
「もしもあの時、子供ができてたらさ……その責任を、空は全部取ってくれただろうね」
「取ろうとしただろうな」
全部自分でなんとかしようとしたと思う。夏美のためにできることは、なんだってするんだと息巻いていたから。おそらく今も、そんなに変わらない。
けれど俺は知っている、夏美は凄い奴なんだと。
「だからさ、思ったんだ。空が責任を取ろうとしている間……あたしは何してんだろうなって。空があたしのして欲しいことを、全部してくれているのに……あたしは何にもできないんだなって」
「そんなこと」
「ないって言ってくれるよね、空は。知ってるよ、誰よりも優しいのは」
先回りされてしまう。
「でも、許せなかったんだ。空に甘えてばっかりの自分が。あたしが空の隣にいても、重荷にしかなれないって思った」
夏美の声が涙ぐむ。
「あたしのせいで、空が将来を諦めるんだって思ったら……自分が許せなくなった」
流れる涙は拭わない。
「だから、ごめん。あの時はひどいことをした……空の目の前からいなくなることでしか、解決できないと思ったから」
「今は?」
「……重くて面倒な女だって自覚はあるよ。やっぱり甘えて、迷惑かけちゃうかもしれないけれど」
もう、自分で拭けるから。
「辛かったら二人で乗り越えて、楽しかったら二人で分け合いたい」
気が付くと、互いの手を握り合っていた。
「ずっと隣を歩いて生きたい。大好きな空の隣を」
ぎゅうと握られた手が、少し痛いけど。その痛みが心地いい。
「二人で暮らし始めて、もう二月近く経つけど」
壁のカレンダーを見る。適当に選んだものだったけど、今は結構気に入っている。
「洗濯とゴミ出しをしてくれているから、毎日助かってるよ」
「空は料理してくれてるじゃん」
「得意だし嫌じゃないからな。掃除は順番だけど……いや最近は俺ばっかりだな」
そうそう、部活が忙しいからここ二週はずっと俺が掃除機かけてたんだよな。
「しばらくは全部やってくれよ? 大きい試合も終わったんだし」
「もう、今する話?」
「今する話」
だって。
「夏美は重荷なんかじゃないよ」
君と日々を送るのは、こんなにも素晴らしいことなのだから。
「俺は」
『……さよなら、空。元気でね』
いつかの彼女の声が聞こえる。大丈夫、この手はもう離さない。
あの時伝えられなかった言葉が。
「俺も、夏美の隣を歩いて生きたい。世界で一番大切な、君の隣を」
四年まであと少し。自分でも驚くぐらい、すんなりと伝えられた。
「よろしくおねがい、します……?」
続く言葉が疑問形になる。あれ、これでいいんだっけとわからなくなる。
「こちらこそ?」
夏美も首を小さく掲げる。
「今更だね」
「今更だな」
互いの唇を引き寄せ合う。幼いころの約束を果たすには、まだ年齢とか経済的とか、そういう課題はあるけれど。
もう大丈夫。心配なんて山ほどあるけど、その度に話し合ったらいい。
できるから、俺たちなら。今更証明するまでもない。
「えっと、じゃあ……お互い同じ想いということで。ひとつ提案なんだけど、さ」
「提案?」
と、ここで夏美が手を離す。それから恥ずかしそうに顔を背ける。
「やっぱりあの時しちゃったことがさ、こじれちゃった原因だと思うから」
そこに関しては否定できない。
「……やり直さない? 初体験」
「……いいのか?」
お茶を飲んだはずなのに、急に喉がカラカラになる。着古した俺のシャツを着た、風呂上がりの夏美の色気が、今になって襲ってくる。
「いいよ」
彼女のボタンに、手をかける。二度目の『いいよ』も、また理性を溶かしそうになる。
「……来週の土曜日、なら」
「そっか」
ピタッと手が止まる。
「来週かぁ」
ボタンは一つもあけられない。
「らあああああああああああああああああいしゅううううううううううううううう!?」
「声デカッ」
は? え? なんで? ありえなくない? この流れでお預けされることてあり得るの?
「しょうがないじゃん。女の子には、色々準備とかタイミングとかあるんだから」
「それはわかってるけど!」
「わかってるけど?」
「完全にそういう空気だと思ってたから……あっ」
自分で言って、自分で気づく。
「そういう空気に流されちゃったからこじれんたんでしょ、あたし達」
「それは……その通りです、はい」
だからもう、引き下がるしかできない。せっかくやり直すと決めたんだ、もうこじれるのはこりごりだけど。
「土曜なら、時間とか気にしなくていいし」
「それは、そうだけど」
——ん? もしかして朝から晩までする気なのか?
「それに」
夏美が顔を寄せ、俺に耳打ちする。
「土曜は今度こそ本当に、大丈夫な日だから」
今すぐ理性が崩壊しそうになる、魔性の言葉を囁いた。
「……それは」
「せっかく初めてをやり直すんだから、あたしがそうしたいの」
顔を真っ赤に染める夏美。彼女に相応しい称号は、もうこれしかないだろう。
「こじらせドスケベ女め」
「こじらせドスケベ女ですから」
夏美はソファから立ち上がり、カレンダーの前に立つ。赤いペンを唇にあて、んーと頭を悩ませる。
そりゃあ二人の予定はそこに書くって決めたけれど。
「ハートはやりすぎかな?」
「お好きにどうぞ」
そう答えると、夏美は土曜日にハートマークを描く。
「せっかくだしさ、我慢しない?」
「何が?」
「……お互い、一人でするの」
無言で頷く。もとよりそのつもりだったのもある。
「それじゃ、あたしもう寝るから。大会で疲れちゃった」
「お、おう」
カレンダーから目が離せない。
「じゃあ、土曜日、ね」
夏美が寝室へと戻る。残された俺にはただ待つことしかできないが。
ひとつだけ確かなことがある。
——土曜日まで、何をしたって手につかないことだけは。




