彼の過去 中学三年、夏
その日は、天気雨だったのを覚えている。探していたはずの彼女を、どしゃぶりの中、体育館の裏で見つけたから。
「……何やってんだよ、こんなところで」
彼女の元へと走り出す。赤く泣き腫らした瞳に、ぐしゃぐしゃに濡れた体。
何かあったのは、わかった。けれど、何があったのかがわからなかった。
「今、おばさん呼ぶから。いやそれよりも先生に」
夏美が俺の制服を力強く握りしめる。
「やめで、あいだぐ、ないがらっ」
どうにかしないといけないと思った。
「ひどりに、じでよっ」
「できるわけないだろ!?」
言葉とは裏腹に、夏美は俺を離そうとしなかった。
「だれにも、あいだぐないっ! ごんなどころに、いたぐないっ!」
「でも」
悲痛な叫びを止めたかった。
「がえりだいよぉ! 病院にぃっ!」
「何言ってんだよ、折角歩けるようになったんだぞ!?」
できることは、なんでもしてやりたかった。
「いやだよぉ、ここはぁっ! どごがに、つれでっでよう!」
「そんなこと言ったって」
だから。
「俺の家ぐらいしか、ないだろ」
間違えたんだ、俺は。
夏美を背負って、いつもの通学路を歩いた。雨はまだ止まないけれど、何一つ辛くなかった。だって、背中越しの彼女がもっと泣いていたから。
ポケットから鍵を取り出し、玄関を開ける。両親は遅くまで帰ってこない。それが誘いの常套句だと気付いたのは、随分と後になってからだった。
「靴、一人で脱げるか?」
夏美は小さく首を横に振った。だから彼女を座らせて、靴ひもを解いていった。まだ巻かれた足の包帯にどうしても目が行ってしまう。血は滲んでいなくて、安堵したのをよく覚えている。
「今、タオル持ってくるから」
去ろうとする俺の腕を、夏美が強く握りしめる。
「何か飲むか?」
「いらない」
「ここで落ち着くまで座ってるか?」
「いや」
「そうだ、リビングで動画見ようぜ。面白いの見つけたんだよ」
「いや」
「だからって、そのままはまずいだろ」
俺達の服は雨で濡れていた。このままだと、二人とも風邪を引くのは目に見えた。
「……空の部屋がいい」
「二階だぞ」
「また背負ってよ」
どうするべきだったのか、今もわからない。けれどその時の俺は、とにかく彼女に何かをしてあげたかったんだ。
どんな無茶だって、どんな願いだって、叶えてやろうと思ってたんだ。
大好きなひとが、泣いているから。
一歩間違えれば、階段を転げ落ちる。そうしたら夏美の足は、今度こそ元に戻らなかったかもしれない。そんな簡単なことに、もう選択肢を間違えたんだと気付けなかった。
「あー……散らかってる、な」
部屋の扉を開けて、気づく。片付けなんてしちゃいない。夏美が来るなんて微塵も思っていなかったから。
辛うじてまともなのは、ベッドの上と勉強机だけで。また間違える。ベッドの方が柔らかいから、なんて余計な気遣いで彼女をそこに座らせる。
つい先日キスをした幼馴染が、自分のベッドに座るという情景は——中学生の俺には、刺激が強すぎたとも知らずに。
「……やっぱり、タオル持ってくるよ」
「ここにいてよ」
「だったら、何があったら教えてくれよ」
つまらない意地を張った。いつもの夏美なら意地を張って、さっさとタオルを取っきたらって、俺に言うから。
「……いいよ、教えてあげる」
ここに、いつもの夏美なんて、いないのに。
「……嫌われてたの。後輩に」
突然息が、できなくなった。
「あたしは頼れる先輩じゃなかった。試合の結果を気にしてるのは、あたし一人だけだった」
楽しいって言ってた場所は、彼女にとって偽物だった。
「金持ちで、いい学校から推薦もらって、それから毎日男を呼びつけてる……最悪の女。それがあたしなんだって」
気が付くと、彼女の両肩を掴んでいた。
「誰が」
人生で一番腹の立った瞬間だった。連中の顔なんて覚えていないが——今だって、許していない。
「誰がそんなこと言ったんだよ! 部活の連中か!? 今そいつらのとこに」
「やめてよ!」
人を殴ったことなんてないくせに、殴り飛ばしてやりたかった。彼女を泣かせたことを、一生後悔させてやりたかった。
「だって、本当だから」
「本当のわけがないだろ!?」
「どこがっ!」
手を伸ばそうにも、夏美に叩き落される。
「あたしの家はお金持ちで! 萩女子からだって推薦もらった! 空だって、毎日病室に来てくれた! ほら、否定してよ! 本当のわけがないんでしょう!?」
「でも勉強だって、リハビリだって頑張ったじゃないか!」
そういうことじゃないって叫んだ。そいつらはただ僻んでいるだけで、お前のことなんかちゃんと見ていないんだって。あの時の俺の言葉じゃ、伝えきれなかった。
「それが何だっていうのよ!」
二人共、息を切らして無言になる。雨が窓を叩く音だけが部屋に響いた。
大声で夏美と喧嘩したのはいつ以来だっただろうか。きっと子供のころに、まだ飾ってあるプラモデルを壊された時だ。折れた角をセロテープで巻くと、その時は済んだのに。
「……風邪引くぞ、そのままだと」
わからないから、意地を張る。わかりきった話を繰り返す。
「このままがいい」
「いいわけないだろ」
「いいのこれで! あたしなんて!」
だけど、夏美は。
「あの時、死ねばよかったんだから」
言っちゃいけないことを、言ったんだ。
「ふざけるなよ」
彼女の両手首を掴んでそのままベッドに押し倒す。濡れたブラウスの水滴が、そのままシーツにしみこんでいく。
「空は」
夏美は目を丸くしてから、俺の視線から目を背けた。
「私のこと、そんなに大事なんだ」
「……当たり前だろ」
「家族として、でしょ」
「女の子として、だよ」
事故の時、気づいたんだ。俺にとってかけがえのないものは、夏美以外にないんだって。
「ねぇ」
二人の距離が、近い。吐息がかかり、匂いが理性を狂わせ始める。そんなことを伝えたかったわけじゃないのに。手を放して、タオルを取ってくるとでも言うべきなのに。
指先が絡み合う。彼女にもっと触れたくなる。
「脱がせてよ。風邪引いちゃうんでしょ、このままだと」
言葉の意味がわかるから、心臓の音に耐えられない。
「空もさ、脱ぎなよ」
「それは」
「証明してよ。あたしのこと、異性として好きだって」
夏美が視線だけ、俺の下腹部に向ける。
「けど」
唯一残った理性が、準備の不足を訴える。
「……いいよ。今日、大丈夫な日だから」
だけど夏美は、全部が壊れる言葉を漏らすから。
「全部、忘れさせてよ」
雨はまだ、止まなかった。




