第三話 引くべき一線
「お互いの部屋は進入禁止。これは絶対」
食卓テーブルに座り直し、向かい合う俺達。夏美は机の上のノートに、俺の意見を聞かず書き殴る。
「怪我とか病気の時は?」
「……緊急時はいっか」
夏美は『※緊急時は除く』と書き足す。うん妥当だな。
「あと風呂とか着替えは覗かない。これも絶対」
続けて書く夏美。もちろん俺の意見は聞かれない。
「もし覗いたら?」
「ママに連絡して追い出して……もらう?」
「『あらー』って言いそう。言うだけ」
喜ぶだろあの人、あの態度だと。
「じゃあ……一万円」
「なるほど」
一万払ったら夏美の裸が見れるのか。安いな? バイトしなきゃな。
「……ていうかあたし、さっき覗かれてるんだけど。一万払ってよ」
そういえばそうだった、ありがとうございます。払うか? 実質タダか?
「いやいや、泥棒と勘違いしたんだから仕方ないだろ。無人だと思ったら人がシャワー浴びてたんだぞ? そっちにも緊急時は除くって足してくれよ」
「緊急時の覗きってなによ。それに泥棒と間違えることなんて二度とないでしょ」
「虫が出た時とか? 蜘蛛苦手だったよな」
夏美は無言で『※緊急時は除く』と書き足す。ちょろい。
「生活費どうしよ?」
「お互い決まった額を出して、足りなかったらまた出せばいいんじゃない? 個人の財布まで一緒にする必要ないし」
「確かに」
「じゃあ金額は——」
言った通りの言葉を夏美が書いてくれる。長文なせいで少し手持ち無沙汰になり、朝から何も飲んでないことに気づく。
「お茶とかある?」
「野菜室」
「ん」
キッチンに向かい、コップを二つとペットボトルの緑茶を取り出す。冷蔵庫の小さな引き出しを開けると、自動製氷の氷が溜まっていた。実家のより立派だな、これ。
俺は氷少なめで、夏美は多め。無音の部屋に、トクトクと注がれる音だけが響く。
「はい」
「ありがと」
夏美に手渡し、自分も座り直す。氷の音が響くと、東京の暑さが和らいだ気がした。
「家具とか家電とか、結構あるんだな。前の人のだっけ?」
「そうそう。前の住人が急に海外転勤決まって置いていったんだって。新婚だったみたい」
「新婚かぁ」
さっきキッチンを見た時、ペアのものが多かったのはそういう理由か。必然的に夏美と使うことになるのだが……ちょっと気恥ずかしいな。
「……なに想像してんのよ。やらしっ」
「してないって、なんでも二人分あって楽だなって思っただけだよ」
「ならいいけど。それで家事の分担どうする? 内容とか曜日とか……方法はいくつかあるけど」
「夏美って料理できたっけ?」
俺の記憶の中だと、からっきしだった気はするが。
「……ゆで卵と冷凍チャーハンが得意だけど」
「わかった俺がやるわ」
「空こそできるの?」
夏美の問いに鼻を鳴らして答えてやる。
「実は高校でそこそこ覚えたんだ。うちの両親、揃って出世して忙しくなってさ」
「えー本当かなー?」
頬杖をついた夏美が挑発的な笑みを浮かべる。どうやらこいつに『わからせる』必要があるようだ。
「よしわかった、晩飯は俺が作ってやる。食材は何かあるか?」
「……生卵と冷凍チャーハン」
買出し担当も俺だなこれ。
「ちょっと食材買ってくる。駅前にスーパーあったよな」
「あたしも行こうか?」
「んー……米炊いてくれたら助かる。米はあるよな?」
「余ってる」
こいつ冷凍チャーハンばっかり食べてたな。
「ちなみに何作ってくれるの?」
卵余ってるし、夏美の好物は——。
「オムライス。夏美、好きだったよな?」
夏美の体がビクッと跳ねる。何だろう、高校でオムライスがトラウマになったとか?
「うん、好きだけど……?」
なぜか目を合わせてくれない夏美。まぁトラウマじゃないならいいか、卵は賞味期限短しい、早めに使わないとな。
「じゃ、行ってきます」
そう言って気づいてしまう。夏美と一緒に暮らすことを、すっかり受け入れている自分に。これからしばらくの間、俺が帰ってくるのはこの場所なんだと。
気恥ずかしくなってさっさとスーパーに逃げようとする。
「空」
が、呼び止められる。食材以外に必要な物あったっけ?
「……いってらっしゃい」
顔を背けながらも、小さく手を振ってくれる夏美。俺は急ぎ扉を出て、大きなため息をついた。
——いや新婚のやり取りだろ、今の。
◇◇ ◇
バタン、と扉が閉まる。
残されたあたしと、氷の入った二つのグラス。あたしの方が氷が多い。
——覚えていて、くれてた。
こういう小さなことを、あたしの好物だってちゃんと。『夏美、好きだ』ったよな、と言われた時は心臓が止まるかと思った。
「いや、中学生かあたしは」
呟くと、かえって納得してしまう。あたしの異性関係は、あの時のままだったから。
「空とルームシェアかぁ……」
ママの知り合いの子供と聞いて、ちゃんと確認しなかったあたしが悪い。てっきり加奈だと思い込んでいた自分に非がある。
ていうか、ママが悪い。空が大学一緒なら、それだけ教えてくれればいいのに。そしたらこう偶然を装って? あれー空じゃん元気だったー? みたいなやり取りをして?
……そんな器用な茶番をできる自分を想像できない。あたし一人なら、空と会話するまで三年ぐらいかかるだろう。結局高校の三年間、あいつに会いに行けなかったのだから。
だからママの方があたしをよくわかっている。空と会話するきっかけをくれたという意味では、感謝……感謝した方がいいのかなこれ? 言うの文句じゃない?
机の上のスマホが震える。空からメッセだ。
『ケチャップある?』
ふふっと笑い声が零れる。そのひとつ前の会話は……あたしが入院していた時のだ。
高校の時、どれだけ『今度ヒマ?』って送ろうとしただろうか。開いては閉じて開いては閉じて。貴重な部活の休日をそれだけで潰したこともあった。それがケチャップに負けたのだから、もう笑うしかない。
「ない、よ」
OKのスタンプがすぐに帰ってくる。懐かし、中学の時も使ってるじゃん。
またスマホが震える。空……じゃなくて今度はママ。
『ツンデレが許されるのは高校生までよ』
「誰が……っ!」
思わずスマホを握りしめ、ゴミ箱にシュートしたくなる。けど仕方ない、ママがそう言いたくなる気持ちもわかる。
あいつが近くにいるのに、三年間何もしなかった女。それがあたし。だけどママには言ってない、中三の夏にああいうことをしたなんて。
——あの時あたしは、気づいてしまった。空にひどいことをしたんだと。
だからわざわざ遠くの大学に行ったのに。
三年ぶりに会った空は、あのころと変わらず優しいから。
「はぁー……めっちゃ好きじゃん、あたし」
自分の気持ちを自覚するのに、半日も必要なかったらしい。




