彼の過去 中学三年生、春(後)
夏美に勉強を教え始めてから、一週間が経っていた。俺達の学力の差は……まぁ結構あったけれど。それでも『なんとかなるかも』という希望を抱けるぐらいにはなっていた。
クラスメイト達が修学旅行の予定に頭を悩ませている間、俺は必死に勉強していた。俺も夏美も同じ高校に合格するなら、それぐらいやらなきゃいけなかった。
けれど、充実していた。ファストパスをどうするかとか、話題の店でパンケーキ食べたいって話よりも、夏美のために授業の要点をまとめるほうが楽しかった。
——いや、楽しいとは少し違うか。幸せだったんだと、今なら思う。
「もしもーし」
「あ、ママ」
病室で夏美に勉強を教えていると、夏美のおばさんがやって来た。
「お邪魔しています」
「空くん、毎日ありがとうね」
いつもならおばさん一人だったが、今日は後ろに一人いた。見舞い用の花束を持った、スーツを着た背の高い女性だ。
「今日はねー夏美にお客さんが来てるのー。萩女子バスケ部の監督の、佐伯先生」
「お久しぶりです……」
よそよそしく夏美が頭を下げる。そこで萩女子の名前には憶えがあるな、と思い出す。
「俺、邪魔ですかね?」
「いえ、お気遣いなく。すぐ済みますので」
佐伯さんは夏美の近くまでやってきて、花束を手渡しながらこう言った。
「単刀直入にお伝えします。久坂夏美さん……うちで全国出場を目指しませんか?」
「……でも、怪我が」
夏美の視線が自然と右足のギプスに向く。だが佐伯さんはそれを見ても、眉一つ動かさなかった。
「だからこそです。容態については先程お母様からお伺いしました。今からリハビリに集中していただければ、ベストな状態で入学できる、と」
「受験勉強は」
次に夏美が目を向けたのは、机の上に広げたノートと教科書だった。
「しなくていいです。怪我を治すことだけ考えてください」
不思議な感覚だった。俺にとっても夏美にとっても、『勉強しなくていい』という大人を初めて見たから。
「……失礼、急ぎ過ぎました。まずはパンフレットをどうぞ」
鞄から取り出したパンフレットを、佐伯さんは途中だった数学のノートの上に乗せた。
「えっと、どうしてあたしを評価してくれてるんですか? 背が高いとか、技術があるって訳でもないと思うんですけど」
花束を持ったまま、夏美が伏し目がちに尋ねる。
「うちの部員は技術も身長も持っていますが、どこか『これでいいや』と諦めるところがあります。あなたの負けん気の強さは、チームを引っ張ってくれると確信していますから」
夏美の肩が小さく震える。思い当たったんだろう。負けん気の強さにじゃなくて、『これでいいや』と諦める自分に。
「……いつまでに決めたらいいですか?」
「夏季休暇前までにお返事頂けたら」
佐伯さんの顔が夏美に近づく。それを見かねたおばさんが、佐伯さんの肩を叩く。
「それじゃあママ、佐伯先生とお茶してくるからー。あとはごゆっくりー」
おばさんと佐伯さんが、静かに病室を後にした。残された夏美は、しばらく花束とパンフレットを交互に見ていた。
「……だってさ」
「い」
一緒の高校に、行くんじゃなかったのか。
吐き出しそうになる言葉を必死に飲み込む。俺がそう言うと、夏美の本心が隠れるような気がしたから。
「いい話じゃないか」
息苦しさを覚えながら、何とか別の言葉を吐き出す。
「スカウトなんてさ、凄いじゃん。今まで頑張って来たからだな」
「そっか、あたし……頑張って来たんだ」
夏美の目から涙が零れだす。馬鹿な俺はその時になって思い出す。夏美がどれだけ部活を頑張ってきたかを。受験勉強なんて目じゃないくらいに。
「でも空とは違う高校に」
「そんなこと!」
もしこのまま、勉強を続けたら? 言っていたじゃないか、リハビリとの両立は難しいって。
このまま同じ高校に行けたって、大好きなバスケができないかもしれないのに。
「そんなこと、夏美の足より大事じゃない」
目を真っすぐ見て、答える。よかった、言えた。これはちゃんと、俺の本心だ。
「あたし」
夏美の顔がぐしゃっと崩れる。
「あたしまた、バスケしたい」
「……知ってた」
わかっていた。本当は修学旅行なんかよりも、部活が半端で終わることが嫌だったと。どれだけ勉強を教えても、どこか上の空だったことが。
「応援、してくれる?」
「当たり前だろ。全部の試合見に行くよ」
それから満面の笑みを浮かべてから。
「空」
——触れるようなキスをしてくれた。
「……幼稚園の時以来だね」
「あの時はおままごとだったろ」
顔を真っ赤にしながら、俯いて答える。心臓の音がやたらとうるさい。
「あ、覚えてたんだ。やらしーっ」
「俺、今日は帰るわ」
「そっちのがいいかもね。顔見るの……お互いハズいし」
顔を見なくたってわかる、同じ表情をしていることぐらい。
「ねぇ空、ママと監督呼んで来てくれない? まだロビーにいると思うから」
「決めたんだ」
「うん」
振り返る。暗い顔はどこにもない。
「あたし、萩女子に行く」




