旅立ち
大学も三年になれば就職活動が始まる。
能天気に学生気分を味わえるのも、実質的にはこれが最後かもしれない。
今後はまとまった時間を取り辛くなると話し合い、学と二人で気ままなバイクの旅に出る事にした。
ここに翔太がいないのは残念だが、誘ってもあいつが断ったのだから仕方がない。
俺は大型、学は中型の免許を持ってるが、翔太は普通自動車の免許しかないから遠慮したのだろう。
特に急ぐ旅ではないので、一般道を走って原付の速度に合わせてもよかった。
もちろん、俺のケツに翔太を乗せるのでも構わなかった。
それでも翔太が来ないと言ったのだから、無理強いするのも悪いだろう。
この季節の東北はまだまだ寒いので、翔太の野郎は案外寒さに怖気づいたのかもしれない。
「準備はいいか?」
学がカワサキゼファーのハンドルを握りながら、出発の確認をしてきた。
俺はハーレーダビッドソンのエンジンを一声唸らせ了解のサインにした。
意図を察した学が先頭になり、俺達の旅が始まった。
目的地はどこでもよかったのだが、どうせなら旨い物が食べたいという話になった。
俺が餃子を食べたいと言ったら、それならば宇都宮だと学が同意して、最初の目的地が決まった。
気が向けば北海道まで足を延ばしても構わない。
新年度が始まるまで三週間もあるので、いくらでも時間に余裕がある。
気が変われば西に舵を切ってもいいだろう。
交通量が多く、ひっきりなしに車線変更を余儀なくされる首都高を抜けた。
走りやすい東北道に合流して、いよいよ旅に出たという実感が湧いてくる。
ここから宇都宮までなら二時間程度で到着できるだろう。
三月のこの時期にしては暖かく、天気は快晴だった。
俺達はどこまでも行ける。
俺達は自由だ。
◇◇◇◇◇
宇都宮の駅近くの有名店で餃子を食べた。
決して不味くはないが、意外と普通だった。
「悪かった。俺が豪介の期待を煽りすぎたみたいだ」
「学が謝るスジの話じゃねぇだろう。餃子は餃子だ」
聞いた事もない学者が提唱した理論を持ち出して、学が何か言っていた。
期待感を上げすぎると、現実に直面した時の落胆が大きく、期待感が少ないとゴールまでの道のりが苦痛になるんだとか。
当たり前の事を言っているようだが、学から発せられる言葉には妙な説得力があった。
こいつ自身が、餃子の味に納得していないのか。
理屈をいくら唱えても、餃子が劇的に旨くなるわけじゃない。
宇都宮駅近くに安い宿を見つけた。特に予約はしていなかったが、二人部屋に案内できるという。割り勘で二千円程度だ。
俺から文句がある筈もなく、今晩の宿はここに決まった。
「次はどこに行こうか」
「宇都宮は俺が行きてえって言って来たからよ、今度は学の好きな所でいいぜ」
基本的に俺は考えるのが苦手だ。そっちは学に任せるのがいいと分かっている。
「なら仙台でも目指そうか。牡蠣が旨いぞ」
「そりゃいいな」
俺も学も仙台は初めてだ。
どうせなら海沿いの道を走りたいと俺が言った。
宇都宮から北関東自動車道を抜けて一般道に降り、そこからは国道6号を走っていくことに決めた。
高速代の節約にもなると、学も賛成してくれた。
翌日、宿の近くのファミレスで朝食をとり、北関東自動車道を走った。
今日も快晴だ。このまま天気に恵まれればと思う。バイクの旅に雨はつきものだが、降らないに越したことはない。
茨城で一般道に降りる。6号線を少し走ると海が見えて二人で歓声を上げた。
普段はクールな学が開放的になっているようで、一緒にいる俺としても悪い気はしない。
東北地方とはよく言ったもんで、いわき市を越えたあたりから少し気温が下がった気がする。
とはいえ、雲一つない空からは暖かな陽が差している。
長い直線道路は走っていて気持ちが良いし、学が心配するようなトラブルは足音すらも聞こえない。
バイクが止まれば押してだって先に進んでやるつもりだ。
昼時になり腹が減った。
俺達は国道沿いに幟を立てている定食屋に入り、当地の名物というホッキ飯を注文した。北寄貝の炊き込みご飯だ。
こんな田舎で定食が千円もするのかと思っていると、ホッキ飯は大きなお櫃に入って出てきた。
二人分なのかと思ったらもう一つ出てきた。お櫃一つで一人前のようだ。
これに味噌汁とサラダ、さらにミックスフライも付いてきた。
ソフトドリンクも飲み放題だ。
ホッキ飯の味は極上だった。醤油と出汁で炊いたご飯がよく合う。生の北寄貝よりも断然うまい。
さすがは米どころ福島県。米と北寄貝がお互いの旨さを引き立てあっている。
それにしても大量だ。一般的な大盛りの範疇を軽く超えている。
やっとの思いで完食したが、俺が食べ終わる前に学は眼を回していた。東京の小盛りに慣れた学には多過ぎたようだ。
「ここは南相馬市だな。相馬氏が治めた土地で、伊達家とも縁の深い歴史のある町なんだぞ」
「お前は本当に物知りだな。馬が多いのか?」
定食屋の壁には馬が大写しになったポスターが張られていた。
胃が錘になった学が動けないようで、空いているのをいいことに俺達はしばらく店に腰を落ち着けることにした。
「馬はこの町のシンボルだ。野馬追という祭りがあって、騎馬武者の装束で街を練り歩くそうだ。かなり有名なお祭りだぞ」
「勇壮な祭りだな。俺も一度出てみてぇ」
「豪介には似合いそうだ」
「俺が武将で、学が軍師か。じゃあ翔太は…」
「足軽だろうな」
「足軽がせいぜいか」
学も同じ想像をしたようで、俺達はひとしきり笑い合った。
◇◇◇◇◇
飯が消化しきれずバイクに乗るのはきついという話になり、腹ごなしを兼ねて海まで歩くことにした。
午後からの日差しはいよいよ強くなり、今が三月とは思えないくらいだ。
海まで二キロ弱だろうか。俺達は定食屋の大盛りぶりを話題にしながらだらだらと歩いた。
話題が東京と福島の産業構造の違いによる、一日の必要摂取カロリーの違いに至る頃、気付いたら潮の香りがしていた。もちろん、こんな事を言い始めたのは学だ。
「――だから、一日ずっと座って生活する場合と、体を動かす類の仕事をする場合では、必要なカロリー量が大きく違うんだ。一次産業に従事する率が東京とは違なる点を考えると、さっきの食堂の盛り付けは理に適ってる」
俺は少し眠くなってきてしまい、適当に相槌を打っていた。
防波堤から海を眺めながら学の考察が続いている。天気と同様に波も穏やかだ。見渡す限りの水平線が広がっている。
この静かな海のはるか先がアメリカ大陸だと思うと、地球の雄大さが感じられた。
「どちらがらいらっしゃっだんですかぁ?」
学のご高説を枕代わりにウトウトしていたら、不意に声をかけられた。
見ると、いつの間にかセーラー服を着た女の子が横にいて、凪のように穏やかな笑顔を送っていた。
イントネーションが東京のそれとは大きく違う。地元の女子高生だろう。
「東京から来ました」
「うわ~!やっぱり!東京の話をしてだしはぁ、もしがしだらって思っだんだ~」
東京から来た人間が珍しいのか、少女は瞳をキラキラさせて俺と学を交互に見比べている。
「なんでまた南相馬なんがに?」
「ま、まぁ…特に目的地は無いんだけど、男二人の気ままなツーリングの旅だよ。たまたま食べた昼飯が大盛り過ぎて、腹が落ち着くまでここでボーっとしようかなってね」
学が女子高生に説明した。野郎、珍しくドギマギしていやがる。
「な~んも無いとごだげど、ご飯は美味しいべ?お兄さんたちも楽しんでいっでね!」
「ありがとう」
少女はひらりと防波堤を降りると、何度も振り返ってこちらに頭を下げながら去っていく。
学はずっと手を振っていた。
「あの子、好みだろう?」
俺は学に聞いてみた。
「ほっとけ」
学は目を逸らしてそっけなく応じた。
これは図星だ。
女の子はサラサラとしたショートカットに、化粧気はないが良く整った顔立ちをしていた。その表情は幼さが残るものの知性的で、まさに学の好みなのが一目見て分かった。
「確かに飯は旨いし良い街だな。少し早いが今日はここら辺に泊まるか?」
「ああ、そうしようか」
予定通り仙台まで行こうと否定されるかと思ったが、学も南相馬が気に入ったようだ。ただし、それは飯の旨さだけではないだろう。
「かわいい女子高生もいるしな」
「うるさい!」
茶化したら思いきり肩を殴られた。
学はこうした時、ギリギリ俺が痛くない加減で叩く。
◇◇◇◇◇
俺達は食堂まで戻ってバイクに乗り、先ほど歩いた海沿いの道をゆっくりと走った。
田んぼばかりの景色に宿など期待できないと思っていたのだが、幸運にも俺達の目に古びた看板が飛び込んだ。
『民宿今野この先200メートル左』
前を走る学が看板を指さした。
俺達は看板の指示に従って200メートル先を左折した。看板だけ残して廃業している可能性を心配したが、瓦屋根が乗った立派な建物が俺達の前に姿を現した。
門の横にも『民宿今野』と書かれた看板が設置されている。こちらは綺麗な状態なので、廃業しているわけではないらしい。
「すみませ~ん」
学が玄関口で声をかけると、腰の曲がった老婆が出てきた。
「お待だせ~。泊まっていぐが?」
「特に予約はしていないんですが、今晩泊まれますか?」
「ええ、ええ。見ての通り、静かなもんだからはぁ、何人でも大丈夫だ~」
本当に今回の旅は順調だ。
宿帳に名前を書いて俺達はチェックインを済ませた。
民宿は古いながらも清潔で、開け放った窓からは潮の香りが入ってきている。畳の匂いと混ざり合い、古い日本にタイムスリップしたかのような旅情をかき立てる。
居間には古い鎧兜が飾ってあった。学が言っていたお祭りで実際に着用される物なのかもしれない。
「立派な甲冑だろ?死んだじい様が毎年野馬追で着でだんだぁ」
「こちらの太刀も豪壮ですね。拝見してもよろしいですか?」
「いいけど、気ぃ付げでな」
学は老婆に許可を得ると、日本刀を鞘から慎重に抜いて柄から刃先までを丹念に眺めている。
「これは大した業物ですね。手入れも大変でしょう?」
「じい様が死んでがらははぁ、近所の人にやっでもらっでるよ」
老婆は学から太刀を褒められて嬉しかったのか、自分の事のように喜んでいた。
「お部屋は二階がいいがな?したっけ、今案内させっがら」
そう言うと、老婆は大きな声で奥の間に向かって呼びかけた。
「お~い!美緒やぁ!こっぢ来で、お客さん案内せ~!」
老婆が声をかけると、程なくしてバタバタと足音を立てて美緒と呼ばれた女の子が現れた。宿の子なのだろう。
「は~い」
現れた美緒を見て、俺と学は本当に驚いた。
それは、先ほど防波堤で俺達に声をかけてきた女子高生だったからだ。
◇◇◇◇◇
「すごい偶然!まさか久しぶりのお客さんがお兄さん達だったなんて!」
ずいぶんとはしゃぎながら美緒が部屋に案内してくれた。
俺達は素泊まりで良かったのだが、美緒と老婆に強く勧められて夕食も付けることにした。
食後は東京の話を聞かせてくれと美緒にせがまれた。明日は土曜なので、遅くまで付き合わせると言っている。
美緒は高校を卒業したら東京の福祉系の学校へ行きたいらしい。
案の定、学も悪い気がしていないようで快く応じている。
夕食を頼んだ関係で食材が必要になった。買い出しは美緒の役割だそうで、それならばとバイクに乗せて行く事にした。
美緒を学のケツに乗せ、俺達は田舎道にバイクを走らせた。
大型スーパーで食材を買う。初めて見る野菜や山菜がたくさんあり、一つ一つ美緒が説明してくれた。
それはカートを押しながら調味料の棚を見ている時だった。
『ドーン』という音が響いたかと思った途端に、尋常ではない揺れが俺達を襲った。
それが地震であると気付いた時には、高い棚が美緒に向かって襲ってくる瞬間だった。
咄嗟に俺と学が棚を抑えたのは同時だった。あんな物が倒れてきたら、華奢な美緒はひとたまりもなかっただろう。
放り出したカートが倒れた棚の下敷きになって一瞬で潰れていた。学は右手で棚を抑えながら、左手で美緒の頭をかばっている。
それにしても揺れが一向に収まらない。普通の地震であれば数秒、長くても十秒ほどだろうが、いくら待っても立っているのが辛い状況が続いている。
事実、俺達以外の客も年配と思われる人達は、床に倒れ込んで立つことすらできない。
永遠に続くのではないかと思うほどの揺れが数分かけてやっと落ち着いた。
天井が崩落する危険があるため店員の誘導に従って店外に出た。店内は落下物が散乱していて、割れた瓶をよけて歩くのにも苦労する始末だった。
学と協力して怪我をしたり腰を抜かした人を店外に運び出した。
周りは携帯電話で家族と連絡を取ろうとする人が大勢いるが、電波が入らず誰も繋がらないようだ。
「お婆ちゃん……」
落ち着きを取り戻した美緒が呟いた。
そうだ。民宿には美緒の祖母が残されている。
「俺が様子を見てくる。学と美緒はここにいろ」
そう一言残し、俺はハーレーを飛ばして民宿に移動した。
辿り着いた民宿は酷い有様だった。土塀は八割がた崩壊し、庭には落ちた瓦屋根が散乱している。
俺は軋む玄関を力任せに開け、土足のまま室内に入った。
そこかしこに倒れた家具が散乱している。
台所、居間、浴室、トイレと一階を一通り見て回ったが、美緒の祖母は見当たらなかった。
二階にもいない。既に避難しているのだろうか。
通りに出て見回すも人の姿は見えない。
室内で見落としている場所があるかを考えた。倒れた家具の下にいるのならば事は一刻を争う。
捜索個所を検討していると、息を切らせて美緒が現れた。
「お婆ちゃんは?見づがった?」
「いや、まだだ。それより何で来た?学と待ってろって――」
「学さんに無理言っで、連れで来でもらったの」
『ゴゴゴゴゴ』
今度は何の音だ?
遠くから聞こえてくる。先ほどの地震とは違う音だ。
俺は音のした方を見て愕然とした。
それは、海が壁となり、こちらに迫ってくる音だった。
「おい!津波だ!逃げるぞ」
「え?でも、お婆ちゃんと学さんが!」
「婆ちゃんは逃げた後かもしれん。学とはどこで別れた?」
「蔵の前でバイクから下ろしてもらっだ。学さんはこの辺りを探すって言って、そのままバイクで…」
「このままじゃ俺達も津波に飲まれるかもしれない。とにかく逃げるぞ」
俺はなおも躊躇する美緒を無理やりバイクのケツに乗せ、海を背に人通りの無い田舎道をかっ飛ばした。
被る時間すら惜しかったので、俺も美緒もノーヘルだ。
ミラーで後方を確認すると、先ほどよりも水の壁が近付いて来ていた。津波が押し寄せる速度に愕然とする。
「しっかり掴まれ!落ちるなよ!後ろは振り返るな!!」
俺は海から逃げるようにアクセルを全開にする。
美緒の案内に従って高台を目指した。
当然ながら一時停止も信号も全て無視した。
海まで見通せる高台に到着した。
眼下に飛び込んできたのは……地獄だった。
土煙だか水煙だか分からない茶色いガスを纏いながら、これも茶色い水が押し寄せてくる。
押し寄せるのは海水だけではない、飲みこんだ家や車を巻き込んで、全ての物が一斉に移動している。
遠目から見えないのはむしろ幸いだろう。きっと大勢の人も流されているに違いない。
やっと安全な場所まで避難したというのに、俺と美緒は一つも言葉を交わさなかった。
いや、俺は何も言えなかった。
余りにも常識を外れた津波に言葉を失ったのもあるが、お互い口に出せない名前があった。
美緒にとっては祖母、俺にしてみれば親友。
安否を軽々しく口にするのも憚られた。
◇◇◇◇◇
「悪かったな、豪介」
学芸大学のバー『Blue Reef』のカウンター。
隣の席で神妙な顔をした翔太が頭を下げた。
「いや、お前が悪いわけじゃない」
「無理に話を聞き出しちゃったからさ…」
学が亡くなった時の話を聞かせてくれとやたらと熱心に翔太が頼んでくるので、俺はあの時の事を伝えてやった。
東日本大震災。
何度思い返しても後悔しか浮かんでこない。
あの時、俺が餃子を食べたいと言わなければ、東北地方へ行くことは無かった。
牡蠣を食べるのに同意しなければ、海が見たいと言わなければ、南相馬に泊まると決めなければ、俺達の運命は変わっていたかもしれない。
学は死なずに済んだかもしれない。
今までは意図的に学が死んだ時の話題は避けてきたが、話すことであいつとの思い出を再確認できたのは良かった。
辛いことに変わりは無いが……。
「やってやる」
「あ?なんだって?」
翔太が何か小声で呟いたが上手く聞き取れなかった。
俺は翔太の言葉をそれ以上聞き返さず、ロックのウイスキーを一息に飲み干した。




