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第五話・花筏

私は今、とてつもなく居心地が悪い。


理由は単純明快。


昨日の授業脱走の尻拭いをさせられているからだ。


「あのな如月。泣いている女の子を泣き止ませるために教室を出ていったのはまだいい。だがそのまま帰るとはどういう了見だ?」


目の前の山中教諭はわかりやすく怒っている。


「……申し訳ありませんでした」


「申し訳ないで済む話か。お前は首席だろう。他の生徒の手前というものがあるだろうに」


まったくもってごもっともです。


反論の余地がないので黙って頭を下げ続けていると、職員室の扉がノックもなく開いた。


「山中先生、如月の件でしたら私の方で厳しく言い聞かせておきます」


鈴木教諭だった。


眼鏡の奥の目が涼しげで、声がどこか楽しそう。


何でこんなにタイミングよく現れるんだ。


昨日あんな場面を見た後だと、少し違って見えるが。


山中教諭が眉を上げる。


「鈴木先生が?」


「担任ですので。うちの如月がご迷惑をおかけしました」


「……まあ、鈴木先生が言うなら」


山中教諭はまだ不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。


私は内心で大きく息をついた。


ナイスタイミング。


職員室を出ると、廊下に鈴木教諭が先に立っていた。並んで歩き始める。



「助かりました。ありがとうございます」


「いや、いい。昨日世話になったのはこっちだからな」


「厳しく言い聞かせるって言ってましたけど」


「今言い聞かせている。反省しろ」


「すごくしてます」


「ならよろしい」


即座に帰ってきたので思わず笑いそうになってしまった。


何だこの人。


それはそうとひとめぼれの大先輩がこんなに近くにいるとわかったなら、やることは一つ。


聞けること全て聞き出す。


「あの、ひとめぼれについて、詳しくお聞きしたいです」


「と言われてもなあ」


鈴木教諭が少し考えるように上を向いた。


「強いて言うなら、気づいたら通ってたな。椿神社に。気づいたら、ずっと一緒にいた」


「……それって、最初から分かってたんですか」


「まさか。なんでこんなに足が向くんだろうと思いながら何年も通ってた。椿さんはわかってたのかもな。鈍いんだ俺は」


「恋人、とは違うんですか。ひとめぼれは」


鈴木教諭が黙った。


少し考え込むそぶりをした後、

「違う、とは言い切れないが……恋人という言葉には収まらない気がするな。いつのまにかいて当たり前の存在になっていたんだよ。だから失う想像ができない」


存在が当たり前になりすぎて。


その言葉を聞き、足が止まった。


失う想像ができない。


本当に怜さんのことをそんな風に見れる日がくるのだろうか。


私はしばらく黙って廊下を歩いた。


鈴木教諭も特に続きを促さなかった。


怜さんのことを、考えた。


待った、と言っていた。


その間何を考えていたんだろう。


何かを失う怖さがあったのか、それとも最初から確信していたのか。


あの人のことだから後者な気もするが。



「椿さんのこと、もう泣かせないでくださいね」


また来られたら困るし、それに子供に泣かれると居心地が悪い。


鈴木教諭は少し間を置いてから、眼鏡を押し上げた。


「言われなくても」


否定はしなかった。


それだけで十分だと思った。


「教室に戻れ。今の時間なら一限に間に合う」


廊下を引き返しながら、私はさっきの言葉を頭の中で繰り返した。


放っておけなかった。


気づいたら、ずっと一緒にいた。


なんだかんだ、悪い朝じゃない。


そんなことを思いながら教室へ戻ると私の卓の上に何か手紙のようなものが置かれていることに気がついた。


誰からだろう、と手紙をめくる。


今日、迎えに行く

         花守怜


頭を抱えてしまった。


昨日伝えればいいのになんでこの人はこんな原始的なんだろうか。


そんな神に呆れながらも私は自分の口角が少し上がるのを感じた。


気づいて、すぐに引っ込めた。


誰も見ていないのに。



手紙を畳んで教科書の間に挟んだ。


見えなければいい、と思ったが、挟んだことには気づかないふりをした。


一限はまた桜蘭史だった。


教科書を開いても、頭の中で文字が浮かんで滑っていく。


今日、迎えに行く。


この間迎えにきた時は急だったから、今回は事前に伝えてきた。


それが手紙なのがあの人らしいが。


黒板の方に目を向ける。先生が何か話している。聞こえているのに内容が全く入ってこない。


鈴木教諭の声が頭の端で再生される。気づいたら、ずっと一緒にいた。


私は今、怜さんのことをどう思っているのだろう。


放っておけないのか、それとも放っておけない人に好かれてしまって、その重さに慣れてしまっているだけなのか。


まだ、わからない。


ただ、手紙を見て少なくとも嫌な思いはしなかった。


それだけは確かで、私はその事実からそっと目を逸らして教科書に視線を落とした。


それにしても、またあの黒塗りの車で来るのだろうか。


正直目立つからやめて欲しい。


あまりひとめぼれということを口外したくはない。


まあいずれ公表しなければならない日は来るのだろうけど。


何時頃来るのかも書いていなかった。


早退する用事でもできたら連絡の手段がない。


そもそも怜さんに連絡を取る手段が私にはない。


次に手紙が来たら何か手段を要求しよう。


神なんだから頑張ればできるだろうと考えてふと気づいた。


……椿さんと鈴木教諭が連絡を取れなかったのだから無理なのでは?


というか、なんで当たり前のように次を想定しているんだ。


黒板を見る。先生の声が遠い。


放課後のことを考えるのをやめようとして、やめられなかった。


どこに行くのか。


何をするつもりなのか。


どんな格好でくるのか。


全部どうでもいいことのはずなのに。


チャイムが鳴って、ようやく我に返った。


紙には今日の日付しか書いていなかった。

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