第六話・一触即発
放課後のチャイムと同時に教室を出ると、校門の前に見覚えのある漆黒の車が止まっていた。
「乗れ」
窓から顔も出さずに言う。
でも今日は逆らう気力もなくて、素直に後部座席に乗り込んだ。
車が走り出してしばらく、怜さんは何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
アネモネの香りが車内に満ちていて、それだけがやけに現実感があった。
「今日、先生にひとめぼれのことを聞きました」
「何を聞いた」
「いて当たり前の存在になる、って。失う想像がつかないって」
怜さんは答えなかった。
窓の外を流れる街並みを眺めているのか、ただ前を向いているだけなのか、横顔からは読み取れない。
「…私にはまだ、イメージがつきません」
怜さんが黙った。
宮に着き、車が止まる。
扉が開かれ、庭に咲く桜の大木の匂いが鼻を燻る。
怜さんが私に視線を向ける。
その視線の中にどこか憐れむような、そんな感情を見てしまい、視線を桃色の地面に逸らす。
「怜さんは、私に何を求めてるんですか」
その瞬間だった。
ドォン、と。地面が揺れた。
爆発、ではない。
もっと根本的な何か。
空気の質が変わる感覚。
皮膚が粟立つような、強烈な「殺意」の気配。
「……怜さん」
「動くな」
低く、静かな声。
いつもの声と同じはずなのに、全く別の響きを持っていた。
霧が晴れるとそこには人影が二つ。
一人は体格の良い青年で、もう一人は12歳ほどの少年を片肩に担いでいる。
いや、逆だ。
少年が青年の肩に乗っているのか。
青年の手には巨大な戦斧。
それを、まるで木の枝でも持つように軽々と提げている。
青年は肩に乗せた少年が落ちないように安定させながら、もう片方の手で巨大な戦斧を軽々と回してみせた。
「ねぇガラム、もっと近くで見せてよ。あらが怜の『お気に入り』?……ふーん、意外と地味なんだね。もっと強そうな女かと思った」
少年が身を乗り出すようにして私を指差した。
「ねぇ怜、ちょっとそのお姉ちゃん貸してよ。壊し甲斐がありそうだし、僕が可愛がってあげる」
笑顔のまま言う。
その目が、笑っていない。
「アイアス」
怜さんが私の前に、壁のように立つ。
「俺の前に出るな、朱根」
それだけ言って、刀の柄に手をかけた。
私は初めて見た。
怜さんが、本当に戦おうとしている姿を。
研究室でも、廊下でも、車の中でも、あの人はいつも余裕があった。
何をされても崩れない、圧倒的な王者の風格。
でも今の背中は違う。
余裕とかそういう話じゃない。
ただ純粋に、私とあの二人の間に立っている。
「……怜って本当に冗談通じないよね。ねぇガラム、あのお姉ちゃん、楼蘭じゃなくてリラの方が似合うと思わない?」
「さあ。どうでしょうね、アイアス様」
「絶対そうだよ。貰うね」
アイアスが指先をパチンと鳴らした。
瞬間、不可視の何かが私へと飛んでくる。
「っ」
咄嗟に目を瞑った。
衝撃は来なかった。
怜さんが刀を一閃させていた。
それだけで、見えない攻撃が霧散した。
「次に朱根へ向けて何かを放ったら、首を落とす」
「わあ、怖い怖い」
アイアスが楽しそうに笑う。
ガラムが戦斧を構え直す。
怜さんから、黒い何かが立ち上り始めた。
熱でも煙でもない。
ただ圧倒的な質量を持った何か。
桜の葉が、風もないのに激しく揺れた。
私は息をするのを忘れていた。
足が、動かない。
これが、武神だ。
「……あーあ」
アイアスが、突然大きなあくびをした。
「つまんない。ガラム、お腹空いた」
「え、もうですか。いいところなのに」
「今日は挨拶しにきただけなんだよね。バイバ〜イ、怜。お姉ちゃんも、またね」
「悪りぃな怜さん。うちの坊ちゃんは飽き性なもんで。……じゃ、そういうことで」
屈託のない笑顔で手を振って、二人の足元から黄金の光が弾けた。
次の瞬間には、誰もいなかった。
静寂。
花びらが一枚、ゆっくりと落ちた。
背筋が、遅れて冷えた。
リラの神のアイアスと、ひとめぼれのガラム。
アイアスは「魔法」を司る神で、桜蘭とは国交断絶中。
以前見た付箋が頭をよぎった。
リラの動向、要注意。
あれは警告だったのか。
それより気になったのはガラムの方だ。
ひとめぼれがあんな形で主人に付き従っている。
私と、鈴木教諭とは全く違う。
同じひとめぼれでも、神との関係はこんなにも違うのか。
そしてあの二人が今日ここに来た理由は、挨拶、とアイアスは言っていた。
挨拶にしては物騒すぎる。
私を「貰う」と言っていた。
「……怜さん」
返事がなかった。
怜さんはゆっくりと刀を納め、そのまま動かなかった。
背中が、さっきより少しだけ疲れて見えた。
「怜さん」
もう一度呼ぶと、ようやく振り返った。
いつもの顔だった。
意地悪そうな口角も、真紅の瞳も。
でも何かが、少しだけ違った。
「……怪我はないか」
「ないです」
「そうか」
それだけ言って、私の手を引いた。
風が吹き、花びらが庭に根を下ろす。
二人ともしばらく無言だった。
「……怖くないんですか」
「何を今さら」
「なんとなく」
怜さんは答えなかった。
扉が開き、畳の上を歩く。
窓の外を見ている横顔が、夕日に照らされていた。
私はさっきの背中を思い出した。
壁のように、ただそこに立っていた。
「…怜さん」
「ただそばにいろ」
「え」
「俺が求めているのはそれだけだ」
返せる言葉が、なかった。
あるいは__返したら、何かが変わってしまう気がして。
怜さんの手の力が少しだけ強くなる。
それがどこか余裕なさげで、何かを守ろうとする子供みたいで。
失う想像ができない。
鈴木教諭の言葉が、思いがけない角度で刺さった。




