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第三話・研究室

怜さんに引きずられるようにして連れて行かれたのは、宮の奥にある研究室だった。


廊下の突き当たり、木の扉の隙間から、焦げた金属と薬品の混じった鋭い匂いが漏れ出ている。


鼓膜を震わせるような怒声が、その向こうから響いた。


「だーから!なーんでお前は指示してない配線図を勝手に書き換えるんだ!」


「ひっ…す、すみませんっ」


「やよいさーん、坊ちゃんが怖がってるんで落ち着きましょ一旦。ね?」


「白を甘やかすな。それとも白の代わりにお前が怒られるか?」


「え?」


物騒な会話に、思わず足を止めた。


どこをどう考えても国の頂点に立つ研究室から聞こえる会話内容ではない。


「…怖」


思わずドン引きして言葉を漏らしてしまう。


今にも血みどろの殴り合いが始まりそう。


そんな私を横目に怜さんは迷いなく扉を蹴り開けた。


扉が開いた瞬間、熱気と埃の匂いが一気に押し寄せてきた。


壁という壁に紙が貼り付けられ無数の数式と地図が浮かび上がっている。


そこには異様な光景が広がっていた。


鋭利な空気を纏ったきっぱりと切り揃えた断髪で白衣を羽織る女性が、どこか軽薄そうな洒落者の男性の胸ぐらを掴み、今にも殴りかからんとしている。


その真ん中で、私と同じくらいの年齢に見える少年が、半泣きでおろおろと右往左往していた。どういう状況?


「客人だ。喧嘩するな。……特にやよい、その手を離せ。予算を削るぞ」


「…………チッ。金で釣るとか、相変わらず性格悪いな」


女性は渋々といった様子で男の人の手を放した。


「やよいだ。この研究室の学士」


ぶっきらぼうな自己紹介。学士は学問で大成した人。


つまり私とは比べ物にならないくらい賢い人。


次に、おろおろしていた男の子がぺこりと頭を下げる。


「白です。あの、書生です。よ、よろしくお願いします……」


書生ってことはまだ見習いの子。


綿菓子のようなふわふわした雰囲気の彼に少し癒やされていると、蓮さんがひらひらと手を振って近づいてきた。


「よっ、朱根ちゃんだよねー。俺は蓮。この研究室の用心棒だよ。よろしく」


握手しようと出された手を取ろうとすると冷めた目の怜さんに抑え込まれた。


「朱根に変な虫を寄せるな」


「す、すみません……!」


思わずポツリと言葉を漏らしてしまう。


「……嫉妬魔」


その言葉を聞き、お前は黙っておけと言わんばかりに軽くこちらを睨みつけてくる怜さんに引き攣った笑みを浮かべる。これ死んだかも。


白くんが震えながら一歩下がると、怜さんはその怯える様子をじっと見つめ、鼻で笑った。


「…白。お前、今日は一段と他国産の香水の匂いが鼻につく。身だしなみには気をつけろと、あれほど言ったはずだが?」


「えっ……あ、そ、それは……安物だったので、つい……」


白くんの顔から一瞬で血の気が引く。


怜さんはそれ以上追及はしなかったが、たかが香水でそこまでしなくても、と呆れながら怜さんを見ると、その横顔はいつになく真剣だった。


香水だけでそこまで怒るようなことなのか?確かに、国の頂点に近い者は桜蘭産の香水を使うのが1番いいがなぜかそんな些細なことが気になってしまった。


自己紹介もそこそこに、怜さんが本題を切り出した。


車内で粉砕した盗聴器の残骸を、卓の上に放り投げる。


「これを解析しろ。どこから送られたものか、一秒でも早く特定しろ」


「はぁ? 現物がこれじゃ、証拠も波長も追えるわけないでしょ。物理的に消滅した記録は戻らないんだよ、馬鹿が」


やよいさんの容赦ない言葉にヒヤヒヤして怜さんの顔色を伺った。


あまりにも言葉が強すぎる。…不敬罪発動しない?これ。


しかし、怜さんは表情一つ変えず、淡々と告げた。


「三億」


「は?」


「三億出す。機材でも解析装置でも好きに買え。最低でも五日以内になんとかしろ」


「決まりだ。蓮、白、仕事だ。あの怜から三億もせしめたんだ、現物なしでも死ぬ気で引っ張り出せ」


一瞬で研究室の空気が変わった。


やよいさんと蓮さんの目が、獲物を狙う野獣のようにギラついた。


白くんは…その熱気にはわわとなっている。私はあまりの金額に、心臓が跳ね上がった。


「三億って……バカなんですか。国家予算を私用の盗聴器調査にぶっ込むなんて、財務大臣が泡吹いて倒れますよ」


「お前の安全を買うには、これでも安すぎる」


怜さんはそう言って、私の頭に大きな手を乗せた。


えらく素直だ。それ以上言葉にはしなかったが。


やよいさんは胡散臭そうにこちらを一瞥してから、手元の資料に視線を戻した。


壁に貼られた数式や図面が、素人目にも常人のものではないと分かる。


「……何の研究をしてるんですか」


気づいたら口をついて出ていた。


やよいさんは少しの間黙って、それから面倒くさそうに答えた。


「…ぶん殴りたいやつがいるんだよ」


「ぶん殴りたい…?」


あまりに物騒な動機に、私は思わず振り返ってしまった。


視線を泳がせる私を見て、やよいさんはふんと鼻を鳴らす。


「安心しろ。怜じゃない」


「…あ、そうじゃないんですか」


隣で私を過保護に見守っていた怜さんが、どこか居心地悪そうに


「……俺はやよいに殴られるような覚えはない」

と小さく呟いた。


「はっ、誰かしらから怒りは買ってるだろ。ま、今のところは、この国の『神』である怜の財力と権力が、私の目的には必要だってだけ。あんたを助けるのも、そのついで」


やよいさんはそう言って、ガリガリと頭を掻いた。


その仕草は乱暴で、どこまでも現実的で、冷徹な計算に基づいているように見える。


「じゃあ、その『ぶん殴りたい相手』っていうのは、悪い人なんですか?」


私が好奇心に勝てず尋ねると、やよいさんの指先が解析機の上でぴたりと止まった。


一瞬の沈黙。 研究室に、文字盤の駆動音だけが虚しく響く。


「…………あぁ。自分勝手で、傲慢で、自分の納得のいくように全てを終わらせた」


「…そうですか」


どこか踏み込んでは駄目なような気がして、それ以上聞くことはできなかった。



研究室の隅に追いやられるようにして、私はぼんやりと周囲を眺めた。


壁一面に貼り付けられた地図や資料が目に入る。


四大国、という言葉が何枚かの資料に繰り返し登場していた。


桜蘭、ノヴァリス、死泉河、そしてリラ。


世界を分かつ四つの国。


授業で暗記したことはあるが、こうして並べて見るとずいぶん違う。


ノヴァリスは『花』を司る神が治め、桜蘭と1番近い国。


死泉河は『生』と『死』を司る神が治め、国民の神への信仰心がとても強い親桜蘭国。


リラは『魔法』を司る神が治めている。


比較的新しい国で桜蘭とは国交が断絶している、というより国際的に孤立している。


特に怜さんと信じられないくらい仲が悪いのだ。


そりゃそうか、あの人が仲良くできる相手の方が少なそうだ。


そしてこの桜蘭は、千年の間ずっと『ひとめぼれ』の空席を抱えたまま、他の三国に遅れを取り続けてきた。


資料の端に、小さな付箋が貼ってある。


『リラの動向、要注意』


「……怜さん」


「なんだ」


「この付箋、やよいさんが貼ったんですか」


「ああ、俺が貼った」


素っ気ない返事。


でも、さっき盗聴器を見た時の怜さんの目が、頭にちらついた。底なしの怒りに似た何か。


リラ。今までにない魔法という力で急速に勢力を拡大している国。


そして桜蘭のひとめぼれに、盗聴器。


点と点がぼんやりと繋がりかけて、でも全部は見えなくて。


私は資料から目を離した。


今は考えても仕方ない。


「帰るぞ、朱根」


怜さんの声に、私は素直に頷いた。


「お邪魔しました」


「また来てね、朱根ちゃん」


蓮さんのひらひらした手振りを背中に受けながら、研究室を出た。


廊下に出ると、城の夜風が思いのほか冷たくて、思わず足が止まった。遠くでどこかの部屋の障子が風に鳴っている。


「…寒いか」


「少し」


怜さんは何も言わず、私の肩を引き寄せた。


いつもの執着めいた強引さとは少し違う、ただ隣にいるというだけの距離感で。


廊下の灯りが、二人分の影を長く伸ばしていた。


肩が、思ったより温かかった。


それだけ。

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