第九章 初恋の行く先は①
予約していたレストランに着き、案内された席に座る――前に、
「うわぁ〜…!キレ〜…!!」
笹野が目の前の大きな窓ガラスまで駆け寄って、外の煌めく夜景に子供のようにはしゃいだ。店員はそんな笹野を見て、にこやかに笑っている。
「ちょっ…ちょっと明香里さん…!恥ずかしいからやめ――」
「うん、綺麗だな。」
笹野の子供っぽい無邪気な姿に、愛おしいという気持ちが溢れそうになる。
「はい!綺麗です!」
そう振り向いた純粋無垢な笑顔に、今度はドキュンと胸を撃たれた。
「かっ…!」
かわいすぎんだろっ…!!!
と、悶絶したところで店員が椅子を笑顔で引いた。そろそろ座れという合図に、笹野はルンルンで「ありがとうございますっ♪」と無邪気に座る。
そんな笹野に、姉さんはもう「恥ずかしい」なんて言わなくなった。困ったように笑って、優しく笹野を見つめるのだ。
「ふおおおお…!なんですかこのカトラリーの数…!ポケモンみたいにこの中から一本選ぶんですか…?!」
三人全員が座って直後、円形のテーブルの上に並べられた、皿の隣のカトラリーに笹野は動揺する。
アホで可愛い。
「ぷっw 両端から使うんだよw 学校でテーブルマナーとかやらなかったか?」
「あー、やりましたね。ですが、ご飯が美味し過ぎて何も説明聞いてませんでした。」
なんだよそれ可愛いな……!!
「ははっww 明香里さんってほんっと幸せそ〜よねw」
笹野の笑顔にまたもや癒されていくと同時に………もし、笹野と学校が同じだったなら…と意味も無い考えが浮かび上がってきた。
もし……学校が同じだったなら………きっと……告白するのにも、こんなに躊躇うことなんて無かっただろう…。
壁は年齢だけじゃないけれど…………それでも……せめて、年齢さえ近かったなら………。少しは……自信が持てたんだろうか…。
けれど、そんな負の感情はいつものように笹野が吹き飛ばしてくれた。
「幸せですよ♪ なんてったって、こんっなに素敵な方々とこうやって笑顔で過ごせているんですから!」
そうだ……。年齢なんか関係無い。
ただ、俺は笹野と一緒にいたい。
笹野を守りたい。
俺が、笹野をこれからも幸せにし続けたいんだ。
改めて意気込み、「へへへっ」と照れくさそうに笑う笹野を見つめて目を細める。
そうしていると、早速アペリティフ――食前酒が来た。店員が注いでくれているワイングラスを眺めて、笹野はキラキラと瞳を輝かせる。
店員が全員分注ぎ、去ると俺たちは静かに乾杯した。
「ん〜!おいっしぃ…!このお酒っ、すごい香り高いです…!!!」
目を丸くした笹野はとても嬉しそうに、頬っぺを赤く染めて俺と姉さんへ教えてくれた。可愛すぎる。
「うん、美味しいわね。」
「それは良かった。」
「おふたりは私のとは違うんですね。」
笹野は俺と姉さんのグラスを見て不思議そうに尋ねた。高級感のある自分の軽やかな色をしたワインとは違う、単調的な深い色が気になったのだろう。
「ん?あぁ、ぶどうジュースだよ。」
「あれ、唯織さんもこのあと運転するんですか?」
「……っるさいわね…。少しは察したらどうなの?さっきもあんたがお酒飲んでる間、私はぶどうジュース飲んでたじゃない。」
「姉さんも酒飲めないんだよ。」
「ちょっ…律月!」
「唯織さんみたいなカッコイイ方が下戸だなんて意外ですね!何だか可愛らしいです。」
そう言う笹野の はにかみが一番可愛い。
「うっ…うるさい…。というか……明香里さんみたいなキャピキャピしてる子がお酒大好きってほうが変でしょ。」
「そうですかね?」
それから、アミューズ、オードブル(前菜)、スープ、パン……と俺たちは高級なフランス料理を楽しんだ。全て皿には少量しか入っていないが、それでも会話は盛り上がっていた。
「ん〜!ホロホロで美味しいです〜!」
ポワソン(魚料理)を食べているとき、隣のテーブルで、突如男性が立ち上がった。何事かと思ってそちらへ目をやると、男性は目の前の女性に膝まづいて小さな箱を開ける。
「僕と、結婚してください。」
そんな一言で、店中の客が二人を見つめた。みんな知り合いでもないのに、全員が同じように息を呑んでいる。そんな期待を、隣のテーブルの二人は裏切らなかった。
「おねがいします!」
幸せそうな笑顔で女性がそう答えた途端、店中が二人に拍手喝采を浴びせた。特に斜め前に座っている笹野が一番大きな音で手を叩いている。
――誰よりも満面の笑みで。
「いや〜、プロポーズの場面に遭遇できるだなんて、何だか光栄ですねぇ。」
笹野はヴィアント(肉料理)を上品に食べながら、まるで自分のことのように呟いた。見ず知らずの他人の幸せを、心の底から喜べるだなんて本当に笹野は良い奴だ。
「そうだなぁ。」「そうねぇ。」
「「………。」」
また被った……。
「……はぁ…。」
「…なんで睨む?仕方ないだろ…。」
「ええ、そうね。あんたは『姉さん』にベッタリで、ぜーんぶ私のマネしてたもんね?」
「はあ?してないよ。」
「いいや、してたわ。ぬいぐるみだって、おもちゃだってなんでも『姉さんとおそろい』を選んでたじゃないの。」
「いや、あれは母さんが勝手に買ってきただけだし。姉さんだって、俺がアイス食ってたら欲しがってただろ。」
額に思い切り皺を寄せてうんざりしながらも返すと、笹野が嬉しそうに呟く。
「やっぱりお二人、仲がいいですねぇ。」
「「はあ?」」
「良くないわよ。こんな気弱でかっこ悪い奴、誰が仲良くするって言うの?」
「奇遇だな。俺も姉さんみたいな傲慢で我儘な奴は御免だ。」
「なんなの?昔はあんな『姉さん、姉さん』ってうるさかった癖に。」
「へぇ、嬉しかったのか。意外だな。」
「嬉しい訳ないでしょ!」
「お二人とも……この場で喧嘩は…――」
「うっるさいわねぇ、あんたが『仲良い』とか言うからじゃない!」
「笹野が『仲良い』とか言わなかったらこんなことにならなかったんだ!」
「えぇ……私ですか…。……お言葉ですが、お二人共 姉弟揃って子供過ぎます!もっと、『素直』になってはいかがでしょうか。」
「逆にお前が素直過ぎるんだよ。」
いつもいつも思わせぶりなことばっか言って、俺を期待させやがって…。
「『素直』に越したことはありません!碓氷さんだって、いつも嬉しそうな顔してるじゃないですか!」
「っ……うるせぇ…。」
気づいてるのかよ……。俺が照れてるのを知ってて、あんなこと言ってたのか…………。
「…ずるいんだよ…お前は……。」
ぽつりと小さな声で零した言葉は、笹野には聞こえていないようだった。「何か言いました?」と首を傾げているだけ。
一方、姉さんは地獄耳なようで何故か嬉しそうに口元を緩ませている。
「……なんでも…。」
「嘘です!何かおっしゃいました!あ、もしかして悪口ですか?!聞こえないように言うなんて卑怯です!文句を言うなら、もっと堂々と言ったらどうです?!」
「…………。」
「明香里さん、うるさいわよ。早く食べなさい。」
「弟を庇うんですね?!いいです!私は一人の力で生きていけるので!」
フンっと鼻を鳴らして、笹野は先程までの上品さが嘘のようにオレンジソースのかかったローストビーフを豪快に頬張る。
拗ねた姿が可愛らしくて、つい目を惹かれてしまう。そんな俺の視線に気がついて、笹野はこちらを見る。
「なんですか!今更謝るつもりですか?!」
赤くなった頬と眉間に寄った皺が可愛い。
「ほら、いいから早く食べなさいよ。」
「食べてますよ!美味しくて涙が出そうです!」
怒りながら褒めるの可愛すぎるだろw
プンスカしてる笹野があまりにも可愛すぎて、俺はもう緩んだ頬を隠すことなんか半ば諦めていた。
そして、そうやってニヤケながら笹野を見つめていると小さな鼻先についたオレンジソースに気がつく。
「そんなに見つめて何なんですか!私の顔に何かつぃ……」
笹野が言いかけていた途中で、俺は笹野の鼻先についたオレンジ色へナプキンを持つ手を伸ばした。笹野は息を呑むようにして黙る。
「ははっ、どうしたらそんなとこにソースがつくんだよw」
そうやって笹野が怒りそうな言葉をかけたが、笹野は何も言わなかった。ただ、頬を赤らめて、揺らいだ綺麗なエメラルドの瞳で俺を見つめるだけ。
そんなふうに笹野に見つめられて、胸がドキドキと高鳴ってくるが……
「あら、明香里さん照れてるの?」
姉さんがその雰囲気をぶち壊してきた…。
「てっ…照れてなんかいませんっ……!!」
「ふーん?二人して顔が真っ赤だけど、そんなここ暑いかしら?」
「「っ……」」
「ね…姉さんも早く食えよ……。」
「私もう全部食べちゃったぁ。あんたたちがイチャイチャしてる間にね。」
「いっ……『イチャイチャ』なんかしてませんっ…!」
「へぇ?友達の鼻についたソース、普通拭いてあげるかな?」
「ちょっ…!姉さ――」
「普通、友達に鼻を拭いてもらっただけで、何も言えなくなっちゃうかな?」
「なっ…何も言えなくなった訳じゃ…!」
「ほら、早く食べなよ。」
姉さんはそう言って俺と笹野の顔を一瞬見てから、ワイングラスを傾けた。
「っ……。」
何なんだよ姉さん………。
もしかして……笹野に俺の気持ちをバラそうとしてるのか…?!い、いやいや…!そんなことある訳ないだろ……!!さっきだって、「人生壊してばっかでごめん」って謝ってたんだから…!!!
…………いや……姉さんならやりかねない……。
………………けど…………それなら……どうして笹野もからかう必要がある…?というか……!!笹野はなんで顔赤くなるんだ…?!も、もしかして俺のこと………………いっ…いやいやいやいや…!期待するな……!!!そんなこと、絶対に有り得ないんだから…!
「おいし〜い!こんなに美味しいケーキ初めて食べました…!!中がトロトロで、蕩けちゃいそうです……!!」
笹野は小さなガトーショコラにうっとりとしている。
そんな笹野を見て微笑みながらも、甘さ控えめな小さなオペラを口へ運んでいると姉さんが尋ねた。
「そういえば、二人はどうやって出会ったの?職場も違うのに。」
「あ……えっと…そ、それはですね…………。夜中……残業を終えて帰っていたら、曲がり角で……」
笹野の蕩けるような甘い顔が瞬時に、苦々しい顔へと変わった。
「え、ぶつかったの?随分と運命的な出会いね。信じられない。」
「いや、殴られたんだよ。」
「はっ?」
「ふっ不審者に追いかけられてて…!!!先回りしたと思ったんですっ…碓氷さんが急に現れたから……。」
焦って目が泳いでるww やっぱり表情が騒がしくて可愛いなあw
「へぇ、殴るなんて強いじゃないの。そういう子、私好き。」
姉さんの一言に、笹野はとても嬉しそうに瞳をキラキラと輝かせた。
「ほんとですか?!私も唯織さん大好きですっ!」
突如、熱い眼差しを受けた姉さんは照れくさそうに笹野から目を逸らす。
「う…うるさい……。大きな声出さないでよ…!」
…………俺も……笹野に今、「好きだ」と伝えたら………笹野は同じように返してくれるのだろうか…。
「唯織さんったら照れてるんですか〜?可愛いですねぇ♪」
「っるさい…!!」
「あれぇ唯織さん、顔が赤いですねぇ〜♪」
…………いや、変な妄想はやめよう。
「だからうるさいって言ってるでしょ?!執拗いわよ明香里さん。いい加減にしないと痛い目見るわよ。」
「えっ…?!あっ……ごめんなさい…。」
あっという間に高級コース料理は全て胃袋に入り、俺たちは店を出ようと席を立ち上がった。
そして、笹野はもう一度窓の外を眺めようと、こちらへ背を向ける。その瞬間、折角 椅子で隠れていた笹野の綺麗な背中が露わになった。
ドッドッと、体温と心拍数が急上昇する。だが、そんなことをしている場合では無い。
俺は慌てて笹野の背中を隠そうと、椅子の下に置きっぱなしだったシースルーのカーディガンを手に取って、笹野の肩にかける。
「…ほ…ほら、忘れ物……。」
「あ、ありがとうございます。」
「……………。」
………やっぱエロい…!!ダメだろこんなん……!早く車に乗せよう…!!!
そう思って、俺は笹野に呼びかけようと口を開けた。が……笹野は黙って、名残惜しそうに窓の外の夜景を眺めていた。
そのときの笹野の横顔は、どこか寂しそうで……でも、とても綺麗だった。
「……笹野、もっと近くで見てみたいか?」
「えっ?」
「着いた。降りるぞ。」
車を停めてからそう言って、俺は外に出た。
ぶるっと身震いしたところで笹野と姉さんも車から出てくる。笹野も寒そうに手を擦るが……
「わぁ〜…!!!」
直ぐに宝石のような瞳をキラキラと輝かせて、夜景が広がる道へと駆け寄った。
微笑んで笹野へ着いていくと、隣を歩いていた姉さんが嬉しそうに言う。
「こんなとこ知ってるだなんて、やるじゃん。」
姉さんの言葉に俺もフッと笑って、二人して笹野の隣に並ぶ。
「綺麗ですねぇ……。」
「だな。」
なんて、三人で宝石箱のような夜景を眺めていると……
「あ、電話だ。私ちょっと出てくる。」
ニヤニヤとしながら姉さんがそうスマホを掲げて、向こうへ歩いていった。
「暗いので気をつけてくださいねー!」
「大丈夫。ありがと。」
……電話なんてかかってきてなかったぞ…。空気を読んだのか……?
「ありがとうございます。こんなに綺麗な場所に連れてきてくれて。それに、あんな美味しいお料理もご馳走して頂いて。」
姉さんが歩いていった暗闇を見つめている俺へ、笹野は夜景以上に綺麗な笑顔を見せた。
笹野が笑うだけで、俺の心はあたたかいもので満たされる。
「喜んでもらえて良かった。」
嬉しくなって安堵の笑顔を零すと、笹野も嬉しそうに可愛らしく笑う。
そして、少し恥ずかしそうに真っ直ぐ俺を見つめて言う。
「う、碓氷さんのスーツ姿っ…とってもカッコイイです…!」
そんな頑張って言っているかのような笹野の少しつり上がった眉が、耳まで赤く染まった頬が、ぷるんと柔らかそうな唇が、少し震えた可愛らしい声が、言葉が――とにかく笹野の全てが、俺の脳をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。
「あ、ああ……ありがとう。笹野も凄く綺麗だ。」
そして、俺は瞬時に舞い上がる。
かっ…「カッコイイ」って言われた…!!!笹野に!!「カッコイイ」って…!!!見た目の面で言われるのって、初めてじゃないか……?!!
やばい!ヤバすぎる…!!!これはもう、俺に惚れてるだろ…!!!
なんての心の中で大騒ぎをしていると……
「――…さんは………のこと…………意識して…くれていますか…?」
笹野のか細い声が微かに俺の耳に届いた。
小さな声だった上に、俺が有頂天になっていたから言葉を上手く拾えなかった。
「えっ?あ、わ、悪い……なに…?」
「………なっ…なんでもないです…。」
……しまった…。なんて言ったんだ…?
「さんは」「のこと」「意識してくれていますか」………?
…うーん………………ダメだ…全く分からねえ……。
そうやって首を捻っていると、突き刺さるように冷たい風が俺たちの間を吹き抜けた。笹野はぶるっと身震いをして、寒そうに身体を縮める。
そんな笹野の肩に、自分のスーツジャケットをかけると笹野は目を丸くする。
「だっ、ダメです碓氷さんが風邪ひいちゃいます!」
「いや、どう考えてもお前の方が風邪ひきそうな格好してるだろ。……背中も肩も…そんな開いてるし…。」
店で何人もの男がお前をジロジロ見てたんだぞ…。
嫌なことを思い出して、一人イライラしていると……笹野は「ありがとうございます…。」と小さく伝える。そして、夜景に視線を戻して尋ねた。
「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」
「えっ?」
「いつも麗華さんや高坂さんと話してるところを見ても思うんですが、今日唯織さんと碓氷さんのやり取りを見て改めて不思議に思いました。何だか碓氷さん、私にだけ異常に優しいんです。」
笹野は言い終わってから、問い詰めるように俺の瞳をじっと見た。
そ……それは…………
「す…………そ、そうだなぁ……笹野の言葉を借りると………『優しくしちゃう』んだと思う。」
「『優しくしちゃう』…?」
「そう。特別扱いしようだなんて、一ミリも思ってないし、気づいたら身体が動いてんだよ。」
俺の言葉に、笹野は「そういうもんですか。」と何だか嬉しそうに笑った。
…危ねぇ……。…花束もプレゼントも持ってないのに告白するだなんて、いい加減過ぎるからな……。
笹野の反応に安堵して、俺は再び夜景に視線を戻した。
キラキラと星のように輝く都心を眺めている間も笹野を見たい衝動に駆られて、俺は目線だけを左下に移す。
笹野の横顔は、月明かりと街の灯りに照らされていつもよりも少し大人びて見えた。時折背後から吹く冷たい風が、笹野の綺麗なオレンジゴールドの髪を靡く。
その度に、バニラと石鹸の香りが俺の鼻を擽る。
そして、それと同時に左胸のあたりが騒がしくなる。
「『お姉さん』と仲直り出来て良かったですね。」
いきなり笹野がこちらを向いたもんだから、俺は慌てて視線を夜景へ戻した。
「えっ?な、『仲直り』?」
「はい。私がトイレに行ってるときに。実は私、気まずくて逃げただけでトイレ行きたい訳じゃなかったんですよ。」
「笹野がトイレに行ってるとき」…?ああ、あの時か。
――って…!!
「どこから聞いてた…?!」
確か「笹野が好き」って話もした筈…!!
俺の焦った表情に、笹野は驚いて一歩後退りをした。
その瞬間……
――「うぁっ?!」
慣れないヒールの所為でバランスを崩し、足を捻って転びそうになった。慌てて俺は笹野の左腕を掴んで、これ以上足を怪我しないように上へ上げる。片手で支えようとした所為で、笹野はもう一度――今度は前方へバランスを崩してしまった。そして、俺の胸に両腕をついて、胸の中にすっぽりと収まった。
俺が背中に腕を回してしまえば、……「ハグ」という状態が成り立ってしまう状況だった。ハグなんて何回もした筈なのに、心臓は痛いほど高鳴って脳の処理も追いつかなくなっていく。
「ごっ、ごめん…!」
掴んだ柔らかい腕をパッと離すが、笹野は俺から離れようとしなかった。
「さ…さの……?」
「………わたしに…聞かれたくないことでも……話してたんですか…?」
「はっ…?」
「……わたしの悪口でも…言ってたんですか……?」
まるで俺の心臓の音を聞くように、笹野は俺の胸へ耳を当てながら弱々しい声で、そう尋ねた。
や……やばい…!可愛すぎて心臓が壊れそうだ………。
「い…言ってないから………。離れてくれ…。」
懇願するように言うと、笹野はゆっくりと離れてくれた。
まあ……「悪口でも話してたんですか?」って訊くってことは、きっとあの話は聞いてなかったのだろう…。
「……ありがとな…。笹野のおかげだ。姉さんと仲直り出来たのは。」
未だにドキドキとうるさい胸を静めるように、俺は深呼吸をしてからそう笑った。
すると、笹野も嬉しそうに、そして得意げに笑う。
「良かったです。お二人が仲直り出来て。」
なんて再び「仲良し」が戻るが……
「ですが、私『うんこ』じゃありません。そもそも、女性に対して『うんこ』は失礼じゃないでしょうか。」
二秒前の笑顔をコロッと変えて、笹野は俺を睨んだ。そんな笹野の言葉にドキッとする。
……聞こえてたか………。
「わ…悪かった……。長いから、うんk――」
「うんこじゃありません。」
「…………。」
こ…怖ぇ……。
俺は笹野の鋭い目から逃げるように、視線を夜景に再び戻した。すると……突然、笹野が言った。
「碓氷さん。私、碓氷さんが特殊性癖の持ち主だってことは、誰にも言いません。」
「はっ?」
笹野の突然の爆弾発言に、俺は思わず笹野へ視線を向けてしまった。
笹野はとても真っ直ぐで澄み切った目をしていた。
そういえば、勘違いされたままだった…。
「えっ、いや、俺……――」
「大丈夫です。逆に私、ちょっと安心したんです。お泊まりした日も、おひとりで……といった素振りは碓氷さん一切見せなかったので、本当に人間か不安でしたから。」
「いっ、いやだから…あの……俺――」
「安心してください。男性がみんな、絶対そういう欲があると分かってるので。」
「おっ…俺…!……俺 別にそういった趣味は――」
「大丈夫ですよ、碓氷さん。」
そう首を少し傾げて言った笹野の笑顔は、俺が特殊性癖を持った変態だと信じて疑わないような、そんな雰囲気を与えた。笹野の笑顔は、純粋無垢そのものだった。
そんな笹野に見つめられると俺は…
「そ…そうだよな……ありがとう…。」
何故か否定できなくなっていた。
「因みにどんなのがご趣味で?」
「え…えっと〜………」
なっ、何か絞り出せ…!!!笹野の期待を裏切らない、なんかヤバそうなやつ……!!!
「あー………た…例えばー…………け、毛の生えた毛穴の拡大図を…眺めたり………。爪の……縦筋を……触ると………ゾクゾクするな…。」
どうだ?!結構ヤバいだろ…!!しかも妙なリアリティがあるし…!!!
「なんと……人間の欲というのは奥が深いんですね…。」
よし…!!手応えあり…!!!
………………。
「そうだな…。」
今、俺は何だか人間として大切な何かを失った気がする……。
なんて会話をしていると……
「ごめんごめん、結構長電話しちゃった。」
タイミング悪く姉さんが帰ってきてしまった。
そして、姉さんは帰ってくるなり俺の顔を見てギョッとする。
「ちょっ、何その死にそうな顔は…?!大丈夫…?!」
「あ…ああ…………何とか………。」
…もう死にたい………。
家に帰り、姉さん、笹野、俺の順番で風呂に入った。慣れない高級店へ食べに行った所為かみんなヘトヘトだったので、風呂は急いでメンバーチェンジをしていた。
とにかく早く寝たいので、無駄な動きは一切せずに髪や身体を洗っていく。といっても、いつも無駄な動きはしていないので、結局風呂にかかる時間はいつもとそれ程変わりは無かった。
寒いので風呂の中で身体を拭いてから、扉を開ける。そして、俺は用意していたパンツをバスルームで履いた。
その瞬間……
――ガラッ…
なんと、バスルームの扉が開いた…。
直後、ドライヤーを持った笹野と目が合う。
「わああああ!!ごめんごめんっ…!!!!」
見られたのは俺の方なのに、何故か必死に謝って俺はバスタオルを手に取って身体を隠した。
だが、如何にも騒ぎそうな笹野は声一つ上げずに俯いて……ドライヤーを棚に置き、こちらへ迫ってきた。そして、俺の胸板に触れる。
ぴとっ、と笹野の冷たく小さな手に俺はついビクッと反応してしまった。
「なっ…何してるんだ離れろっ…!!」
急いで後退りをするが、笹野は全く離れようとせず、この状況で俺も笹野の腕や肩に触れることが出来ず……遂には俺は、壁に押し倒されてしまった。
俺の火照った腿には、笹野の細く滑らかな腿が触れている。
そして、Tシャツの間からは笹野の……
くっそ…!!なんで今日に限って、パジャマがショーパンなんだ……!!
ドッドッと心臓は物凄い速さで脈を打って、血が全身を巡る。
「さっ…笹野…?」
未だに何も言わない笹野に異変を感じて、俺は恐る恐る声をかけた。
すると、笹野はうるうるとした瞳で漸く口を開く。
「…唯織さんが………男女で泊まったら襲われるのが普通だって…仰いました…。」
「はっ…?」
…なに姉さんは笹野に変なことを教えてるんだ…。
「なのにっ…碓氷さんはそんな素振り一切見せません……。……わたしがっ…『ガキ』だからですか…?」
「へっ…?」
笹野は……顔を耳まで真っ赤にして、大きな宝石のような瞳に、今にも零れ落ちてしまいそうなほど涙を溜めて……そう訴えた…。
何が起きているのか頭がローディング状態でよく分からなかったのに、何故か身体だけはどんどん熱を帯びていく一方だった。
そんな俺を、煽るように笹野は俺の左胸へ、もう一度触れる。
「お、おい笹野っ……なんの真似だ──」
「わたしが『ガキ』だから碓氷さんは何もしてこないんですかっ……?わたしにはっ……女性的魅力を感じませんか碓氷さん…!」
な、なんで笹野はこんなにも……。
も、もしかして俺に…………襲われたいのか…?!!…い、いや………そんなんじゃない……。笹野は姉さんの所為で…自信を失っているんだ…。
そう何とか冷静さを保って、状況を把握したところで…笹野はなんと俺の身体の上を辿るように、手の位置をゆっくりと下へ下へずらし始めた。
「なっ…!」
「碓氷さんは私なんかじゃっ…そそられないんですか……?わたしっ……毛も剃ってしまってますし…爪の縦筋もありませんしっ…………。だからですか…?それとも単に……私の胸が小さいから、ですか……?」
そう、笹野の手が俺の腹の上に差し掛かったところで、俺は急いで笹野の腕を掴んだ。
焦っていたため、思ったよりも強く握ってしまい、笹野の目が恐怖に変わる。だが、ここで弱めてしまえば、今まで理性を保とうと必死にしていた努力が水の泡になってしまう。
だから、俺は力はそのままに、笹野の小さな手を俺の火照った身体から引き剥がした。
「あのなぁ笹野…。そもそも、付き合ってもない女性を襲う男は、男としてめちゃくちゃカッコ悪いんだよ。姉さんの話は、ただの偏見。笹野が気にすることは無い。それに………笹野に…その……『女性的魅力』…?無いわけじゃ無いよ…。俺の心臓の音……分かっただろ…。今日のドレス姿も超可愛かったし………。」
今は、今だけは……笹野には本音を言おうと思った。
どうか他の男にはこんなことをしないように。
………本音を言うと…他の男には絶対に、こんな顔…しないで欲しい……。
笹野は……俺の正直な言葉を聞いて、尻もちを着き、後退りをした。
…あっぶな………。
そして、火照った顔を両手で隠すようにした。揺らぐ瞳が俺を見つめる。
俺が意識していることに、漸く気がついたのだろう。
「…ほら、早く出ていってくれ……。」
何だか急に恥ずかしくなってきて、俺はゆっくりと立ち上がった。
だが……
「い、嫌です…!出ていく前に腹筋触らせてください!!」
ほんの少しの間、安心した顔を見せたかと思えば、なんと、さっきまで恥ずかしそうにしていた笹野が突然立ち上がって、もう一度迫ってきた。
「はっ?!なんで?!」
とにかく早く腹筋を隠そうと、床に落ちていたバスタオルを手に持つ。しかし、笹野には意味が無く後退りする俺にじりじりと迫ってくるばかり。
「碓氷さんの腹筋は程良く割れています!触ってみたいんです…!!」
「は?!嫌だわ!!こっち来んなっ…!!」
なんで今日はこんなに気にしないんだよ…!!
なんて、考えていても笹野は足を止めない。その所為で、俺の背中はまた壁にぶつかってしまった。
そして、笹野が少し緊張した様子で俺の腹筋に触れようと手を伸ばす。
やっ…やばいっ……!!!
「待てっ!!!」
半裸の状態で笹野に触られるなんて、もう俺は少しでも気を抜いてしまえば笹野を押し倒してしまいそうだった。だから、大きな声を出して触れられることを未然に防いだ。突然の大声に笹野がビクッと肩を跳ね上げさせて、勢い良く俺の顔を見上げる。
さて……どうやってこのおかしな笹野を止めよう………。
「い、いいか笹野…。男の……腹筋って言うのはな………おっ、お前のっ!胸みたいなもんなんだよ…!だからっ……」
「へっ?!!!えっ…!とっ、ととととということはっ……!!わわわっ…わたしがっ…!碓氷さんの腹筋に触るってことはっ…………う、すいさんが……わたしの……むねを………」
マジか、信じた。
「そういうことだ。」
笹野が天然なのをいいことに、俺はそう頷いた。
その直後。
「はっ…!!!早く隠してくださいっ……!!碓氷さんの変態…!!!」
笹野は顔を真っ赤に染めてバスルームを出──
「わっ?!!」
出ようとしたところ、バスルームの前を通った姉さんに思い切りぶつかった。
姉さんは、なぜ笹野が俺のいるバスルームから出てきたんだとでも言うように、口をあんぐりと開けてこちらを見つめる。
「えっ…なんの騒ぎ?」
「うううう碓氷さんがっ…!!わ、わたしにっ…えっちな部分である腹筋を見せてきてっ…!!!!」
「いや、俺は別に見せようとしてないから…。」
「は?なに?腹筋がエッチ?何言ってんの?」
「えっ…?」
と、笹野が俺の嘘に気づいたところで、俺は静かにバスルームの扉を閉めた。スレスレで笹野と俺の間にドアが隔てられる。
そして、「どういうことですか碓氷さんっ…!!!」と騒がしい声を聞き流しながら、落ち着いてパジャマを着た。
その夜。
部屋に三枚布団を敷いて俺らは眠った。因みに、左から姉さん、笹野、俺の並びだ。
布団に入った時間は早かったが、笹野にいつ告白しようか、なんて考えていたら中々眠りにつけなかった。
付き合えるならば極力早い方がいいが、必ずしも告白が成功する訳ではない。うじうじしていても意味は無いと分かっているのだが、やはり自分に自信が持てない……。
もっと、俺がみんなに慕われている人間だったなら……コミュニケーション能力の高い人間だったなら…………きっと………
そんなことを考えながらも俺は、目を開けて左を向き、静かに笹野の寝顔を見つめていた。
暗闇に慣れてきた視界に映っているのは、長いまつ毛にほんのり色づいている唇。スースーと気持ちよさそうに眠っている笹野の寝息が部屋に響く度に幸せな気持ちになれる。
そうやって見つめていると、少し離れた場所から聞こえた。
「律月、あんた起きてんでしょ。」
………。
「…笹野に変なこと教えんなよ姉さん…。」
笹野が起きないように小声で俺はそう返す。
「やだ、被害者ヅラしないでよ。律月だって変なこと教えてたじゃない。」
「俺は笹野を傷つけないために言ったんだ。姉さんみたいに、笹野で遊ぼうとした訳じゃない。」
「襲ってあげなさいよ。明香里さんはあんたの所為で自信を失くしてるのよ。」
「姉さんの所為だろ……。」
てか………こんなにも大切なのに手を出せる訳無いだろ……。くそ…………姉さんは何がしたいんだよ…。
なんて苛立ちながら、寝返りを打って仰向けに寝る。そして、目を閉じた。
だが……
「よく理性保てるよね。ホントに好きなの?」
姉さんの馬鹿げた一言で、つい瞼を開けてしまった。
「俺はそんな馬鹿じゃないからな。……好き…だからこそ……本気で抑えてんだよ…。」
「あら、『抑えてる』の?やっぱあんたにもそういう――」
「やめろ。…………そういう話、嫌いだ…。」
こんな話をしていたら、余計……笹野をそういう目で見てしまう…。今でも結構限界に近いのに………これ以上意識したら、笹野を傷つけかねない……。
それだけは…………それだけは、絶対に嫌だ。
姉さんは、俺の言葉に「真面目すぎ」と呆れ、何も話さなくなった。
俺も眠ろうと再度目を閉じるが、あんな話をして眠れる訳が無かった。眠りたいのに、瞼の裏には今日の笹野の大きく開いた背中や肩、照れた表情がこびりついて消えない。笹野が俺に触れたときの感触も……。
ごめん…………笹野……。
心の中で謝罪をして、俺は深呼吸をした。
何分経っただろうか。気持ちも落ち着いてきて、漸く眠りに落ちそうになっていた頃、隣から声が聞こえた。「うぅ…」や「んん……」と苦しそうな呻き声。
それは次第に酷くなっていき、一分もすれば「はぁっ…はぁっ……」と小刻みに息を漏らすようになっていた。
何だか昔を思い出させる「やばい雰囲気」を感じたので、俺は起き上がって笹野の顔を覗き込んだ。
厚手の布団を肩までかけていても寒いというのに、笹野は布団を剥いで額には汗が流れていた。苦しそうに顔を顰めて目尻には涙が…。
「笹野……。…おい、笹野……。」
恐る恐る肩を揺らしながら声をかけるが、笹野は一向に起きる気配が無い。熱は無いみたいだが、相当悪い夢を見ているのだろう。
――「笹野っ!!」
二つ隣の姉さんのことなんか構わず、腹から声を出して名前を呼ぶと……笹野は物凄い勢いで起き上がった。そして、瞳と手を小刻みに震わせて……俺の顔を見つめる。
「大丈夫か?めっちゃ魘されてたぞ…。」
とにかく目を覚ましてくれて良かったと安堵をしながら零すように尋ねると、笹野は涙を流して勢い良く俺に抱きついた。その勢いで俺は後ろへよろめいてしまう。
けれど、笹野は力を弱めたりはしなかった。ただ……静かに、大量の涙を流すだけ。何も言わずに、しゃくり上げるだけ…。
どんな夢を見たのかは、訊かなかった。
思い出したくないだろうと思ったから。
そんな俺に、笹野は安心したのか……笹野は長い間泣いて、静かにお礼を言って眠った。
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※本作はフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。




