番外編 大好きな弟を恨んだ理由
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最初、「弟ができた」と両親に打ち明けられたときはとても嬉しかった。
母さんや父さんからの愛は半分ではなく、今と変わらないものを弟と同量、注いでくれるのだと、私は信じて疑わなかった。だから、母さんや父さんを盗られるという心配は一切無かった。
――「よかった…。いっちゃんは嫌がるかと思ったさ。」
――「お姉さんになったんさね。」
二人はそうやって本当に安心したかのように涙ぐんで笑ってくれたのを覚えている。
どうやら、母さんも父さんもきっと、私が愛を独り占めしたがる傲慢な気質だということをこのとき既に見抜いていたのだろう。
そんな二人に、私は子供にしては貧相な笑顔で答えた。
「わたし、もっとちゃんとおねえさんになるからね。」
「律月」と名付けられた私の弟は、とても秀麗な顔立ちをしていた。赤ん坊だとはいえ、特に大きなヘーゼルの瞳に白く滑らかなふわふわとした頬、一円玉くらいなら余裕で載せられそうな長く生え揃ったまつ毛、形の整った鼻、そして薄い唇。
正に、母さんと父さんのいいところを全て受け継いだような顔立ちに、私は嬉しくなった。
この子は将来、とてもハンサムになるだろうと幼心にも楽しみになった程だ。
律月は、実に手のかからない子供だった。夜泣きすることなんて殆ど無かったし、昼間には眠くなれば大人しく寝て、お腹が空いたりオムツを替えて欲しい時は泣くのではなく、「あうあう」と可愛らしい声を上げて不快感を伝えていた。
そんな律月を見て、母さんは嬉しそうに呟いた。
――「律月は本当に泣かんねぇ。唯織はいつもいつも泣いてたんさぁ。ま、それも可愛げがあっていいけどねぇ。」
そうやって静かに眠る律月を幸せそうに眺めながら呟く母さんの言葉に、何だかチクリと胸に何かが刺さったような痛みを感じた。けれども私は、それが何だかまだわからなかった。
だからその痛みには気づかないフリをして、ぎこちなく笑った。
「そだね、りつきはいいこだよね。」
そんな私の嘘の笑顔を見て、母さんは律月を見るような目と同じような視線を私へ向けていた。
手がかからないから私も苛つくことなんか殆ど無かった。
そんな律月が可愛くて仕方なかった私は、自分から進んでオムツを替えてやったりミルクをやったりもした。
そして、「かわいい」とは口にせずともずっと律月の隣に居た。律月も姉の私を好いてくれているようで、私が隣に居れば律月はいつも笑顔だった。
そうやって律月の世話をしていると、母さんや父さんは私を褒めてくれた。
――「唯織は、いいお姉さんさねぇ。」
――「すっかり唯織も大きくなったんだなぁ。偉いよ唯織は。」
けれども、褒められるから弟を愛している訳でも無かった。
その頃は、まだ。
「そうかな?だってりつきは、わたしのおとうとだもん。おせわするのはあたりまえでしょ?」
四歳の私は確かに、弟へ無償の愛を注いでいた。
しかしその「無償の愛」は、律月が成長する姿を見る度に崩れていった。
ある休日。
律月が八ヶ月くらいの頃だろうか。
その日は父さんが不在だった。鮮明には覚えていないけど、確か土曜出勤だった気がする。
母さんが昼ご飯を作ってくれているとき、私はいつものように律月のゆりかごに手をかけて、私の顔へ嬉しそうに小さな手を伸ばす律月を眺めていた。
「きょうはりつきがすきなチャーハンだってー。うれしい?」
そうやって微笑んで、もちもちとした小さな手を握ってやる。すると律月は嬉しそうに「きゃっきゃ」と無邪気に笑って、私の薬指と小指を赤ん坊にしては強い力でぎゅっと握ってくれた。
「て、ちっちゃいねぇー?わたしよりもちっちゃい。ふふっ…」
なんて笑っていると──
「い、おぃ」
なんと、律月は私の目をじっと見つめて「きゃっきゃ」と笑い声を上げながら、私の名前を呼んだ。
つい先日、つかまり立ちができるようになったばかりなのに。
ついこの間、「りつきっていつになったらしゃべれる?」と母さんに尋ね、「あと半年くらいかねぇ。」と返答を聞いて落胆したばかりなのに。
「え…?」
小さく声を漏らし、私は殆ど脳が停止して律月をひょいっと大切に優しく抱えてみた。
「もっかい!」
すると、律月はもう一度可愛らしい声で「い、おい、ぃおい」と笑う。私の笑顔が見れて嬉しいのか、一層無邪気な笑い声を上げていた。
四年間生きてきて、あれ程 胸が高揚したのは初めてのことだった。幸せな感情が胸から迫り上がってきて、私は初めて素直に自分の感情を表すことができた。
「すごい!すごいりつき!!おねーちゃんのなまえいえるの!」
母さんたちが必死になって毎日「まま」や「ぱぱ」と自分を呼ぶことを促していたのにも関わらず、一番最初に私の名前を呼んでくれたことが、とてつもなく嬉しかった。
天にも昇るような気持ち、というのはこういう感情を言うのだろう。
自分は、他の子よりも感情を表現する能力に乏しい子供だと、幼稚園に通い始めた三歳の頃から気づいていた。
可愛げのない子だと、自分でもよく理解していた。
けれども、そんな子供っぽさの薄い私を、母さんや父さんは心から愛してくれていた。
――そんな私が、初めて全力で感情を表現することができたのだ。
思わず私は律月を抱えたままキッチンへと駆け出した。
「かあさん!りつきがわたしのなまえよんだ!」
「え?!」
「ほらりつき!もっかい!」
「い、おい、いおい!きゃきゃっ!」
母さんはパァっと笑顔を輝かせながらも、先程よりも鮮明に発音できるようになった律月を私から奪って、更に高い天井へと抱え上げた。
「すごいねぇ律月!唯織の名前わかるんかぁ〜い?直樹くんに早く伝えなきゃさねぇ〜!」
そうやって感極まったように騒ぐ母さんの姿を見た瞬間、何故か私の胸が萎れる音がした。
そして同時に、私はこんなことを思った。
私のときも、こうやって喜んでくれたのだろうか。
そんな疑問の答えは、その夜直ぐにわかった。
その日の真夜中(子供の頃だったので感覚的には夜中だが、実際には二十二時頃かもしれない)、トイレに起きたときにリビングから会話が聞こえてきてしまったのだ。
「直樹くん、聞いて聞いて。今日、律月が喋ったんさぁ〜。」
「えぇ?!本当かい?!な、なんて喋ったんべさ?!」
「それが、『いおい』なんだぁ。」
い、唯織?!『パパ』じゃなかったんだ…。しかし、なまらすんごいことでないかい?!だって、唯織は一歳二ヶ月だったべさ?!」
「そうなんさ!律月は天才だよ!」
そんな声が聞こえた瞬間、またチクリと胸に何か鋭いものが刺さった。
そして、その日、私の小さな胸にはごく小さなヒビが入った。
二人は絶対に私に対して「お姉ちゃんだから」という言葉こそ使わなかったが、こうして比べられるのは姉弟の宿命なのだろうか。
劣っている側ばかりが些細な言葉に傷を負うのは、宿命…なのだろうか。
本当に、私ばかりが悪かったのだろうか。
今思い返せば、私の弟への無償の愛はここから、徐々に崩壊していったのだろう。
この日を境に、私は律月を真っ直ぐに見ることができなくなってしまった。
そんな私に誰も気づくことはなく、律月はどんどん成長していった。そしてやはり、成長する度に私の自尊心は傷つけられていった。
律月が四歳の頃、いつもと変わらず朝刊を読んでいる父さんにこんなことを尋ねた。
「とうさん、なにみてるの?」
輝く瞳で見つめる律月へ、父さんは新聞から目を外して律月へ笑いかける。
「新聞だよ。」
「しん、ぶん?」
「そう。」
「『しんぶん』って?」
「うーん、そだねぇ…。世の中で起こっていることを知れる、便利な情報紙…かなぁ。」
律月は今まで私が全く興味を示さなかった父さんの「当たり前の習慣」に、興味を持ったのだ。
しかも、まるで知ることが楽しいかのように真剣に瞳を輝かせて、父さんを見つめている。
「それをよめば、じぶんのいるせかいのことが、わかるの?」
「そうだべ。」
「すごい…!」
「ははは、凄いか。律月も読んでみるかい?」
「うん!」
嬉しそうに笑う父さんから新聞を受け取った律月は、八歳になった私でも投げ出してしまいそうな大量の文字の羅列をじっくりと見てからこう言った。
「むずかしい…。」
しかし、安心する私を他所に…直ぐに大きな瞳へ沢山の光を取り込んで、父さんの顔を見上げた。
「とうさん、字をおしえて。これ、『かんじ』っていうんだよね。先生がいってたんだ。おれも、じぶんのせかいでおきてること、ちゃんとしりたい。『しんぶん』、よめるようになりたい。」
そんな律月の子供とは思えない発言に、父さんと母さんの「本当かい?!凄いねぇ律月!」「ははっ、じゃあ帰ったら教えてやるさ。」と昂った声に私の不安は募っていった。
律月は子供の頃からこうして、何かと頭を使いたがった。多分、心の底から楽しかったんだと思う。その上、私よりかは幾分か感情表現も上手だった上に、聞き分けもよく、泣いたり癇癪を起こしたりということは全く無かった。
本当に、手のかからない子供だったと思う。
対して私は、お姉さんになろうとは努力していたけれど、思い通りにならないときは癇癪を起こすことがあった。
男の子と女の子の違いだろうか。……いや、そんなのではない。きっと、根本的にどこか私たちは違ったのだろう。
とにかく、律月は母さんや父さんのいいところしか受け継いでいなかった。
まだ律月を愛せていたある日の休日。律月が五歳、私が九歳の頃の話だ。
家族でテーマパークへ出かけていた先で、次はどのアトラクションに乗ろうかと母さんと父さんが地図を見ていた際、着ぐるみに気を取られていた私とそんな私にべったりとくっついていた律月は母さんたちとはぐれてしまった。
全く知らない広い土地で迷子になったことで不安が爆発してしまい大声を上げて泣いていると、律月は『タマ&フレンズ』の小さなポーチから三百円を取り出してアイスクリームを買ってくれた。
「ほら、ねえさん。もう泣かないで…?」
何だかうるうるした瞳で私を見つめる律月からアイスを受け取ると、その優しさが嬉しかったのか涙は直ぐに引っ込んだ。
しかし──スプーンで食べ進めていると、私は力加減を誤った。体に悪そうなショッキングピンクがコーンからグラッと隙間を作って、そのままレンガの敷石へと落下していく。
ボトンっ…と小さく鈍い音が響いた瞬間、私は「うわあああああん」ともう一度泣き出した。
そんな私を見てギョッとした律月は優しい手つきで私の手を取った。そして、その手を離すと、体に悪そうなスカイブルーのアイスクリームを片手に、いつも母さんや父さんがしてくれるようにじっと私の目を見つめて私の頭を撫でる。
「だっ、大丈夫だよ、大丈夫。ほら、おれのアイスあげるから。ねえさん、ソーダもすきでしょ?」
そんな幼く優しい声に、私は母さんや父さんに抱くような安心感を覚えた。
しかし…それと同時に、何故か憎悪という真っ黒に染まった感情が「安心感」を掻き消すように小さな胸を侵していた。
律月の優しさが、痛かった。
きっと、律月が同じように泣いていても私は自分のアイスをあげられない。「ほら、泣かないの」と腹を立てて知らんぷりで自分のアイスを食べ進めていただろう。
やはり、私は両親からいいところを一つも受け継いでいない。
そんなことが身に染みて、ドクドクと脈打つ音が大きくなっていった。
気がつけば私は──
「そんなものいらない!!!」
自分でも驚くくらい甲高い声を上げて、律月の小さな手からアイスを叩き落としていた。
その瞬間、先程の私と同じように律月の大きな泣き声が響く。その声がガンガンと頭に響いたところで私はようやく我に返った。
「はっ…!ご、ごめんりつき…。い、今 あたらしいのかってくるから…。」
そうやって宥めようとしても律月は大きな雫を大量に頬に伝わせるばかり。当たり前だ。律月はアイスクリームが落ちたことが悲しかったのではなく、私にアイスクリームを叩き落とされたことが悲しくて堪らなかったのだから。
それから直ぐに母さんたちは私たちを見つけた。珍しく泣いている律月に二人は焦った様子でどうしたんだと尋ねた。しかし、律月は「ひっぐ」「えっぐ」としゃくり上げながらもこう答えた。
「せっかく買ったアイス、おとささったっ…。」
「落とささる」というのは標準語で「落としてしまう」という意味。つまり、律月は泣きながらも「自分が落とした」と嘘をついたのだ。
ほっと肩を撫で下ろすと同時に沸き上がるのは、やはり憎悪だった。
そんなある日、隣の家に私と同い年の女の子が越してきた。咲希という名前のその子はとても優しく穏やかな上に可愛らしくて、名前の通り希望が咲いたように明るい子だった。
挨拶に来てくれた日、直ぐに私は咲希ちゃんと仲良くなった。
咲希ちゃんは他の子とは違って、私だけを見てくれていた。律月と遊んでいるときでも、私ばかりを褒めてくれた。その上、律月の相手をするのも上手だったから、私は咲希ちゃんが大好きだった。
「ねーりつきくーん、そんなつまんなそうな本よんでないでさ、こっちで さきたちとお絵かきしようよー。そんなだれかが作ったものばっかり見てたら、アイデヤ力がなくなっちゃうよ?」
仲良くなってから二週間ほど経って家へ遊びに来た時、咲希ちゃんはそうやって律月を誘ってくれた。律月は、ため息をつきながらもこちらへ歩いてきた。
「つまんなくないよ。それに、アイデアでしょ?さきちゃん、もう三年生なんだから正しい言葉おぼえなよ。少なくとも、ねえさんはそんなまちがいしないよ。」
「いいのいいの!ほら、早くクレヨンもって?」
そうやって気にしない様子で促す咲希ちゃんから、再びため息をつきながらもクレヨンを受け取り、律月は私の隣に座った。そして、床に置いてある真っ白な画用紙を数秒眺めて尋ねる。
「……なにかけばいいの。」
「りつきくんの好きなものをかけばいいんだよ。」
そんなアドバイスを聞いて、律月は少しだけ頬を緩ませながらクレヨンを赤色から肌色へ持ち替えた。
「なにかくのー?」
と、ワクワクした表情の咲希ちゃんへ、律月は線を描いた画用紙に視線を落としたまま答える。「ねえさん。」と。
「へへっ、りつきくん、ホントにいおりちゃんのこと好きだね!」
「当たり前でしょ。」
「けどさきのほうが、すきだから。」
「それはない。」
なんて二人の喧嘩に胸がじんわりあたたかくなるのを感じる。そうしていると、咲希ちゃんは今度は私の画用紙を覗き込んできた。
「いおりちゃんは?なにかいてるの?」
「んー?母さんとー、父さんとー、さきちゃんとりつきだよ。」
「なしておれが後なの?!」
「へへっ、りつきくんドンマイドンマイ♪」
「……そう言う さきちゃんはなにかいてるんだよ。下手すぎて人物かどうかもあやしいけど。」
「うるさいなー。さきはね、いおりちゃんだよ♡」
「姉さんだけ?おれはかいてくれないの?」
誰もが羨むような大きな瞳で尋ねた律月へ、咲希ちゃんは照れたようにこう答えてくれた。
「うーん、りつきくんももちろん好きだけど、さきはいおりちゃんがいっちばん好きだから!」
「一番」。咲希ちゃんの何気ないそんな一言が、私は嬉しくて堪らなかった。
「へぇ?さきちゃん見る目あるね。」
「でしょ?へへへっ。さきはねー、いおりちゃんのかわいい笑顔も、やさしいところも、おねえさんっぽいところも、いい子なところも、ぜーんぶっ!大好きなんだ〜!りつきくん、将来いおりちゃんとのけっこんを ねらってるならザンネンだね。将来のいおりちゃんのおよめさんは さきで決まりだよ!」
「それはどうぞどうぞ。ていうか、ねえさんがむこなの?」
「ん?ムコ?なにそれ?「 」
「……はぁ…。だんなさんのことだよ。そんなことも知らないのに ねえさんとけっこんしたいとか言ってたの?」
「まだ九才だもーん。」
久しぶりに…本当に久しぶりに……真っ直ぐな愛を受け取った気がした。
私はずっと…寂しかった。確かに愛というものを受けている筈なのに、ずっと独りぼっちのようだった。誰も、この世界で私だけを見てくれる人は存在しないんだと、そう思っていた。
けれど今、咲希ちゃんだけは私だけを見てくれている。咲希ちゃんの愛を、私だけが独り占めできている。
咲希ちゃんの言葉に、笑顔に、私は救われた。咲希ちゃんがいるから大丈夫だと思えた。
けれども……律月はどんどん成長していき、容赦なく私を暗闇に突き落とした。
小学校に入ると直ぐに律月は、「姉さんとおなじ勉強をしてみたい」と言った。私でも毎日宿題に頭を捻らせているというのにだ。どうしてかと尋ねると、律月は笑顔で「姉さんに教えたいんだ」と答えた。
「姉さんの力になりたい」と。
きっと律月は本心からそう言ったのだろう。
けれども私には、「姉さんは俺より馬鹿だ」と言われているようにしか感じ取れなかった。
律月の言葉に、勿論二人は歓喜の表情を浮かべて直ぐに「まずは」と小学二年生のテキストを買ってやった。しかしそれを律月は約一週間で修了してしまったので、三年生、四年生、五年生と直ぐに私の学年を超えたテキストを買い与えられていた。
テキストを終える度に、律月は二人に褒められた。
「りっちゃんは凄い」と。「律月は偉い」と。
…多分、誰が悪い訳でも無かった。
だって母さんも父さんも、私がテストで八十点以上とれば必ず同じように褒めてくれたし、一度社会で五十八点をとってしまったときにも「いっちゃんはよく頑張ったよ」「勉強頑張って唯織は偉い」と褒めてくれていたのだから。
そう、誰も悪くなかったのだ。
ただ、律月が褒められる回数の方が多かっただけ。
ただ、律月が出来すぎていただけ。
ただ、私が、律月と比べて劣っていただけ。
ただ、それだけのことだった。
「ただそれだけ」の筈なのに……どうしてこんなにも苦しいのだろうか…。
そうだ──私には咲希ちゃんがいるじゃないか。
咲希ちゃんは今も変わらず私だけを見つめてくれている。それだけで、いいじゃないか。
そう思えていたのに……。
律月が小学校に入学して一ヶ月が経ったある日の放課後。家庭訪問で律月の担任が家に来ていた。その時、私と律月は同じ部屋でそれぞれ勉強をしていた。
わからないところがあっても私からは訊くことはなかったけれど、律月は直ぐに私が悩んでいることに気づいて丁寧に教えてくれていた。
家に上がり挨拶を済ませると、律月の担任は直ぐにこんな話題を出した。
「この間、律月くんがクラスのいじめを止めてくれたんです。」
そんな担任の嬉しそうな声がリビングから聞こえてきた途端、私へ面積の応用問題を教えていた律月の眉がピクリと動いた。
何か、律月の中で悩みを抱えていることに気づいてしまった。
けれど、私は詳しくは訊かなかった。
その日の夕食後。
風呂から上がり脱衣所で身体を拭いていると、リビングから母さんの誇らしげな声が聞こえてきた。
「りっちゃん、先生から聞いたさ〜!いじめを止めたんだって〜?凄いねぇ〜!」
いつもの律月なら、例え自分が誇らしく思ってなくても怒ったりはしない。ただ、「当たり前のことしただけだよ」と返すだけ。
なのに、その日だけは違かった。
「……なんも凄くなんかない。」
そう低い声で答えて、自室に戻っていったのだ。
その音を聞いて、私は急いで服を着て髪も乾かさずに脱衣所を出た。そして「どうしたんかねぇ。」と首を捻る母さんを通り過ぎて、律月と共同の自室のドアノブに手をかける。
すると、中から微かだが「ぐすんっ…」と鼻を啜るような音が聞こえてきた。
その弱々しい音に一気に私の不安は大きくなる。
コンコンっとノックをして扉を開けると──律月はやはり泣いていた。
律月の泣き顔を見るのは、一年前のテーマパーク以来だった。
「どうし、たの…?」
戸惑いながらも尋ねた私へ、律月は背を向けながらも説明してくれた。
二週間程前、虐められていた女の子がいたから助けたそう。お陰で虐めはなくなったけれど、女の子はどうやら助けて貰ったことが嬉しかったのか、律月にべったりくっついて行動するようになってしまった。そのことで一週間程前にクラス全員にからかわれてしまい、律月はとても不愉快な思いをしたそうだ。
「…だからっ……言っちゃったんだ…。みんなの前で…。『迷惑だからやめてくれ』って…。『おれはあんたを全く好きじゃないし、助けたのもいじめを見てムカついただけだから』って……。……『気持ち悪いから着いてくるな』って……。そしたらあいつ…泣いちゃって……。次の日から…学校……来なくなったんだ…。なんもおれはえらくなんかないっ…!すごくなんかないっ……!だって…おれのせいであいつは学校来れなくなったんだ…。おれは……ひとりの人生こわしたんだよ…。」
そうやってまるで大きな罪でも犯したかのように語る律月を、私は理解できなかった。
「だってりつき、いやだったんでしょ…?その子のこと、別に好きじゃないんでしょ?」
「うん…。好きじゃないけど……きらいだけど…。」
「だったら何も悪くないじゃない。りつきが嫌な思いしてるのに、ガマンすることないよ。」
そうやって母さんや父さんが私にいつもしてくれているように抱きしめてみたけど、律月は納得のいかない様子で黙っていた。ただ、「忍風戦隊ハリケンジャー」の絨毯を眺めているだけだった。
そんな律月の潤んだ瞳が目に入った瞬間、私は気づいてしまった。
この子は、私とは違うんだ。
私みたいに傲慢でもなければ利己的でもない。律月は、私とは違って優しい心の持ち主なのだ。
能力や容姿だけでなく、思いやりの面でも私は律月に──弟に負けているのだ。
「あの教師……なんにも見てない…。なんもわかってない…!おれ……せつめいしたのに…。たすけてって言ったのに………なにも…動いてくれなかった…。おれがあいつの家に行ったって、どうしようもないのに……。」
そうやって嫌になる程、透明な涙を流す律月を、ただ私は黙って眺めることしかできなかった。
その頃からだろうか。私が律月へ優しくする目的ができてしまったのは。
今まではただ好きだから、弟だから優しく接していたけれど、その頃から母さんや父さんに褒められることを目的に私は、律月にお姉さんらしく接し、人の顔色を窺うようになった。
ただ、母さんや父さんにもっと見て欲しい。あの頃のように、私だけを愛して欲しい。その一心で私は勉学や手伝いを頑張るようになった。
しかし、そんなの無意味だった。律月はもう既に私の学年よりも上のテキストを解けるようになっている。それに、五歳の頃から進んで自発的に母さんの料理の手伝いをしていたから六歳にしてもう既に料理スキルは人並み程度までには成長していた。運動だって、一年生にしてもう既に運動能力賞をとっている。どの面でも勝てる筈が無い。
けれど、一つだけ…律月に勝てるものがあった。
それは社交性。
律月は昔から家族には優しいが、見知らぬ人には自分から関わろうとしなかった。子供にしてはあまりにも警戒心が強すぎる子だった。
対して私は、本当に好きな家族には感情を素直に表現できない癖して、好きでもない人間に笑顔を振り撒くことは得意だった。コミュニケーション能力だけは、ずっと周りより高いのだと自負していた。
だから、近所の評判も学校での評判も、律月よりも私の方が圧倒的に良かった。勿論、その私の長所を母さんも父さんもわかってくれているのか、社交性の面で沢山褒めてくれた。
――「唯織は友達いっぱいなんさねぇ。」
――「唯織は視野が広くて周りがしっかり見える。父さんは唯織の将来が楽しみだよ。」
――「いっちゃんは本当に優しいなぁ。」
――「いっちゃんのしっかりしてるところに、いつも母さんは助けられてるんだべ。」
そうやって二人に褒められるだけで、律月が生まれる前の完璧な幸せを感じることができた。だから私は、沢山友達を作った。けれども勿論、咲希ちゃんのことを忘れている訳では無い。咲希ちゃんとは一層遊ぶようになった。
そんなある日。律月が小学二年生に、私たちが五年生に上がった頃だろうか。
私たちは近所の公園で「代わり鬼」をしていた。鬼は鬼決めで律月が当たった。律月は去年の学年対抗リレーで一年生にして三位に上り詰めたほどに足が速い。もし私が鬼になれば、律月を捕まえられないのは確実だろう。そうなると、咲希ちゃんと二人だけの鬼ごっこになってしまう。律月が可哀想だ。
まだそんな気遣いができるくらいには、律月を好きな気持ちは残っていた。
絶対に捕まりたくない。
そう思った私は、律月に見つかるのを恐れて、大きな木の裏に身を潜めていた。
隠れ始めて暫く経ったところで、咲希ちゃんの無邪気な笑い声が少し遠くから聞こえてきた。ザラザラとした木にそっと手をかけて覗き込んでみると、咲希ちゃんが大きな笑い声を響かせて律月から逃げている。
実は、咲希ちゃんも昨年、運動能力賞をとって終業式に律月と一緒に表彰されていた。私はあと一歩のところでとることはできなかったが…。
どちらかと言えば律月の方が速くはあるが、それでも咲希ちゃんは律月と張り合えるくらいには足が速い。
きゃっきゃと可愛らしい笑い声を上げて律月から逃げる咲希ちゃんは、後方も確認せずに一目散に駆けている。そんな十メートル程先を駆ける咲希ちゃんに負けまいと律月も小さな身体で、すばしっこく追いかけていた。
そんな楽しそうな二人を見て私も混ざりたいと思っていると──
「ほーらほーら!おにさんこちら!手の鳴る方へっ…?!」
そう律月を煽るために振り返った咲希ちゃんは足元に落ちていた大きな石ころに躓いて、思い切り転んでしまった。
ズザザザー…!と砂が皮膚に擦れる音がして、律月は焦った様子で走るスピードを一層上げる。
「大丈夫?!」と律月に声をかけられた瞬間、咲希ちゃんは大きな声を上げて泣き始めてしまった。
咲希ちゃんはいつもは、忍耐強くどこか大人びている子だ。明るく元気でいつも笑顔だったため、咲希ちゃんの泣き顔を見るのは初めてだった。
咲希ちゃんを元気にさせる能力が自分に備わっているのか、怖くなって、私は……木の裏から観察することしかできなかった。なぜだか足が竦んで動けない。
けれども、律月はそんな私に気づくことはなかった。潔癖症の気質があるくせに服が汚れることも厭わず、咲希ちゃんの前に片膝を立ててしゃがんだのだ。
そして、以前、泣いている私にかけてくれた声と同じような優しい声で包み込むように咲希ちゃんの手に触れる。
「大丈夫だべさきちゃん。ほら、泣かないで?見せて。」
「うわああああああん!いたあああああああい!!」と鳴き声を上げている咲希ちゃんの膝は皮が剥けて肉が見えてしまっていた。そして、その上にはバイ菌だらけの白い砂が傷口に張り付いている。
「まずは砂洗い流すよ。したっけおれ、家戻ってカットバン取ってくるから、そこの水飲み場で姉さんと待ってて。バイキンとじこめるわけにはいかないから、しっかり洗い流すんだよ?よし、さきちゃん立てる?」
私で慣れているのだろうが、そうやって完璧な対応をする律月を見ているとどうしても、再び憎悪と嫉妬心のようなものが沸き上がってきた。
今日は過ごしやすい気温の筈なのに、背中にはぶわあっと冷や汗が溢れてきて、お気に入りのシャツが背中に張り付いていた。
……いやだ…。
嫌だ……。咲希ちゃんまで奪われたくない…。
そんな恐怖が浮かんでくると、手に負えなくなったのか先程まで動かなかった足も勝手に駆け出していた。
「大丈夫?!さきちゃん!」
なんて、あたかも今気づいたかのように咲希ちゃんの隣に跪き、大声で泣いている咲希ちゃんの背中を擦る。けれども、「たてないよっ…」とふるふる首を横に振った咲希ちゃんの返答を聞いて、律月は迷いもせず自分より十センチ以上は大きい咲希ちゃんを軽々とお姫様抱っこして水道へと歩いた。
水道の近くでそっと下ろすと、わんわんと未だ大声で泣いている咲希ちゃんの目をじっと見て言う。
「じゃあおれ、カットバン取ってくるから。大丈夫だからね。姉さんがついてくれてるから。まて洗うんだよ?姉さん、さきちゃんをよろしく。」
そうやって七歳とは思えない程落ち着いた様子で言い残し、全速力で家へと走っていった。
私は初めて見る咲希ちゃんの泣き顔に未だ、たじろいでいた。けれども「うわあああああん」と泣き叫んでいる咲希ちゃんの膝を見て漸くするべきことを思い出す。
「さっ、さきちゃん…!ひざ洗お!ねっ?」
下手くそに咲希ちゃんの顔を覗き込む。
律月は上手く宥められるのに、私はそれができなかった。当たり前だ。いつも誰かを困らせるのは姉である私の方なのだから。律月は殆どこうやって泣き喚くことがないから、どんな対応が適切なのか探ることができなかった。
ここでも私は劣等感を覚え、胸がきゅうっと痛んだ。
けれども今は、咲希ちゃんの怪我が優先だ。
「やだやだやだ!痛いから洗いたくないよおおおっ!!!」
「だっ、大丈夫!ほら、私がついてるから!」
なんとか安心させようと、律月の見よう見まねで咲希ちゃんの目をじっと見つめてみる。
「さきちゃん、あのね、きちんと洗わないとバイ菌が入って大きな病気にかかっちゃうの。」
すると……
「大きな病気…?」
漸く、咲希ちゃんはゆっくりと顔を上げてくれた。
恐怖で揺らめく大きな瞳が美しい、と思ってしまったことで自分の性格の悪さに再び、内心腹を立てる。
「うん、そうよ。大きな病気にかかったら私たちと遊べなくなっちゃう。そんなの私 嫌。」
小っ恥ずかしさを感じながらも、必死に素直になってみた。そんな私の本心に安心したのか、咲希ちゃんは小さく頷いてくれた。
「わかった…洗う…。」
「うん、偉い。」
とりあえず、膝についた土を洗い流すことができた。再び大きな声で泣き始めてしまった咲希ちゃんを必死に宥めているところに、漸く律月が戻ってきた。
「おまたせ。じゃあ消毒するよ。」
息切れをしながらも律月はそうやって咲希ちゃんへ綿を近づける。一度泣きやみ、咲希ちゃんは私の手をぎゅっと握った。
「怖いから、手つないでて…?」
嬉しかった。
私は、咲希ちゃんが頼ってくれたことが嬉しくて堪らなかった。
母さんも父さんも律月ばかり褒めて律月ばかりに頼るけれど、咲希ちゃんだけは、律月がどれだけいいところを見せても私だけを頼りにしてくれる。
咲希ちゃんだけは、私だけを見てくれるのだ。
まるで、律月が生まれてくる前のように私は、この上なくあたたかい幸せに満たされていた。
私よりも少しばかり小さな手をぎゅっと握ってやると、咲希ちゃんは大きな泣き声を上げなくなった。啜るようにして仕切りにしゃくり上げ、消毒液が滲みる膝の痛みに耐えていた。
その夜はお泊まり会だったので、私と律月の共同の狭い部屋に咲希ちゃんも一緒に布団を敷いて眠っていた。
真夜中(ここで言う「真夜中」は本当の意味での「真夜中」だろう。つまり、深夜二時頃のことだ)すやすやと気持ちよく眠っていると突然、身体を揺さぶられた。寝惚けたままの脳と耳には、情けない律月の声がふわりふわりと届く。
「ねえさん、ねえさん…。」
「ん……なあに…。」
「…と、トイレ…着いてきてくれない…?」
「なんでよ…あんた前に『USOジャパン』見ながら『ゆうれいなんている訳ない』って言ってたじゃない…。」
「い、いや……えっと…。」
「あぁ…そういえばあの日も『トイレ着いてきて』って言ってたね…。なに?本当はこわいの?」
「……おっ…おっかなくなんか…。ただ……い、いたら物理じゃかなわないと思ってるだけさ…?」
「…へぇ?怖くないなら一人で行きな。物理も効くから。大丈夫。」
面倒なので私はそう言って壁側に寝返りを打ち、再び目を瞑った。
けれど……
「ねえさん…ねえさん……。おっ…おっかいから…。もれる……着いてきて…?」
そうやっていつもでは想像できないくらいに情けない震えた声を聞けば、ため息をついてでもベッドから降りるしか無かった。
「全く……律月はまだまだこどもだね。」
と呟きながらも、眠っている咲希ちゃんを跨いで部屋の外へと向かった。
その時──
「へへぇ。」
「ひっ?!!」
何だか可愛らしい笑い声が部屋に落ちた。
因みにたった今、何とも情けない悲鳴を上げたのは私ではなく律月。
咲希ちゃんの可愛らしい声に驚くなんて、どれだけ腰抜けなんだと呆れていると咲希ちゃんはとろんとした顔で、小学五年生にも関わらず色気のある掠れた声で律月を見上げる。
「りつきくん、おっかいんだ?」
「うっ、うっさい さきちゃん…。わんわん泣くさきちゃんのひざを手当してあげたのは誰だと思ってるの?」
「はいはい、ケンカはいいから。もれちゃうんでしょ?早く行くよ。」
嫌味モードに入った律月を宥めながらも私は律月をトイレまで送った。
「ま、待っててね…?」
腹の立つ程きゅるきゅるな瞳で見上げる律月へ「はいはい」と欠伸をしながら返事をして、扉が閉まるのを確認する。そして、眠いので当たり前のように私は部屋に戻った。
ゴソゴソと音を立ててベッドに入り、ため息をつきながら寝転ぶ。
すると、掠れ気味の柔らかい声が私の耳を擽った。
「ねぇ、いおりちゃん?」
愛おしい声が私の名前を呼ぶ。
大好きな優しい音色が私を包んで胸があたたかい。心地いい。
「なあに?さきちゃん。」
入口の足元に声が届くよう寝返りを打って微笑むと、咲希ちゃんはふわりと はにかんでこんなことを言った。
「今日、さきのとなりにいてくれてありがとう。さきの手、ぎゅってしててくれてありがとう。なまら心強かった。いおりちゃんのおかげで大丈夫だって思えたさ。やっぱりね、さきのいちばんはいおりちゃんだよ。さきにとって、いおりちゃんは、なまら特別なの。」
そんな全てを包み込んでくれるような完璧な声が私の鼓膜を震わせた瞬間、私はどうしてこんなに「一番」を、「特別」を、求めているのか思い出した。
――「唯織は私がたの一番なんさ。一番めんこくて、一番いい子だよ。」
――「唯織は特別な子なんだべ。父さんたちの宝物なんだ。だから、自分のこと大切にして。これだけ覚えてくれれば充分さ。」
そうだ……。律月が生まれる前……母さんと父さんは、こうやって私だけを見てくれていた…。だから、私は「一番」がどれだけ幸せか、「特別」がどれだけあたたかいものか、知ってしまったから…私はこの二つの言葉に飢えていたのだ。
けれども、今は咲希ちゃんがいる。
そうだ。咲希ちゃんが私だけを見てくれるのなら、私は律月よりどれ程劣っていたっていいじゃないか。
私はあの幸せな日々を思い出しながらも、咲希ちゃんの笑顔を見つめて幸せを噛み締めていた。
乾ききっていた心に、咲希ちゃんの真っ直ぐな愛が浸透していき、私の心はやわらかさを取り戻していく。
あぁ、なんて幸せなのだろう。
「私も、さきちゃんが一番好き。さきちゃんは特別だよ。」
そう笑うと、咲希ちゃんは思った通り肩を少し上げて可愛らしく笑ってくれた。
しかし、その幸せは一瞬にして終わりを告げた。
それは、その年の秋のこと。
隣のクラスだった咲希ちゃんとは、いつも律月を交えて三人で帰っていた。しかしその日は律月はおらず、咲希ちゃんと二人だった。どうやら律月は来年に行われる漢字検定の説明会に出席しているらしかった。
その日の帰り道も、咲希ちゃんは相変わらず私を褒めてくれていた。
けれど……突然、静かになって落ち着かない様子で私をチラチラと見始めた。いつもなら咲希ちゃんは楽しそうに他愛もない話題を提供してくれる。
しかしその日だけは……。
いつもの咲希ちゃんとはまるで別人のように、何だか言葉に詰まっていた様子だった。
不思議に思いながらも、尋ねてみようか迷っていると咲希ちゃんは、漸く口を開く。けれども小さな口から出た声はとても弱々しく、らしくないものであった。
「ね、ねぇ…いおりちゃん…。」
その声に、嫌な予感が過ぎる。
まだ咲希ちゃんは何も言っていないのに、大好きな声は私の耳に、脳に、重くのしかかるようだった。
「……なあに?」
漠然とした不安を抱えながらも、もし咲希ちゃんが悩みを抱えているなら…と思って恐る恐る訊いてみる。
すると──咲希ちゃんは弱々しく恥ずかしそうな声でこんなことを言った。
「あ…のさ…りつきくんってさ……す、好きな子……いるのかな…?」
咲希ちゃん以外の友達で何度も見てきた真っ赤な頬に、聞きたくもない咲希ちゃんの震えた声に、初めて見る咲希ちゃんの表情に、全ての思考が停止する。
その瞬間──何かがプツンと小さな音を立てて切れた。
その音は私にしか聞こえず、徐々に重苦しい耳鳴りへと変化していく。そして、血のような汚いどろっとした液体が切れたところからぶわっと溢れだしてくる。
胸が痛くて、苦しくて、ほぼ放心状態だった。
何も言えなかった。
何も、言いたくなかった。
グラグラと不安定な中、なんとかバランスを保っていた律月への思いが突然、崩れていく。
私を尊敬する真っ直ぐな眼差し。
七歳とは思えない程の知識欲と優れた頭脳。
可愛らしく秀麗な顔。
何でもできる弟を褒めてばかりで私には関心が薄い両親。
私よりも素直で可愛げのある性格。
色々な人と話せる私とは対照的に、少なすぎる友達。
誰かのために、私のためにと動けるあまりにも綺麗すぎる心。
──唯一、私だけを、見てくれている咲希ちゃん。
そんな、なんとかバランスを保っていたものたちは咲希ちゃんの言葉によって、一瞬にして修復不可能のところまで崩れていった。
その瞬間、律月への嫉妬と憎悪が津波のように押し寄せてくる。
律月が私より優れていなければ。
律月が咲希ちゃんと仲良くならなければ。
律月が……この世に生まれてこなければ。
そうだ。そうじゃないか。私は律月が生まれたことで幸せを壊されたのだ。充分私は我慢した。
何度も何度も、何度も何度も何度も何度もあの純粋な瞳に傷つけられてきた。
律月だけじゃない。母さんも父さんも近所の人も教師も……咲希ちゃんだって…私を何度も痛めつけてきたのだ。
律月が生まれてこなければずっと私は幸せだったのに。
母さんと父さんの一番のままだったのに。
あのまま、咲希ちゃんの特別になれたのに。
全て、律月の所為じゃないか。
どうして私は、あんな化け物を愛せていたのだろうか。
咲希ちゃんが恋したのが他の人物ならまだ良かった。クラスの馬鹿な男子とか、六年生の男の子とか、近所の中学生とか。それならまだ、許すことができた。もし奪われたとしても、我慢できた。
それなのに……どうして………どうしてよりによって、律月なんだ…。
「一番」だと、「特別」だと、言っていたのに…。全部……嘘だったのだろうか…。
「いおりちゃん…?」
咲希ちゃんがとても不安そうに眉を下げて私の顔を覗き込む。
「…あぁ…律月は好きな子いないと思うよ。」
胸が締め付けられるかのように痛む。何故か声が震えてしまった。
そんな私に勿論、咲希ちゃんは気づくことは無かった。
「そ、そっか…だよね…。……りつきくん、さきのこと…なんか言ってた…?」
「……ううん。何も。」
嫌いだって言ってた、なんて嘘をつきたかったけれど……どうしても、咲希ちゃんを悲しませるようなことはできなかった。
成就なんかして欲しくないのに、奪われたくなんかないのに…。
この些細な優しさが律月にも発揮できればよかったのだが……恨みというものは、どうしても消えないみたいだ。
それ以上深掘りすることもできず、その日はずっと気まずいまま家に着いてしまった。
その翌日から、私は律月に強く当たるようになった。何故翌日からかと言うと、まだ当日には理性が働いていたから。
最愛の筈だった弟を傷つけたくは無いという気持ちはまだ残っていた。けれども、時間が経てば経つ程、律月の細かな仕草や行動が気になって、劣等感は次第に強くなっていった。
だから私は、律月を幸せにはさせないことを決めた。
何度も傷つけられてきたから。
何度も、惨めな思いをさせられてきたから。
何度も、大切なものを奪われてきたから。
だから、律月を一生苦しめていくと決めた。
戸惑い、悲しむ律月の顔を見て特に良心が痛むことは無かった。律月が母さんや父さんに褒められていたり、咲希ちゃんが律月を見つめているのを目撃すれば劣等感や憎しみに苛まれ、息ができなくなってしまうことには変わらなかったけれど、それでも仮面を張りつけて可愛がるよりはマシだった。
いつの日だったか、前に近所の図書館で「ピグマリオン効果」という言葉を目にしたことがある。
それは、人から期待されたり褒められると、その期待に応えようと成果や能力が向上する現象のこと。
例えば、バイト先で先輩に「気が利くね」と褒められることで、褒められた後輩は客や仲間の要求を先回りして察したりと気遣いができるようになる、といったようなところだ。
つまり、「優しい」と褒められればその人物は優しくなるし、「笑顔が可愛い」と褒められればよく笑うようになる。
このピグマリオン効果は逆でも使えると思った。
「逆」というのはつまり、律月の人間としての質を落としたいとき。
律月は素直にものを言うが実際は気遣いもできるし、傷つけてしまったと後悔できるだけの優しさがある。
勉学などの能力は落とすことはできないかもしれないが、性格としての質は落とせるかもしれない。
そう考えた私は、ひたすら律月を「クズ」だと罵った。そうすれば本当にクズになると思ったから。人々を虜にさせる律月の「優しさ」が無くなれば、みんなに嫌われると思ったから。
実際、私が罵り続けると律月は自信を更に失ったのか、人と関わることを更に嫌った。いや、「嫌った」という表現は適切では無いかもしれない。律月は、私の所為で人を怖がるようになった。
そのことで、殆どの人が律月を嫌な奴だと誤解してくれるようになった。
クズにすることは出来なかったが、人間を信用できなくなった落ちこぼれの律月を見ていると安心できた。
けれども、傷つけられてきた痛みも、弟を失ったかのような喪失感も消えることはなく、年々膨張していく一方だった。
更に、咲希ちゃんが律月に対する恋心を募らせていく度に劣等感を抱き、私の心の傷は増えていった。
そう。これが、私が大好きだった筈の弟を恨んだ理由だ。
けれど……
「……お姉さんは、寂しかったんですね。」
憎らしい律月の彼女の一言で、律月に対する憎しみが止まった。まるで、メトロノームを勝手に止められたみたいに。
今まで、見ないようにしてきた自分の本音を、昨日今日会った、しかも大嫌いな弟の恋人に、突きつけられたのだ。
「寂しかった」なんて子供っぽい感情、認めたくなかった。けれども、耳を塞ぎたくなるほどの優しい声は、私の心の扉をこじ開けようとしてきた。
――いや、「こじ開けようとしてきた」というより、彼女は「鍵」を既に持っていたような気がする。ゆっくりと、けれども遠慮もせずに扉を開けたのだ。
「『母さんも父さんも、律月のことばっかりで私を見てくれない』って……。唯織さんは、ずっと、お母さんとお父さんにもっと見てもらいたかったんですよ。…ずっと……ずっと、本当に長い間、つらい思いをしてたんですね。」
今まで誰にも話したことの無い――誰にも気づいてもらえなかった私の思いを、彼女が容赦なく代弁する。
澄みきった美しいエメラルドの瞳が怖くて、私は咄嗟に彼女から目を逸らした。その先で映りこんだ私の手は、小さく震えていた。
「けど、お母様はこの間 碓氷さんのお家でお泊まりしたときに、唯織さんのことすごく自慢げに話していました。『大学を卒業したあと試験に一発合格したんだ』って、『警察学校を優秀な成績で卒業したんだ』って、『すごくいい子で、自慢の娘なんだ』って。」
彼女の言葉に、思わず顔を上げてしまった。
信じられなかった。信じたくなかった。だって、期待してしまえば、また……両親が「私を見ていない」という現実に引き戻された時、苦しくて息もできなくなってしまうから。
けれども、こんな純粋な瞳が、こんなにも優しい声が、嘘をつくようにはどうしても思えなかった。
目頭がじわあっと熱くなって、喉が詰まる。
まだ口に残るコーヒーの味は、何だか少し甘い気がした。
けれども目の前の嫌いな筈の彼女は、私という存在を容赦なく優しく包み込もうとする。
「碓氷さんの話を聞いて、お姉さんは物凄い意地悪な方なんだなって思ってましたが、お母様の話を聞いて気づきました。唯織さんは、優しくて頼りがいのある社交的な方だったんですね。寂しくて仕方ないから、攻撃的になっちゃってただけなんですね。お母様とお父様は、唯織さんのこともきちんと見てくれています。そして、誇りに思ってますよ。」
「そ…そんなはず……」
そんな筈無いと言いたいのに、そう思いたいのに、理性よりも先に安堵が先行して、涙がぽとりとテーブルに落ちた。
……母さんも父さんも………私を見てくれていたの…?
私をきちんと、愛してくれていたの……?
「唯織」、「唯織」と愛おしそうな母さんと父さんの声が聞こえてくる。その声は決して朧気なものではなく、鮮明な思い出であった。
その時、初めて……私は自分の犯した過ちに気がついた。
…律月を傷つけすぎたと、初めて……気がついた。
今まで、私は自分の行為を正当化するために、心の中で何度も律月は最低な奴だと言い聞かせていた。けれど……最低なのは…………
私だ……。
母さんがなんだ、父さんが何だ。二人はずっと平等に私を見てくれていただろう。
「二人に見放される不安」が募りすぎて、自分で「愛されていない証拠」ばかりを探して、勝手に傷ついていただけじゃないか。
咲希ちゃんだって……律月への恋心とは別に、私を愛してくれたじゃないか…。律月を好きになったって、私への思いが変わる訳でもないのに………。
両親や咲希ちゃんは、別に私の「能力」を愛している訳ではなかったのに……。きっと、私の「存在」ごと、愛してくれていたのに…。
それは、きっと……律月だって………。
――「ねえさん!」
幼く、可愛らしい律月の声が脳内に響く。
「ねえさん、おれ知ってるよ。ねえさんはいつもことばは そっけないけど、でも、はずかしいだけで心の中はすっごくやさしいんだ。おれ、ねえさんみたいになる!ねえさんみたいに、強くて、やさしくて、カッコいい人になる!」
「俺、姉さんが一生困らないように、勉強がんばるよ。もし姉さんが分からないところがあったら、全部教えられるくらい、頭良くなるんだ。」
「姉さん、やっぱり俺、姉さんのこと大好きだよ!」
キラキラと目を瞑りたくなる程に眩しい笑顔が、頭の中でぼんやりと浮かんでくる。
サラサラとした律月の髪の匂いが、とても懐かしい。
けれど………
「………。」
今、律月が私へ向けている視線は「恐怖」。
それが悔しくて、苦しくて、申し訳なくて、私は律月の顔が見れなかった。
あぁ……すごく…今………この子の笑顔が見たい。私が奪ってしまった笑顔を――
「あ、そうだ。おふたりとも、ハグしませんか?仲直りの証に!」
家を出ようとした直前、明香里さんは突然そんなことを言った。
「「は?」」
律月は目を丸くして、私は眉を顰める。明香里さんの一言で一気に気まずい空気に変わったのに、明香里さんは何も気にしていない様子で、私たちをキラキラとした瞳で見つめる。
「な、なに馬鹿なこと言ってんのよ。私と律月がハグなんかする訳ないでしょう?」
「そっ、そうだぞ笹野…。」
なんて言っても、明香里さんは一人で探偵になったかのように推察を始める。
「唯織さんは…『家族からの愛』を求めてたんですよね。それなら今、唯織さんに一番必要なのは、『体温』だと思うんです!けどこれは、私がやって務まるような役割ではありません。今この場で唯織さんの心を解きほぐせるのは、碓氷さんしかいないんです。」
「べっ、別に私は『愛』なんてっ!――」
「それに、碓氷さんも。『お姉さん』の愛が恋しいですよね?」
明香里さんが律月を見上げると、律月は数秒間、固まった。驚いたように明香里さんの瞳をじっと見つめている。
そして――
「ぎゃああああ何すんのよ!!近づかないで!!ちょっ――」
何も言わずに律月は私に迫ってきた。
後退りをするも直ぐに捕まってしまい、直後……ぎこちなすぎる腕がゆっくりと私を包み込む。その瞬間、何故かずっと感じていた緊張感が解れ、突然 全身の力が抜けた。
徐々に、身体があたたかくなると同時に、胸は熱くなる。
あぁ………あったかい…。
やさしい……。
私は無意識に律月の背中へと腕を回していた。不思議と、清潔感のあるフローラルな優しい香りは私を安心させる。
柔軟剤も、シャンプーも変わっているはずなのに、何だか………
「なつかしい…。」
記憶の中よりも幾分も低くなった声が、私の鼓膜を震わせた。
再び無意識に私は律月のスーツをぎゅっと握る。
――って!!
「なっ、何が『懐かしい』よ!!あんたでっかくなったから何も懐かしさなんか感じない!!!」
何だか突然、弟とハグしていることが恥ずかしくなって、私は律月の肩を押し退けた。
けれども、律月は何故だか数秒間、私の顔を見て――
「ふっ…」
爽やかに笑った。
「なっ、何よ…。」
「いや?姉さん、完全に安心しきった顔してたから、嬉しくて。」
は?!!
「しっ、してない!!!気持ち悪いわね笑うんじゃないわよ!」
何だか律月と目が合わせられなくなって、私は咄嗟に視線を落とす。
そんな私の耳には、コロコロと笑う律月と明香里さんの優しい笑い声が響いていた。
あぁ、なんで……なんで私は、今、こんなにも満たされているんだろう――
ここまで読んでいただきありがとうございます!
実は私、この章が個人的にめちゃくちゃお気に入りなんです笑
なんか、初めは大好きだったのに、周りの人の反応でその「大好き」が「憎しみ」に変わってしまう人間臭いところが出てるというか。
私自身、めちゃくちゃ愛嬌がよくて立ち回りが上手い兄がいて、「お兄ちゃんは、あんたと違ってちゃんと 〜するのにね」とか、めちゃくちゃ親に比べられてたので唯織の気持ち、痛いほど分かります。親はそうやって無意識に私を自己肯定感を下げてしまうのに、兄はめちゃくちゃ優しくて。それがなんかすごい悔しかったんですよね。でも元はと言えば、何もできない私が悪いし……その劣等感はどこにもぶつけることができないので、結構苦しいんですよね。
これを読んでくれている人が、唯織に共感してくれたら嬉しいです。同じ思いをしてる人がいるんだって知るだけでも、少しだけ気持ちが楽になるような気がします。




