第八章 家族のかたち③
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笹野のしおらしい泣き顔を見たとき、不思議と抱きしめたい衝動に駆られた。本気で守りたいと、そう思った。
今、思い返してみれば、そんな不思議な気持ちは笹野と一緒にいると何度も感じていた。初めは……そう、笹野が俺の家に居候した最後の夜…。胸がきゅんと鳴った。他にも、笹野の笑顔を見ると自然と笑顔が溢れてきたり、ドキドキと脈が速くなったり、匂いに安心感を覚えたり、「可愛い」なんて思ったり、顔が熱くなったり、息苦しさを感じたり、触れたいと思ってしまったり、ヤキモチなんか妬いたりと……そんな不思議な感情は、笹野と過ごせば過ごす程、頻度も度合いも増していった。こんな感覚は初めてだった。今まで誰にも感じたことなんか無かった。
それは、そんな気持ちを抱く程の仲の良い奴がいなかったからかと思っていたが……どうにもおかしい…。
笹野の髪に無意識に触れてしまっていたことに気がついたとき、漸く俺は「異変」を感じた。流石に「友達」でもこんな感情は抱かないのでは無いか、これを「友達」と呼ぶには少し気持ちが悪いのでは無いかと…。
それに、俺はいつの間にか笹野に「意識して欲しい」と思うようになってしまっている。「好きになってくれるんじゃないか」なんて、期待を抱くようになっている。
この変な感情は何なんだ。
なんでこいつの泣き顔を見ていると、こんなに苦しくなるんだ…。
なんでこいつが他の男と話していると、あんなにもムカムカ腹が立つんだ……。
なんで俺は……こいつにこんなにも触れたく………………
そう考えたところで、俺の脳内には「恋」という言葉が浮かんだ。そして、まるでその言葉を裏付けるかのように、今までの笹野の表情や仕草、言葉がフラッシュバックする。
あの時の、笹野の優しく真っ直ぐな瞳も声も、
――「私にとっても、碓氷さんは大切な存在です…。碓氷さんは、私の特別オブ特別ですから。」
あの時の、とても幸せそうに俺の作った料理を食べる姿も、
――「うっま…!!!!え!なんですか碓氷さん天才ですか?!!!おいしい〜…!!!とろっとろですね!!しかもシャキシャキ…!!!天国ですかここは…!!!もう毎日食べていたいです!!!!」
――「ん〜!うっまっ!!とっても美味しいです碓氷さん!初めてこんな美味しいお肉食べました!」
あの時と先程の、ボロボロと溢れる涙や、目の下を真っ赤に腫らして子供のように泣きじゃくる表情も、
――「だれよりも頑張り屋でっ……だれよりもまじめでっ…口ではひどいこというのに、ほんとうは心配してくれてたりっ……たすけてくれたりっ…………ほんとうは自分がいちばんきずついてるのに…ほかのひとのことをいちばん気にかけてぇぇっ…!!!っ……うすいさん、いいひとなのにっ………っ……うすいさんにはっそんな顔…してほしくないんですぅうう……!!!」
あの時の、さくらんぼのように真っ赤に染まったふわふわな頬も、
――「…いい匂い……。」
――「……ヤキモチ、ですか…?」
あの日の、綺麗で可愛らしい横顔も、
――「私も、こんなに楽しいクリスマスは初めてです!」
あの日の、甘ったるい笑顔も、
――「わたし〜、碓氷さんの人柄がだいすきです。」
今日の、天使のような笑顔も、
――「いーえっ♪幸せだなぁと思っただけです。」
今の……ぽかんとしたあほ面も………
全てが………………どうしようもなく……
「はっ…?!うそ……!」
頭の中に出てきた「どうしようもなく」という言葉のあとに続く単語に、俺は混乱した。
笹野のことを「愛おしい」と思ってしまっていることに、漸く俺は気づいた。
「好きだなんて有り得ない」だなんて考えていたが………
俺は……もうとっくのとうに……………
――笹野に、恋をしてしまっていたのだ。
気づいた頃には、もう既に夢中になってしまっていた。
というか……タイミング悪すぎるだろ…!なんでよりによって、笹野がこんなに苦しんでいる時に気づくんだ…。相変わらず最低だな……俺…。泣き顔見て気づくなんて………。
「………どうか、しましたか…?」
たった今、気づいてしまった事実を上手く呑み込もうとしていると、笹野がこてんと首を傾げて尋ねた。
「あっ…いっ、いや…?!どうもしてない…!ほんと…!」
くそっ……可愛い…。
なんて、呑気に胸を押さえていたが……
「そう…ですか…。」
笹野はそう言ってから深呼吸をした。
そして、震えた声で教えてくれた。母親との関係を。話の最後には、もう一度泣きそうになっていた。どうやら思い出して苦しくなってしまったようだ。大きな宝石のような瞳からは、瞬きをしたら零れ落ちてしまいそうな涙が溜まっていた。
………今は……………状況を呑み込もうとか、考えている場合じゃない…。笹野のこんな顔は、苦しくて見ていられないから………笹野には、笑顔でいて欲しいから……………精一杯、俺が笑わせてやらなくちゃ…。
例え、この恋は上手くいかなくても……一生、俺が笹野を幸せにしてやるんだ。
そう意気込んで、俺は震える笹野の小さな身体を包み込んだ。
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全て打ち明け終わると、碓氷さんは……もう一度、静かに私を抱きしめてくれた。また、涙が零れる。
そして、そんな私にいつもより優しい声で囁くように言ってくれた。
「……母親の存在が恋しいんなら………俺の母さんに甘えたらいい。あの人、うざいくらいに母性強いから。俺も姉さんも甘えるのは苦手だったから、母さん喜ぶと思う。」
ちょっとした悪口と笑いの混じえた言葉に、つられて私も「ふふふっ」と笑顔を零す。同時に涙が零れて、滲んだ視界が少しだけ澄んだ。
「でも……」
碓氷さんの発した小さな声の先を聞き取ろうと、私は耳を澄ました。すると、碓氷さんは私の小さな背中に回していた腕をほどき、今度は優しく私の肩に手を置く。
そして、しっかりと目を見ながらも恥ずかしそうに……続けた。
「もし、それが難しかったら…………幾らでも………お…俺に甘えたらいい…。」
そうやって、恥ずかしくても私を笑顔にさせようとしてくれる碓氷さんの真っ直ぐな瞳を見て、私は漸く思い出した。
――私には、碓氷さんがいるんだと。
誰よりも心強い味方。大好きで大好きで、でも……きっとこの恋は報われないだろうけれど………碓氷さんは絶対に、一生 私の味方でいてくれるのだろう。
そう確信すると、凄く嬉しくなった。更に碓氷さんが大好きになった。気持ちが募りに募って、どう表したらいいのか分からない。けれど、今 伝えられることを精一杯に。
「大好きです碓氷さん!」
そう笑って、私は勢い良く碓氷さんへもう一度抱きついた。碓氷さんの嬉しそうで照れたような笑い声が頭上から聴こえる。今日は何回ハグしただろうか。もう飽き飽きする程 ハグをしているというのに、碓氷さんはやっぱり私を優しく抱きしめ返してくれた。
ぽかぽかとあたたかくなった胸から、何かが込み上げてきそうだ。気を抜けば、その「何か」が溢れてしまうかも。
「胸を貸してくれて、ありがとうございました!さあ、そろそろ冷えてきた頃ですし、中に入りましょう!」
そう離れて、先程まで伝っていた涙を拭い、笑う私に碓氷さんは綺麗に笑った。
「そうだな。」
部屋に戻ると、お母様は私の顔を見て優しく微笑む。
「おけぇり、明香里ちゃん。」
――碓氷さんと、よく似た笑顔だ。
「ただいまです、お母様!先程は、お騒がせしました。」
「なんもなんも。ほれ、明香里ちゃん。身体が冷えただろうから、こたつ入りんさい。」
そう笑って、お母様はこたつ布団を捲ってくれる。
私は、先程の碓氷さんの言葉を思い出して、「はい!」と笑顔で布団に脚を入れた。すると、お母様は私の肩までこたつ布団をかけてから、手で押して隙間を埋めてくれる。
「ふふっ、ありがとうございます。あったかいですね♡」
「そだねぇ、あったかいさぁ♡」
もう、先程の「寂しさ」は一切感じない。感じるのは、大きな安堵と幸福感だけだった。
自然と笑顔が溢れてくる。頬を緩ませて、こたつの上に顎を載せたとき、ふと碓氷さんの方へ目をやる。ぱちり、と目が合うが、碓氷さんは逸らしたりせずに優しく笑いかけてくれた。
「そういえば明香里ちゃん、聞いてくれるかい?」
「はい、なんでしょう!」
「律月ったら、もう二十八なのに結婚相手がいないんさぁ。」
「はっ?!ちょ、母さんその話はもういいって…!」
「『結婚』…ですか……。」
「結婚」…。
その言葉に、私の胸はドキンと音を鳴らす。出来ることなら、私がその「結婚相手」になりたいけど………「私はいかがでしょう?」なんて、訊ける訳無いもんなあ……。
「うーん……お母様としては、碓氷さんには結婚をして欲しいんですか?」
「笹野も乗るなよ…!」
「そりゃあして欲しいべ〜。幸せになって貰わんと困るさ。」
「なるほど……。」
碓氷さんが誰かと「結婚」……。
………嫌すぎる…!
恋は叶わなくても、ずっと一緒にいたいもん…。
「………お母様が望んでいるのは、碓氷さんが『幸せになる』ことでしょうか…?それとも、碓氷さんの『結婚』……ですか…?」
「だから笹野……――」
「どっちもだべぇ。孫の顔だって見たいし――」
「おい母さんっ!!」
そんな大声を出したことで、漸く私とお母様は碓氷さんの顔を見た。顔が耳まで真っ赤だ。やはり、お母様と居る碓氷さんは、いつもの百倍子供に見えて可愛い。
「なしたぁ?りっちゃん。」
「『なした』じゃねぇーよ…!朝からその話はもうすんな言ってるだろっ!なんっでそれを態々、笹野にまですんだよ…!!」
碓氷さんは必死になって怒っている。
やばい……可愛すぎて吹き出しそうだw
「あれぇ、いつも母さんと話すときは方言うつりさるんに、りっちゃんもしや、明香里ちゃんの前でいいこふりこきしてるのかい?田舎くさいからってぇ〜♡」
「は…はあっ?!んな訳ねぇーだろ!!というかっ!『りっちゃん』もやめろっ!!」
恥ずかしくて堪らないのか、必死に怒っているため碓氷さんは「ぜーぜー」している。そんな碓氷さんを見ていると……
「ぷっwははははっwww」
遂に、私は吹き出してしまった。その所為で、碓氷さんの顔は更に赤くなっていく。
「わ…笑うんじゃねぇーよ!!」
「ごっww ごめんなさいついww あっははwww うすっ…ぶはっww うすいさんかわいすぎますっwwww」
腹を抱えて息が出来なくなる程 笑っている私を見て、お母様はとても楽しそうに笑っていた。
そして、突然こんなことを言った。
「明香里ちゃん。うちん息子、もらってくれんかい?」
あまりの衝撃的な一言に、大爆笑していた私も、大憤怒していた碓氷さんも真顔になって動きを止める。
まるで、二人とも呼吸すら忘れているようだ。
そして……
「は…はぁっ…?!!そったらたくらんけことっ…!」
最初に声を上げたのは碓氷さんだった。驚き過ぎて、折角 隠していた方言が出てしまっている。だが……ここで私が「そっ…そうですよ…!!」なんて言ったら、碓氷さんを好きなことがバレてしまう。なので………
「ふっ…碓氷さん、お婿に来ますか?」
私はわざと、頬杖をしてニヤッとボケた。
すると、期待通りに碓氷さんは「なんで俺が行くんだよ!」とキレの良いツッコミを入れてくれる。
よし……これで疑われることは無いだろう…。
そう思っていたのに……
「ありゃ……明香里ちゃんは律月と結婚する気はないかい…。……お似合いかと思ったんだけどねぇ…。そうかい………律月じゃダメかい…。律月じゃ嫌かい………。」
「ちょっ…!マジやめろ…!」
……なんと………お母様は本気だったようで、めちゃくちゃ肩を竦めてしまった。
どっ…どどどどうしよう…!!!いま私……とんでもなく失礼なことをしたのでは…?!!
「あっ…えっと……あのですね…!!わっ、私は『嫌』という訳ではなくてですねっ…!!そのっ……あのっ…………えっ……と…」
どうしよう…!「好き」って打ち明けちゃう…?!!い、いや……それだと碓氷さんのトラウマを蘇らせちゃうよね…………。じゃ…じゃあ……「私は構いません」って言う………?!
どうしたらいいか分からず、頭が沸騰しそうになっていると……
「あっはっは!」
なんと突然、お母様が笑った。
なぜ笑ったのかと驚きで目を見開いてお母様を見つめると、お母様は上品に口元を隠しながら言った。
「悪いねっw ちょっとからかっただけさぁww」
「……あっ…そ、ソウナンデスネ…。」
「母さん卑怯すぎ……。」
…よかったぁぁあああ…………二人とも傷つけてなくて、ヨカッタアアアアアアア…!
「そろそろ、こったら話はやめようかねぇw 律月が怖い顔しとるしww んふふwww」
「……もっと早くやめろよ…。」
そうやってため息をつく碓氷さんを見て、お母様はとても楽しそうに笑っている。息子の中々見ない困り顔が面白いのだろう。私も、碓氷さんの困り顔はめちゃくちゃ面白い。だから、お母様と同じように碓氷さんの顔を眺めて笑っていた。
すると、お母様が今度は真面目な顔で尋ねる。
「因みに、明香里ちゃんは結婚願望はあるんかい?」
そんなお母様の話題に、碓氷さんは「まだ続けんのかよ。」と怒って、キッチンへと歩いていってしまった。
「けっ…『結婚願望』ですかっ…?」
「そーさぁ。」
「そうですねぇ……」
どう答えたらいいものか………。碓氷さんと出来ないのなら、願望は一切無いのだが……。
「……無…くはないですね………。」
「するなら何歳くらいがいいかい?」
「い、いやぁ……そこまでは考えてませんね…。」
「そうかい〜、でも明香里ちゃんはめんこいから、こってりの人から好かれるだろうねぇ〜♡」
こっ…「こってり」……。
「あ…あの………」
「ん?」
「私……あまり…そのぉ………脂ギッシュなお方は避けたいのですが……。」
清潔感の無いおじさんを想像して私は、きちんと断った。
だが……
「ぶっはははwww」
キッチンから大きな笑い声が聞こえてきた。
驚いてそちらに目をやると、碓氷さんがお腹を抱えて崩れていく。目の前のお母様も「あっはっは」と豪快に笑っていた。
なっ…なに…?!!何か私 失言を…?!!
訳が分からず、碓氷さんとお母様を交互に見ていると、キッチンの方から声が聞こえた。
「こっwww 『こってり』wwwww 『こってり』はっwww ぶっははは!wwww んぐっwww むりむりwww いきできなっ…wwwww」
…………結局、こってりって何なんだ…?
ひたすら、首を傾げているだけでも意味が無いので、私はスマートフォンを開いて「北海道弁 こってり」と調べてみた。検索結果を急いで目で追って読み上げてみる。
「『こってり』とは『いっぱい』、『たくさん』、『大量に』の意……」
あまりの恥ずかしさに、私は途中で読むのをやめて湯気が出そうな程 熱くなった顔を隠そうと、ゆっくりとこたつに額をぶつけた。その様子を見て、二人は更に笑う。
「あかりちゃww あっははwww めんこいww めんこすぎだべさぁwwww」
「しぬっwww 『あぶらぎゅしゅ』っ…ぶはっ!wwwww」
「………。」
……は…恥ずかし過ぎる…………。
だけど……私は、少し嬉しかった。
だって、碓氷さんの大爆笑も見れたし、それに…………お母様が、碓氷さんの爆笑を見てとても嬉しそうな顔をしていたから。五年ぶりに息子の笑顔が見れて、嬉しいのだろう。
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「ん〜!サクサクぷりぷりで美味しいです〜!」
晩御飯の年越し蕎麦を啜り、えび天を頬張った笹野は、本当に頬っぺが落ちそうなくらい幸せそうな顔をして、そう笑った。
そんな可愛らしい笹野を見た母さんの顔は、とても嬉しそうだった。まるで、本当の娘を見ているかのように、愛おしそうな目をしている。
「明香里ちゃん、豪快さねぇ〜♡ お口がハムスターみたいになってるべ♡」
「へへへっ♡ 碓氷さんの作る料理は絶品ですからね!」
「『料理』つったって、蕎麦茹でて海老とか大葉とかナスとか揚げただけだぞ。」
「そうですが、こんなにサクサクに出来るのも、具材の食感がきちんと残るのも凄いです!私が作るといつもしなしなになってしまいますので。」
笹野はそう誇らしげに笑って、箸で掴んだ食べかけのえび天を掲げている。
……マジ可愛いな…。
「油の温度が低いんじゃないか?あと、油をケチってたりするとカラッと揚がらないな。」
「なんと…!……ケチってました…。やはりそれが原因でしたか…。」
このコロコロ変わる表情……可愛すぎるだろ…。
なんか好きって気づいてから、全部可愛く見えてきた。……好きな子補正ついたかな…。
「律月は、ちゃんこい頃から料理が上手かったんさぁ。」
「そうなんですか?!」
「『小さい』って言っても、小学校中学年くらいだけどな。」
「道理で料理がお上手な訳ですね!」
「そうさぁ〜、私がたが共働きだったから、よく律月が唯織に作ってくれてねぇ。あ、『唯織』っていうのは、律月の姉さんのことさ。」
…あの一件があってから、作った料理を目の前でゴミ箱に入れられてたな……。
なんて、ふと昔のことを思い出す。
だが、俺は余計なことまで思い出してしまった。
それは、俺のもう一つのトラウマ。
俺が中学二年の時のことだ。
その日は三学期末の終業式で、成績やテストの順位が載っている通知表が配られた。それは保護者に見せ、印鑑が押された状態のものを来学期に提出しなくてはいけないものだ。忘れるといけないので、毎年俺は帰ったら直ぐに母さんへ渡している。
だが、その日はそれが出来なかった。
「ただいま。」
姉さんが部屋に居ないことを確認してから、小さく呟き、リビングに入ると「おかえり」と微笑んだ母さんが言った。
「律月ぃ、今年もおつかい頼まれてくれるかい?」
「…ん。」
その日は、俺の通っている中学校と、姉さんの通っている高校の終業式であると同時に、姉さんの誕生日だった。毎年この日は、姉さんの為にホールケーキを予約している。それを受け取りに行くのが、いつも俺だった。
毎年、通知表は「おつかい」に出かける前に渡している。だから今年も、そうするつもりだった。
だが……洗面所で手を洗ってからリビングに戻ると――
「ただいま〜。」
……なんと、タイミング悪く姉さんが帰ってきてしまった。姉さんとは、極力 顔を合わせたくない。……姉さんの視線が怖かったから。
だから、俺は通知表も渡さずに、急いでリュックを持って自分の部屋へ逃げた。そして、机の上に置き……そそくさと家を出ていった。
その後は、無事にケーキを受け取り、毎年恒例の「おつかい」を終えた。もう一度手を洗い、通知表を母さんへ渡そうと自分の部屋へ入り、机上のリュックを開ける。
だが、そこで事件は起きた。
「…………あれ…?無い……。」
なんと、きちんとリュックサックに入れて持ち帰っていた筈の通知表が見当たらないのだ。
あれを失くすとどうなるだろう…。
……去年の冬休み明け、クラスのだらしない奴は、通知表を紛失して先生に怒鳴られていた。それだけでなく…反省文も書かされた上に、親を交えた緊急三者面談も行われていた……。あの時は、俺には関係無いことだし、ざまあみろとしか思っていなかったが………
「やばい…。」
まさか、自分が当事者になるとは思っていなかったので、俺はめちゃくちゃ焦っていた。
どうしよう……。母さんと父さんには極力、迷惑をかけないように、規律や勉学はしっかり優秀でいようと思っていたのに………。迷惑をかけるどころか、失望される…。
それに…………姉さんにも……。
怖くなった俺は、急いで部屋中を探した。ベッドやタンスなどの家具を動かしたり、引き出しの中のものを引っ張り出したりと、目に入った場所は全て探した。
だけど…………通知表が見つかることは無かった…。
「…母さん…ごめん……通知箋失くさったかも…。」
絶対に怒られるとビクビクしながらも、俺はキッチンに立つ母さんへ正直に伝えた。
だけど、母さんは怒ったりしなかった。
「えー?なまら珍しいねぇ。もう一回 探してみれ?」
不思議そうにしながらも、いつものように呑気に返すだけだった。だから、俺も「大丈夫なんだ」と思えた。ドキドキハラハラしていた心臓は、母さんのいつも通りの顔を見ることで、直ぐに治まった。
「うーん…。俺、リュックから出してない筈なんだけど…。」
そう言って、もう一度部屋を探してみたものの、安心したところで通知表が見つかる筈も無かった。
けれど、とても大事な「通知表」を失くしたのにも関わらず、やはり母さんも父さんも全く怒らなかった。もしかしたら、俺が決まったところにしか物を置かず、失くすことは少なかったからかもしれない。
父さんに関しては、仕事で疲れている筈なのに、姉さんの誕生日パーティ後、一緒に探してくれた。
「学校に忘れさったってことは無いのか?」
「いや…確かにリュックに入れた記憶があるさ…。」
「うーん……あ、間違えてゴミ箱投げたとかでないんかい。」
「そったらこと無いと思うけど…。」
「ま、なんとかなるさ。律月は心配しなくていい。普段の行いがいいから、このまま見つからんでも父さんは怒らない。母さんもな。だから、安心すれ。」
そう笑って、父さんは大きな手で俺の頭を撫でてくれた。……一応、思春期・ちょっとした反抗期真っ只中だったため、久しぶりの父さんからの「いい子いい子」はめちゃくちゃ恥ずかしかったが……それでも、嬉しかった。
だから、その日は安心して、いつも通り何も気にすることなく、静かに眠りにつくことが出来た。
だが…………その翌朝。
「律月ぃ!!どういうつもりだいこれは!!!」
俺は、聞いたこともない母さんの怒鳴り声で目を覚ました。
いつも優しかった母さんが、物凄い形相で俺を叩き起しに来たのだ。
そんな怒号と同時に、何かが布団の上に投げつけられた。母さんが今まで怒鳴ることなんて一度もなかったため、目は直ぐに覚めた。
「なっ…なした…?!なんだば急に…!」
「『なんだば』じゃない!!見れこれをォ!!!」
警鐘を鳴らすように心臓がバクバクと騒ぐ。慌てて飛び起きてもう一度投げられた物を拾うと……
「え……」
それは……俺が探していた「通知表」だった。
だけど…
「なんだべこれ……。」
その通知表には、刃物で切られたような傷が幾つもあった。
しかも、それだけでは無い。中を捲ると紙がビリビリに破けていたり、ファイルのビニールが切り刻まれていたり、文字が全てぐちゃぐちゃに黒く塗り潰されたりと……酷い有様だった。
「とぼけるな!!こったら みったくないことして…!!」
「いっ…いや!俺じゃないさぁ!」
「したっけなんさ!!唯織がしたって言うんかい?!!」
そう声高に放った母さんの言葉で、漸く俺は気がついた。
……姉さんがやったんだと…。
最後に学校で見た時、こんなふうにはなっていなかった。そして…俺が姉さんのケーキを取りに行っている時、姉さんは家に居た…。
姉さんだ……姉さんが…俺の通知表を盗んでこんなことを……。
絶望して、何も言えなくなっていると…父さんと姉さんが部屋に入ってきた。…母さんの怒号で起きてしまったようだ。
「なした香織?」
「…律月が……こったらことを…。律月の部屋のゴミ箱に投げてあったさ…。」
母さんも随分とショックを受けたように…父さんへボロボロになった通知表を見せた。
……それを見た父さんは力が抜けたように「わや…」とだけ、呟いた。
「……律月…なしてこったらこと…。」
俺は、絶望したような顔の父さんと母さんに、何も言えなかった。姉さんがやったんだと言っても信じて貰える筈が無いから。
俺と姉さんの二人きりのとき以外は――姉さんは心優しく弟想いの姉を演じていた。
だから……家族からも、友達からも、学校の先生からも、近所の人たちからも……姉さんには「弟想いの優しい子」というレッテルが貼られていて悪いことをする訳が無いし、俺には「性格の悪い子」というレッテルが貼られていて、悪いことをしかねないと思われていた。
チラッと一瞬、目をやると……姉さんは悲しそうにぽつりと呟いた。
「律月……そんな子だとは思わなかった…。」
そのときの姉さんの顔は、今でも忘れられない。
まさに、純真な天使のフリをした「悪魔」そのものだった。
それからこっぴどく説教を受けた後、俺は一人、部屋で泣いた。中学生にもなって、しゃくり上げながら布団に包まり、一生懸命泣いていた。
母さんだけでなく、父さんまで真っ先に俺を疑ったことが悲しくて仕方がなかった。
誰も信じてくれない。
誰も……信じられない…。
暫く──本当に長い間泣いて、部屋の外で足音がした。泣いていることなんか家族にも知られたくなかったので、俺は慌てて涙を腕で拭い、身体を隠すように蹲って布団をぎゅうっと握りしめる。すると、カチャ…という音と同時に誰かが入ってきた。
母さんか父さんかと思ったけど……違かった。
「私がやったって言わなくていいの?」
その無機質な声にビクッと肩を跳ね上げさせて、布団から顔を出すと……姉さんは冷たく無慈悲な瞳で俺を見つめている。
「ふっ、泣いてんの?みっともない。」
そんな姉さんの突き放すような言葉に、もう一度涙が溢れてくる。拭っても拭っても涙は止まらず、姉さんが俺を見つめる目はどんどん冷たくなっていくばかりだった。
「っ……なしてっ………なしてぇっ……?」
漸く出た言葉に、姉さんはこちらへ近づき、俺を見下ろす。
そして、憎しみの込もった声で言った。
「そんな被害者みたいな顔しないでよ、気持ち悪い。全部、あんたの所為よ。あんたが生まれてこなければ、こんなことせずに済んだんだから。」
涙で滲んだ視界でも姉さんの目は怖くて、早く逸らしてしまいたかった。
けれど……何故か逸らすことが出来なかった。身体は震えて鳥肌まで立っているというのに。
「言い返さないの?他の人には舐め腐った態度とる癖にねぇ。そういえばぁ……母さんも父さんも、あんたのこと信じてないみたいだねw もしかして、それで泣いてる?分かり切ってたことじゃないw 今更泣いたってw あ、馬鹿だから気づいてなかったかぁ。母さんも父さんも、私の方が大切なんだよ。あんたみたいなクズを思ってくれる人なんて存在しない。これまでも、この先も。」
グサリグサリと、姉さんの一言一言が胸に突き刺さる。
固まる前のコンクリートみたいにドロドロとした心に、幾つものガラスの欠片が刺さって抜けなかった。
姉さんは、俺を充分に傷つけると、相変わらず無機質な表情で部屋を去っていった。
それからも俺は情けなく泣いた。姉さんに言われた言葉がぐるぐると頭を駆け巡って、消えてくれなかった。
刺さったガラスの破片は、時間が経てば経つ程 沈んで、傷口を広げていった。
胸の痛みは消えるどころか、物凄いスピードで増していく。
朝食も昼食も取らず、俺はずっとずっと泣いていた。
泣きすぎて喉が痛い。
苦しくて……息ができない…。
暫くして、また足音が聞こえた。
けれど、もう隠れる意味なんか無い。姉さんに、見られてしまったのだから。
部屋に誰かが入ってきた音も気にせずに、泣き続けていると……
――ぎしっ…
誰かが、俺の寝転んでいるベッドに腰をかけた。そこで漸く、部屋に入ってきたのは姉さんでは無いと気がつく。
「……怒りすぎさったね…。ごめんね律月…。」
──母さんだ。
それだけで嬉しくなって、俺は思春期・反抗期真っ只中なのにも関わらず、母さんに思い切り抱きついた。
母さんは「ごめんね、ごめんね」と言って背中をさすってくれる。そして、優しく言った。
「…母さんが、ごっちゃりプレッシャーかけさってたんだね……。成績下がらさったから通知箋見せたくなかったんだね。成績なんて下がっても大丈夫さぁ、律月がどんなに成績下がったとしても、ヤンキーになったとしても、母さんは変わらず律月を大好きだから。それは、父さんも姉さんも一緒だから、安心すれ。」
そんな母さんの優しい言葉に、俺はまた何も言うことが出来なかった。
……だって、今学期の成績は上がっていたから。それも、学年四位から一位へと大幅に。
その日、俺は二つ学んだ。
一つは、姉さんがもう二度と優しかった頃の姉さんに戻ることは絶対に無いということ。
そしてもう一つは、どれだけ信頼関係を築いていたとしても、信じていていたとしても、相手は無意識のうちに自分を裏切ることがあるということを。
だが、笹野だけは、やはり俺を最後まで信じ抜いてくれるような気がする。中学生の頃に学んだ「教訓」には、例外もあるということを笹野は教えてくれた。
「えっ、お姉さん警察官なんですか?!」
いつの間にか、話題は変わっていたようだ。驚く笹野に、母さんは自慢げに頷く。
「そうさぁ〜、大学を卒業したあと試験に一発合格したんだべぇ。そんで、警察学校を優秀な成績で卒業してねぇ〜♪」
「それは素晴らしいですね!」
「んだべぇ♪ しかも去年はねぇ、たった一人でバスジャック犯を説得させて、十五人の人質を助けたって北海道で表彰されたんさぁ〜♪」
「すっっg――」
「えっ、マジで?!」
瞳をキラキラと輝かせた笹野が褒める前に、つい大声が出た。今度は、そんな俺に驚いた母さんが尋ねる。
「あれ、律月に連絡行ってないんかい?」
「あ…あぁ、来てないな。そんなこと、姉さん一言も言ってなかった。」
俺は姉さんに見放されてるなんて、母さんには知られたくなかった。……というか、本当は誰にも知られたくなかったのに………笹野がああやって優しく笑うから…。いや……いいんだ。話を聞いて貰って、大分 楽になったんだから。
「唯織のことだから、恥ずかしいんでない?自分の功績を律月に伝えるんは。」
「そうかもな。」
なんて、姉さんと定期的に連絡をとっているかのように俺は答える。本当は、実家を出てから一度も連絡をしていないというのに。
「そういや、父さんは元気?」
「あぁ元気だべぇ。こないだ、直樹くんが鯛を釣ってきてねぇ。それが『イシガキダイ』って魚で、食中毒になりやすい……なんて言ったかなぁ………あぁ、そう!毒素さ!毒素を持った魚で、知らずに私がた食べちゃってね、家族みんな食中毒になって大変だったさ。」
「は?!食中毒?!気をつけろよ…。普通、まて調べてから食べるだろ…。」
まあ……元気ならいいけど…。なんて、胸を撫で下ろしていると……
「あのう…『直樹くん』というのは、ご近所の方ですか?」
笹野が、きょとん顔で首を傾げた。すると、母さんは恥ずかしくなったのか、顔を赤くして頭の後ろを掻いた。
「…『直樹くん』は……父さんのことさ……。五十の婆さんが旦那のことを名前で……しかも『くん』付けで呼ぶなんて恥ずかしいよねぇ…。ごめんねぇ…。」
「あっ!お父様のことでしたか!」
「恥ずかしい自覚はあったのかよ。」
「あはは…」と母さんは未だ頭の後ろを搔いている。そんな母さんに、笹野は自信満々に笑って言った。
「恥ずかしくなんかありません!いつまでもそうやって仲がいいのは、とっても素敵なことです。」
笹野のニコッと無垢な笑顔を見て、母さんは少し驚いたように目を丸くした。けれど、嬉しかったようだ。直ぐに笑顔へと戻っていた。
「いいですねぇ〜♡ 夫婦で名前を呼び合うなんて♡」
羨ましそうに笹野はそう笑う。
……笹野もそういうのに憧れとかあるんだな…。
なんて、考えていると……
「そういえば、二人は名前で呼び合ったりしないんかい?」
………母さんが余計なことを訊いてきた…。
「しっ…しませんよ!だって、ただの『友達』ですから!」
「そういうことかねぇ…。ん?でも……『友達』って普通、下の名前で呼び合うもんでないんかい?」
「偏見だr――」
「はっ…!確かに私……碓氷さん以外の友達はみんな下の名前で呼んでいます…!!」
「んだべぇ?苗字で呼び合いっこしてたら、距離 感じるんでない?」
「いや…別に感じ――」
「感じます…!!」
「はあ?!」
「私と碓氷さんの友情は、そんな呼び方如きには影響されません!」とか言いそうなのに…!
「碓氷さん…!どうぞこれから私のことは、下の名前で呼んでください!」
全く穢れの無い綺麗な瞳で、笹野はそう言った。そして、俺の答えを聞く前に……
「今……呼んでみてください…。」
少しだけ緊張したような顔で、俺の顔をじっと見つめてきた。「はっ?呼ばねぇよ…。」と答えても、母さんが「そったらこと言わんで、呼んであげれぇ。」と何故か怒る。
「べっ…別に苗字でいいだろ…。今までそれでやってきたんだから…。」
「ダメに決まってるしょやぁ。」
「ってか…母さん関係無いだろ。」
そんな、下の名前で呼べる訳無い……。しかも……さっき好きだって気づいたばかりなんだから…………きっと……もし呼べても、心臓がもたない……。
そう思い、俺は話を終わらせようと味噌汁を啜り、急いで母さんに尋ねた。「そういえば母さん、前に送った肉 美味かった?」と。
なのに………
「……呼んでくれないんですか…?」
笹野が宝石のような瞳を震わせて、そう上目遣いをしてきた。その顔にどきゅんと胸を撃たれたような感覚に陥る。息の仕方すら忘れ、俺はごくんと生唾を呑み込んだ。
そして…………
「………あーもう分かったよ…!呼んでやる!その代わりっ、一回しか呼ばないからな…!」
笹野の上目遣いに負け、ほぼヤケクソで笹野の願い事を聞いてやることにした。
「ったく………別に苗字も名前も変わんねぇだろ…。」
なんて強がって、笹野をチラッと見る。
めちゃくちゃ瞳をキラキラと輝かせて、期待の眼差しで俺を見つめている…。
……………早く終わらせよう…。たった三文字口にすれば、笹野は満足するんだから……。
「………あ………………」
…くそ…………声が震える……。なんでこんなに恥ずかしいんだよ…。名前呼ぶだけだろ…!
「………………あ…」
頑張って名前を呼ぼうとしているのに、笹野はきゅるきゅるな瞳で俺を見つめてくる…。心臓が鷲掴みされてるみたいに痛い……。顔あっつ………。
というか!なんでこんなに可愛いんだ…!目キラキラさせんな……!!!
よし……一回深呼吸しよう…。母親も見てるんだから、これ以上躊躇っていたらバレる……。
俺は一旦心を落ち着かせようと、ゆっくりと深呼吸をした。
…………よし、いける…!
「あk………………あー………下のなまえ忘れた……。」
呼べる訳ねぇ…!!!
「はあ?!!半年以上仲良くやってきたのに名前覚えてないって言うんですか?!!ふざけないでください!もう今日から碓氷さんのことは『頭が碓氷さん』と呼びますからね!!」
期待を裏切られ、笹野は激怒した。ぷんすか怒って、席まで立ち上がってしまっている。更に、立ち上がると同時に台パンまでした。
良かった……恥ずかしくて呼べなかったことは、バレてないみたいだ…。
俺は安堵で胸を撫で下ろす。そして、全力で煽ってやった。
「フッ、ここにも『碓氷』は居るけど、『お母様』の前でそんな呼び方をしていいのか?」
すると、笹野は「はっ!」と目を丸くした。その直後、我に返ったように台パンした手に気がついて、素早く引っ込める。
「ごっ…ごごごめんなさいお母様っ…!!」
「ぷっww」
焦ってんの可愛いwww
「なんもなんも。こったらチキンのことは一生『頭が碓氷さん』って呼んだらいいさぁ。こんたくらん息子が。」
「はぁっ…?!チキンじゃねぇし!ほんとに名前忘れたんだよ!」
「こら、律月!女の子悲しませてそったら楽しいかい!」
「なんで母さんガチギレなの?!」
「明香里ちゃんは、律月が名前呼んでくれるのを待っとったんさ!」
「おっ…お母様もうやめてください…!べべべ別に私もっ!待ってた訳ではございませんから!!」
「ほら、待ってないってよ。」
「碓氷さんはちょっとは反省したらどうです?!」
賑やかな晩御飯を終えると、いつもは晩飯後の酒(笹野のみ)を飲み始めるが、今日は先に風呂に入ることにした。笹野がまた酔っ払ったら困るから。
笹野が風呂に入っているとき、母さんは嬉しそうに言った。
「あの子はホントにいい子だねぇ。」
母さんのそんな言葉に、俺も嬉しくなってつい笑顔を零す。
「うん。あいつは優しいし強いし、かっこいい。」
あいつの生き方や考え方も、好きなところの一つだ。
俺は、笹野が褒められることがとてつもなく嬉しかった。笹野に「母さんがさっき褒めてたぞ」と伝えたくなる。
そういえば、さっきのぷんすか怒ってた顔も、めちゃくちゃ可愛かったな。
先程の笹野の一挙手一投足を思い出して、思わずにやけてしまう口元を押さえる。そうしていると……母さんが、突然言った。
「あんないい子なんだから、やっとせんと、他の人に取られさるべ。」
笹野に恋をしてしまっていることがバレているのだ。顔が熱くなる。
けれど……
「たっ…たくらんけ…!そんなんじゃ無い…。」
恥ずかしくて認めることが出来なかった。
「ふふっ…告白はぁ?しないんかい?」
「………しないわ。…大体……俺はあいつにとったらおっさんなんだし……。」
「んなことないしょ~。あの子は何歳だい?」
「……二十二…。」
「六つだけでないの。」
「…………あいつが俺のこと好きになる筈無い…。」
「なぁにを言ってるさ、なまらあんたに懐いてるでない。」
「……笹野は誰にも懐く奴なんだよ…。」
姉さんだって言ってたじゃないか……。俺は一生、誰かに思われるなんて無いんだ…。笹野は確かに俺を思ってくれているかもしれないけど……それは、「友情」でしか無い。きっとこれからも、そのかたちが変わることは無い。
時々、顔を赤らめたりはするけど…あいつは何を考えてるか分からないからな……。好きでもないのに「恋人になりませんか?」とか言ってくるような奴だし…。大体、初めて好きになった人が、自分のことを本当の意味で好きになってくれました、だなんて都合が良過ぎる。
「明香里ちゃんの好きなタイプは?」
「……知らん。」
「すったら、訊かんとぉ。」
「…………すっ…好きだなんて一言も言ってない…。」
「なんさ、今『好き』って認めたようなもんでないの。逆に、ここまで話しといて隠せてると思ってたのかい?」
「………。」
そうやって何も言えずに黙り込む俺を見て、母さんはとても嬉しそうだった。息子に漸く「春」が来て、思わず笑顔を零さずにはいられないのだろう。
「…………笹野には言わないで。」
「わかってるさぁ。母さん応援しとるからね。」
「……別に行動起こす気も無いけど…。」
母さんは俯く俺に、「告白すれ」とも言わずにニコニコとただ笑顔で見つめるだけだった。
それから約十五分後、ドライヤーを抱えた笹野が風呂から出てきた。
「お先でーす!ふぅ、スッキリしました。」
火照った頬と、まだ濡れた髪にドキッとする。
「おけぇり明香里ちゃん♡」
「ただいまですお母様!」
……相変わらず、可愛い顔で笑うな…。
「したっけ、母さん風呂入ってくるからね。」
「おう、行ってら…。」
そう言って俺はたった今、本棚から選んだ本を開く。笹野は俺の正面に座って、近くのコンセントにドライヤーのプラグを挿し込んだ。
「ここで髪を乾かしてもよろしいでしょうか?」
「あ…あぁ、どーぞ。」
俺の返答を聞いて、ニコッと笑いながら俺の正面へ座る。そして、言った。
「お母様もとってもいい方ですね♪」
顔を上げると、笹野もとても嬉しそうに口角を上げていた。母親との距離感がある笹野にとって、うちの母さんは母親代わりになっているのだろうか。どっちにしろ、笹野が幸せそうに笑うから俺も嬉しくなった。それに、大切な人に身内を褒められたのも嬉しい。
「ふっ…そうだな。」
「流石、『碓氷さんのお母様』です♪」
無邪気に犬歯を見せて笑い、ドライヤーを始める。
俺は本には視線を戻さずに、髪を乾かす笹野を見ていた。正面からは俺のシャンプーの匂いがする。他には無い特別な色をした綺麗な髪が、ぶわぁぁっとドライヤーの風に靡いている。
そんな笹野はどこを向いているかと言うと……
――…こくっ……
眠たそうに小さな頭をこっくり、こっくりと揺らしていた。先程までは楽しそうに話していたのに。今日は色々なことがあったので、疲れてしまったのだろう。
気がついたように、ぱちっと目を開け頭を上げた笹野は、半目でまた頭を揺らす。
「ふっw…」
白目剥いてるしw
笑顔を零しながら、俺は笹野の頭に手を伸ばす。そして、こつんと軽く叩いてみた。
「おい、寝るなw」
「ん…」と呟きながらも笹野はもう一度、薄らと目を開けた。
そして……
「はっ…!すみません…!」
しょぼしょぼとした目で笹野は謝る。そして、今度は欠伸をして目を擦る。そんな無防備な姿に思わず見惚れていると……
「俺が乾かしてやろうか?」
無意識に俺はそんな言葉を放っていた。
慌てて笑顔を引っ込めるが、もう手遅れだった。笹野は口をあわあわと動かして、俺を見つめていた。
ドライヤーの音だけが、静寂に包まれた部屋に響く。
問題発言を誤魔化そうと俺は「ゔっゔん」と咳払いをした。
「じょ…冗談だ…。」
や、やばい……俺はなんてことを…。キモっ…!!!これじゃあ………ただの笹野の髪を触りたい変態野郎じゃねぇか…!!!
今すぐにでも逃げ出したいと思いながらも、そうはいかないので本に手を伸ばす。
だが……
「ぜひお願いしますっ…!」
クソデカボイスで笹野がそんなことを言った。
「はっ?」と唖然として笹野の揺らぐ瞳を見つめる。
頬が赤いのは、風呂上がりだからだろう。
「いっ…い、いや冗談だって…――」
「いえっ!お願いします…!」
「いえっ!」って何……?!!何が「いえ」なんだ?!!何を否定してるんだよ?!!!
「わっ…わわわ私!……眠くって…余計に時間がかかってしまいます!ということで碓氷さんっ!どうぞ私の髪をお願いします…!!」
「いやいやいや!自分で乾かせよ…!」
「『乾かしてやろうか』と仰ったのは碓氷さんですっ!」
「だから冗談だって……」
「私は今っ、お母さんのことで愛に飢えてます…!……うs……………人に甘えたいんです…!」
あぁ……くそ………………。
俺は脚を広げてソファに座り、笹野はその足元に座った。何も言わずに、何も考えずにドライヤーの電源を入れる。すると、ドライヤーの風にのって笹野の髪の匂いが俺の鼻を擽った。
やべぇ…………くっっっそドキドキする……。
とりあえず無心を意識して、ただ笹野の濡れた髪に風を当てていると……
「手ぐしでほぐしてください。髪質が悪くなってしまいます。」
笹野がそんなわがままを言い始めた…。
俺は笹野に言われた通り……仕方無く、静かに濡れた髪に手を伸ばした。そして、柔らかい髪に指を通しながら乾かす。指を動かす度に、ふわりふわりと優しい匂いが香った。
「その位置、やりづらくありませんか?背中が痛くなりそうです。」
今度は俺の位置が気になるらしい。笹野はくるりとこちらを見上げて尋ねた。
……この位置じゃないと近すぎてやってられるかよ…。二人とも床に座って髪を乾かしてやるだなんて………カップルの距離感じゃんか…。
「…前向け。」
俺の指示で笹野は姿勢を戻す。そして…呟いた。――「呟く」と言っても、ドライヤーの音で掻き消されないような声量だ。
「さっきは『人に甘えたい』と言いましたが、やっぱり甘えるなら碓氷さんがいいです。」
よくこんな恥ずかしいことをサラリと……。
笹野の思わせぶりな発言に、心臓がドッドッドッと物凄い速さで脈打つ。いつも通りの笹野なのに、今日は妙に意識してしまう。
「………そ、そうかよ…。」
「はい♪ 碓氷さんに頭を撫でられてるみたいで、すっごく落ち着きます。」
そう笑う笹野の声はいつもより声高だ。どうやら本当に嬉しいみたいで、俺はどう返せばいいのか分からなくなる。
…………なんか、負けたみたいで腹が立つ…。今日は笹野の言いなりになってばかりな気がするし……。
敗北感を感じながらも、綺麗な髪が傷つかないようにゆっくりと指を通す。そうしていると、笹野の耳裏に小さなホクロを見つけた。
「…こんなとこにホクロあるんだな…。」
つい驚いて呟き、笹野の耳裏を無意識に親指で撫でる。それが擽ったかったのか、笹野は聞いたことも無い力の抜けた変な声で「ひゃぁっ…?!」と身体を跳ね上げさせた。
………勘弁してくれ……。
「そっ…そんなところにホクロがあったんですねっ!自分でも知りませんでした…!へへっ…」
その場を取り繕うように笹野は、直ぐに照れ笑いをする。
「わ、悪かった…。」
笹野の声と恥ずかしそうな顔にドキドキして、勝手に触ったことを謝る。そして、また俺は黙って笹野の髪に指を通した。
……少し、乾いてきてしまったな…。
本当に綺麗だな……。サラサラで………ずっと触れていたくなる…。
なんて、少し脳が変態化していく頭に飛び込んできたのは――
「律月さん。」
そう俺を呼ぶ声。
ドキンっ!と大きく胸が鳴った。……初めて、笹野に下の名前で呼ばれたからだ。
ただ呼び方が違うだけなのに、鈴のような可愛らしい声に頭が沸騰して何も考えられなくなる。
「……律月さん、って…呼んじゃダメですか…?」
どんな顔をしているか見たいのに、笹野は真っ直ぐ前を向いて尋ねてきているため、表情が読み取れない。けれど……俺の名前を呼ぶ声は、少しだけ震えているような気がした…。
顔が熱い…。息ってどうやって吸うんだっけ……。
まずい………何か答えなければ、笹野にバレる……。
「…………ダメだ…。」
焦りながら漸く出たのは、絞り出したような声での情けない答え…。
下の名前で呼ばれて、本当は凄く嬉しかったのに 素直になることが出来なかった……。
そんな男として情けない答えを聞いても、笹野は怒ったりはしなかった。「そう…ですよね…。」と少し悲しそうにするだけ。
もう髪の毛は七割も乾いてしまっている。名残惜しくも、俺は熱風から温風に切り替えた。
すると……
ポスン…と笹野は俺の太腿に顔を預けた。理解が追いつかなくて、俺は固まる。
「おっ…おい、寝るな…。」
「寝てなんかいません。」
何故か少し拗ねているように、笹野はそう返した。太腿に感じる笹野のぬくもりに、重さに――壊れてしまうんじゃないかと思う程、心臓が暴れ回った。そのうるさい心臓は、握り潰されているみたいに痛くて、苦しい。
「………髪……乾かせないんだけど…。」
「…『甘えていい』って仰ったのは碓氷さんです。」
うっ………確かに……。
「……今日はちょっぴりセンチメンタルなんです…。『退け』だなんて言わないでくださいね……。」
ドライヤーの音に掻き消されてしまいそうな震えた声が、俺の耳に届く。柔らかくて、少し弱そうな声が愛おしくて仕方が無かった。
…………だめだ…………可愛すぎる……。
……頭を撫でたくなってしまう………………。
こんな弱々しく甘えられたら…………心臓が持たないに決まってるだろ…。嬉しいに決まってるだろ……。
でも………俺から触れちゃ駄目だ……。
…………いや…笹野が「センチメンタル」なら……慰めてやるのが普通なのでは…?
そうやって俺は、自分の都合のいいように考えて、笹野の沈んだ気持ちを利用した。頭に手を載せてしまったのだ。
だけど、小さな頭を撫でるだけでは足りなくなってしまう…。
…………抱きしめたい……
――いやいやいや…!流石に駄目だろ…!!!
流石に自制心が働いたが、それでも笹野を愛おしく思う気持ちは増していくばかり。
……俺も……笹野の名前を呼びたい…。
ふと思って、ドライヤーの音に掻き消されるよう、わざと小さな声で呟いてみた。
「……………あ……かり………。」
自分でも聞こえない程の小さな声に、ドキドキとしてしまう。
……俺の声で笹野の名前を呼ぶと、変な感じだな………。…も……もし……けっ…結婚とかしたら………………こうやって呼べるのだろうか………。って…!!!まずは交際からだろ…!!!そもそも笹野との関係は壊したくないから、告白はしないと決めていたじゃないか…!
聞こえないと思って、そんなふうに心の中で騒いでいたが……
「……へっ?!!なっ、ななななんでしょう…!」
なんと笹野は地獄耳だった。名前を呼ばれてこちらを振り返り、俺を見上げた。……顔が耳まで真っ赤だ…。明らかに「風呂上がり」のさっきよりも……。
「…あっ………い、いやなんでも無い…!…おおおお前が…!さっき呼んで欲しそうにしてたから呼んでやっただけだ…!!」
「あーっ…!な、なるほどぉ…!そうなんですねっ…!!!ありがとうございますっ!!!」
……カッコ悪すぎ……俺………………。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
ようやく律月、自分の気持ちに気づきましたね(*ˊ˘ˋ*)
これから律月はどんな告白をするのか、そして明香里の答えは…?!
ぜひ、注目して読んでいただけたら嬉しいです!
※本作はフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。




