第11話:聖女の帰還せず
あの日以来、ハンスが毎日のようにカニ券を印刷してきて 、累計一万枚ものスタンプを押し切った「地獄の残業」は 、これ以上ない最高の結果を僕にもたらしてくれた。
外に出てみれば、季節は春を過ぎ、初夏の気配を感じる爽やかな風がアルカディアの街を吹き抜けている 。
***
リーゼとシルヴィアに「こんな天気のいい日に部屋にいてはもったいない」と半ば強引に連れ出され 、王都の市場を散策することにした。
お店の中を覗けば、人々はもう天秤を取り出して金貨を疑うような真似はしない 。
「はいよ、カニ一枚ね!」「毎度あり!」
そんな軽快なやり取りとともに、僕が魂を削って押したあの紙切れが、信頼の証として街中を舞っている 。
重苦しい金貨の鑑定から解放された人々は誰もが足取り軽く 、街全体がキラキラとした活気に満ちあふれていた。
「……平和だねぇ、シルヴィア」 「そうね。世界がこんなに明るく見えるなんて。あんなに必死にスタンプを押した甲斐があったわね、リオン」
鑑定の待ち時間がなくなったことで店先には行列もなく 、誰もがゆったりとした幸福感に包まれている。まさに、僕が夢見ていた「平和」がそこにはあった。
そんな爽快な空気の中、リーゼが足を止め、路地沿いの小さなアクセサリーショップを指差した 。
「あら、お兄様、シルヴィアお姉様! あの銀細工の髪飾り、とっても可愛いですわ! シルヴィアお姉様に絶対似合いますわよ」
「えっ、あ、そうかしら……?」
シルヴィアが少し頬を染めて、店先に並べられた繊細な細工を覗き込む 。
すると、リーゼは僕の横に回り込んで、いたずらっぽく僕の脇を指で突いてきた 。
「お兄様もそう思いますでしょ? ほら、ほら、ちゃんと言ってくださいな」
「あ、ああ。……うん、いいと思うよ。すごく」
僕が照れ隠しにそう答えると、リーゼは満足そうにニコリと笑い、そのまま僕たちの背中を押すように言った 。
「お兄様、せっかくですから、お二人でゆっくり色々と見て回ってくださいな 。リーゼはあのおば様の店でケーキを買ってきますわ! カニさんの券なら、すぐ買えますもの」
「えっ、でも一人で大丈夫かい?」
「もう、お兄様。心配しすぎですわ。あ、リーゼは後で一人で帰りますから、お二人は気にせずデートを楽しんでらして!」
リーゼは僕が渡したカニ券をポシェットに詰めると 、パタパタと軽快な足取りで人混みの中へと駆けていった。
気を利かせた妹の後ろ姿を見送りながら、シルヴィアが少し申し訳なさそうに呟く 。
「なんだか、リーゼ様に気を使わせちゃったみたいね……」
「はは……そうだね。最近、だいぶ僕がリーゼを独り占めしてたから、その反動なのかな 。せっかくだし、今日は甘えて二人で楽しもうか」
「……ええ、そうね」
僕は「成長したなぁ、いい子だなぁ」なんて、ただただ呑気に、自分の幸運を噛みしめていた 。
***
シルヴィアと少し照れくさい空気の中で髪飾りを選び、さらにいくつかの露店を冷やかして、僕はこれ以上ないほどの充実感とともに城へと戻った 。
「ハンス、ただいま。もうすぐリーゼがケーキを買って戻ってくるはずだから、少ししたらお茶の用意をお願いね 。今日は最高の茶葉を頼むよ。僕たちは先に戻って、ゆっくり彼女を待つことにするから」
「承知いたしました。……おや、シルヴィア様。その髪飾りは行きにはしておりませんでしたね。あぁ、そういうことですか。大変お似合いですよ。ね、リオン様」
ハンスの言葉に、シルヴィアは嬉しそうに髪飾りに手を添えた 。
「ふふ、そうでしょう? これ、リオンが選んでくれたのよ」
「まあ、シルヴィア様! 本当によくお似合いですわ!」 「お顔の色がパッと明るくなりますわね」
控えていたシルヴィアの侍女たちも口々に称賛の声を上げ 、華やいだ雰囲気のまま、彼女たちは着替えのために部屋の奥へと消えていった 。
そして次の鐘が鳴る頃には、リーゼも「お兄様、買えましたわ!」と満面の笑みで部屋に飛び込んでくるはずだ 。
窓から差し込む美しい夕陽を眺めながら、穏やかな待ち時間を楽しんでいた 。
***
……けれど。
陽が完全に沈み、庭園に青白い月影が落ちても、リーゼの姿はどこにもなかった 。
「……遅いね。もう戻ってきてもいい時間なのに」
僕の呟きに、返ってくる言葉はなかった 。
まだ、大丈夫だ。どこかで綺麗な花でも見つけたのかもしれない。あるいは、街の人に捕まってお喋りでもしているのか 。
そう自分に言い聞かせながら、僕は暗くなった窓の外をじっと見つめ続けた 。
だが、街のあかりが一つ、また一つと灯り、完全に夜の帳が降りても、城門をくぐる小さな影は見当たらない 。
「リオン……リーゼ様は?」
シルヴィアが僕に問いかけるが、僕は首を横に振ることしかできなかった 。
代わりに僕の視界に入ってきたのは、用意されたまま、すっかり冷め切ってしまったティーカップの列 。
心臓の鼓動が、不自然なほど大きく跳ねる 。
さっきまで「平和だ」と確信していた街の風景が 、急に冷酷な罠のように思えてくる 。
シルヴィアと顔を合わせ、頷く 。
いてもたってもいられなくなり、シルヴィアと僕はリーゼの行きそうな部屋という部屋を調べて走り回った 。
もしかしたら、もう帰ってきているが疲れてしまって、どこかで寝ているのかもしれない 。
もしかしたら、街で嫌なことがあって一人で悲しんでいるのかもしれない 。
もしかしたら……
リーゼの名前を呼びながら探し回る僕をみて、城中がにわかに騒がしくなる 。
ハンスも騎士団に話をつけてくれたのだろう。騎士たちが慌ただしく出動していく蹄の音が聞こえる 。誰かが何かを叫び、走り回っている 。
けれど、僕の耳には何も入ってこなかった。
ただ、「どうして一人で行かせたんだ」という後悔だけが、暗い泥のように脳内を埋め尽くしていく 。
夜の帳が、完全にアルカディアを包み込んだ 。
街の灯りは相変わらず美しく、本当なら今頃リーゼとシルヴィアとで、今日あった楽しいことを語らうような、平和な夕食を楽しんでいたはずだったのに 。
それなのに。
***
その日、リーゼが城に戻ることはなかった 。




