第10話:ルネ回:『両替商と、その給紙機』
アルカディア王宮の執務室 。
その重厚なカーテンの陰に、獲物を狙う猛禽類のごとき眼光が光っていた 。
極彩色のベレー帽を揺らし、炭筆を狂ったような速度で走らせているのは、宮廷絵師ルネである 。
彼女の眼前に広がる光景は、端から見れば「極限状態の共同作業」そのものだった 。
天秤を操り、質の悪い金貨を仕分ける僕 。
そのすぐ隣で、僕の動きに合わせて流れるように『カニ券』を捌くシルヴィア 。
だが、ルネの脳内フィルターを通せば、それは全く別の意味を帯びる 。
「……これざんす。これこそが、わたくしが求めていた『究極の信頼関係』ざんす……!」
ルネの瞳には、二人の肩が触れんばかりの距離感、そして無言のうちに通じ合う呼吸が、神聖なる絆として映し出されていた 。
◇
数日後 。
ようやく五千枚の押印を終え、右腕に湿布を貼りまくっていた僕の元に、ルネが鼻息荒く乗り込んできた 。
「殿下! 見ていただくざんす! あの日の執務室に満ちていた、真実の記録ざんすー!!」
ルネが勢いよくキャンバスを覆っていた布を剥ぎ取った 。
その瞬間、僕は飲んでいた紅茶を盛大に吹き出した 。
「ゲホッ、ゴホッ! ……いや、これ、クエンティン・マサイスの『両替商とその妻』じゃないか!?」
画面中央、天秤を手に持ち、質の悪い金貨を険しい顔で検分する僕 。
その天秤の上には、不純物が混ざり価値を失った「悪貨」が重々しく載っている 。
そしてその隣で、真新しいカニ券を持ったシルヴィアが描かれていた 。
彼女は僕の顔を覗き込むように、それでいて甲斐甲斐しくカニ券を手に持っている 。
二人の距離は、絵画的な美化によって実際よりもさらに詰められ、まるで長年連れ添った夫婦が二人三脚で家業に励んでいるような、妙に生々しい親密さが漂っていた 。
「……ねえ、ルネ。私たちの距離、近くない? 実際はもっとこう、殺伐とした残業風景だったわよね? ねぇ、リオンもそう思うでしょ」
シルヴィアが顔を真っ赤にして、震える指でキャンバスを指さした 。
すると、横で湿布を貼り替えていた僕は、遠い目をして呟いた 。
「いや……ごめん、シルヴィア。僕、その時の記憶がないんだ。というか、あの時はもう、完全に人の心を失ってたから……」
「…………」
僕のあまりにも虚無な告白に、シルヴィアも当時の「給紙機」としての日々を思い出したらしい 。
ふと見ると、彼女の瞳からもハイライトが消え、当時の僕と同じ「死んだ魚の目」に変わっていた 。
「……そうね。私もあの時、自分が人間だったか怪しいわ……」
二人の主役が同時に「無」に帰るなか、ルネだけは止まらない 。
「何を言っているざんす! このお二人の寄り添い方こそが、カニ券への『信用』に直結するざんす! ほら、この画面手前の凸面鏡を見てほしいざんす!」
そこには、さらに驚くべきディテールが描き込まれていた 。
「あ、この鏡の中に映ってるの、リーゼだ」
「そうざんす! 鏡の中には、お二人が作ったカニ券を手に、意気揚々とケーキを買いに向かうリーゼ様が映っているざんす 。これはお二人の努力が、一足先に未来の幸福へと繋がっている証ざんす!」
「ルネ。あなたこういうところの書き方は本当に細かくてうまいわね。それなのになんで私は……」
シルヴィアは、リーゼとの扱いの違いに一言言いたいようだったが、当のルネはそんなお小言はどこ吹く風。次の絵画のディテールに意識が向いていた。
さらに画面奥の開かれた窓には、ハンスが老いた商人に『カニ券』のいろはを説いている姿まで細かく描かれている 。
「完璧です、ルネ君 。この窓の外で、私が迷える羊(商人)に知恵を授けている姿 。そして室内で睦まじく……失礼、真摯に業務に励む殿下方の姿 。これぞ、アルカディアが目指すべき『安心と信頼』のブランドイメージです」
「この絵画から安心、信頼を感じ取られるとはさすがハンス様ざんす」
いつの間にか現れたハンスが眼鏡をキラーンと光らせ、深く頷いた 。
「(……いや、ハンス。君も絶対これ面白がってるよね?)」
僕の意図しないところで、死んだ目で行った流れ作業が「仲睦まじい夫婦が新しい時代を切り拓く神話」として芸術的に美化され、王宮の歴史に刻まれていく 。
「……ねえ、ルネ。せめて僕のこの『虚無を抱えた瞳』、もう少しだけ生気を与えてくれないかな。これじゃ苦労してる旦那さんそのものだよ」
「何を言っているざんす! その『絶望を知る瞳』こそが、旧時代の重みを計り抜き、新しき紙の軽やかさを選んだ男の真実の輝きざんすー!!」
僕は遠い目をしながら、幸せそうに絵を眺めるリーゼの隣で、ただただ溜息をつくしかなかった 。
アルカディアの新しい通貨は、僕たちの人間性と引き換えに、今日も元気に流通していく 。




