第9話:カニのスタンプと、死んだ目の機械
ハンスが五十枚の『カニ券』を商人たちに配ってから、数日が経過した 。
「偽造金貨の締め出し」という一心で始めたこの試みだったが、ハンスの有能すぎる手腕によって、僕は毎日五十枚ほど、せっせとカニの印章を押し続ける日々を送ることになったのだ 。
そしてその結果が、今、目の前にあるこの光景だった 。
「……ねぇハンス。五十枚ずつ作ってたはずなのに、なんでこんなに金貨があるの?」
執務室の机の上には、もはや革袋では収まりきらないほどの金貨が山積みになっていた 。すべて、街の商人たちが『カニ券』と引き換えに城へ置いていったものだ 。
「殿下、ご覧ください。この数枚、明らかに他の金貨に比べて質が落ちています。混ぜ物が多い、いわゆる低品位の金貨です」
ハンスが示した金貨は、確かに色がくすんでいて、重さもどこか頼りない 。
「おお、本当だ。カニ券のおかげで、こういう悪いお金が自然と城に集まってくるんだね。よかった、これで市場が少しは綺麗になるよ」
僕が呑気に喜んでいると、ハンスは不敵な笑みを漏らし、足元に置いてあった大きな麻袋をどさりと机の上に置いた 。
「よかったですね、殿下。……では、こちらが『本番』です。街の者たちが、殿下の『カニ券』を求めて行列を作っております。まずはこの五千枚に印章を」
「……五千枚!?」
絶望する僕の隣に、いつの間にか起きてきたシルヴィアが椅子を引いて座った 。
「リオン、大変ねぇ。頑張って」
にこやかに微笑んでいるけれど、その目は「一枚も逃さず押しなさいよ」と言っている 。
「ハンス! この金貨を、お兄様のカニさんの券に変えてくださいませんか!」
声の主は、妹のリーゼだった 。リーゼの手よりも少し大きいカニ型の貯金箱を持ってきて、
そのカニのハサミの部分をキュポっと外し、中から大切に取っておいた金貨を一枚取り出す。
「リーゼ様、こちらです」
ハンスから真新しいカニ券を一枚受け取ると、リーゼは僕の前に立って、力強く宣言した 。
「お兄様! リーゼ、この券を持って街に行ってきます! これで美味しいケーキを買ってきてきますので、元気を出してくださいませ!」
リーゼはそう言うと、小さな手でカニ券を握りしめ、パタパタと走り去っていった 。僕のために、僕が作った仕組みを使って、僕の欲しかったケーキを買いに行ってくれる 。
一瞬だけ僕の目に光が戻り、心が温かくなった 。
僕は一度深く息を吸って、右手に印章を握りしめ、朱肉に力強く押し付けた。
***
あれから、三つの鐘が鳴ったと思う 。
「お待たせしました! お兄様、シルヴィアお姉様。ケーキを買ってきましたわ!」
パタパタという元気な足音とともに、リーゼが意気揚々と戻ってきた 。その手に大事そうに抱えられた箱からは、甘く香ばしい匂いが漂っている 。
だが、部屋に飛び込んできたリーゼが目にしたのは、もうリーゼが知っている兄と義姉ではなかった 。
「……お兄様? シルヴィアお姉様……?」
「ハンス!これはどういうことなのですか。こんなひどい……」
虚空を見つめ、光を失った目で僕は呟く 。もはや僕は人間ではない 。カニを刻むためだけに産み出された精密機械だ 。右腕は一定のリズムを刻み、正確に印を叩きつけ続けている 。
「……僕はスタンプマシン。僕はスタンプマシン……」
そして、隣から無機質な別の声が重なる 。
「……私は給紙機。私は給紙機……」
シルヴィアだった 。彼女は僕がスタンプを一度振り下ろすごとに、流れるような手際で次の新しい紙を差し出している 。その動作には一切の迷いがなく、僕の腕の上下運動と完璧に同期していた 。
ポン、シュッ。ポン、シュッ 。
机の上には、ハンスが仕分けた「質のいい金貨」と、炙り出された「質の悪い金貨」が、まるで瓦礫のように無造作に、けれど大量に散らばっている 。その混沌とした黄金の山の中で、僕ら二人はただひたすらに、ボソボソと呪文のような言葉を吐き出しながら作業を続けていた 。
リーゼが引きつった笑みを浮かべ、おそるおそる僕たちの間に割って入った 。
「お兄様、シルヴィアお姉様。……今日はもう十分です。お茶にしましょう?」
その天使のような宣告が耳に届いた瞬間、ようやく僕の右腕が止まった 。同時に、シルヴィアの手もピタリと止まる 。
「……あ、ケーキ。僕、人間、戻った」
「……給紙、終了。お茶、飲むわ」
僕とシルヴィアは同時に深い溜息を吐き、ようやく椅子の背もたれに体を預けた 。右腕の感覚はとうに消えていたけれど、リーゼが並べてくれたケーキと、淹れたての紅茶の香りが、僕たちをようやく人間の世界へと引き戻してくれた 。
部屋の隅では宮廷画家のルネが、この歴史的な光景を逃すまいと狂ったような勢いで筆を走らせていたが、今はそんなことはどうでもいい 。
一刻も早く、失われた「人間性」を取り戻さなくてはならない 。
ルネが描くキャンバスの中では、死んだ目の兄、無機質な姉、そして救いのケーキを掲げる聖母のような妹がドラマチックに描かれていたが、僕は震える手で、リーゼが淹れてくれた紅茶を口に運んだ 。
「生き返る……」
「……糖分が、染み渡るわね……」
死んだ目だった僕とシルヴィアの瞳に、ようやく生きた人間としての光が灯り始める 。散らばった金貨も、山積みのカニ券も、今は視界の端に追い払った 。
リーゼが切り分けてくれたケーキの甘さだけが、スタンプマシンと給紙機に成り下がっていた僕たちを救ってくれる唯一の光だった 。




