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第7話:五十枚の『カニ券』

「ねぇ、シルヴィア。さっき言ってたゼノビアの事件のとき、偽造されたお金ってどれくらい出回ってたの?」


ガタゴトと揺れる馬車のなか、僕はふと気になっていたことを尋ねてみた 。


窓の外には、夕暮れに染まり始めたアルカディアの街並みが流れている 。平和そのものに見えるこの景色も、もしかしたらそこら中に偽造金貨が溢れかえってしまっていて、何千枚、何万枚の金貨を回収しなくてはならないのかと思うと、少しだけ背中が寒くなる 。


シルヴィアは膝の上で組んだ指先に視線を落とし、過去の記憶を慎重に手繰り寄せるように口を開いた 。


「……意外と少なかったわよ。お父様もすぐに対応したし。枚数にすれば、百枚もなかったはずだわ」


「えっ、たったそれだけ?」


思わず聞き返してしまった 。一国の経済を、ひいては王家の信用を地獄に叩き落とすにしては、あまりにも少なすぎる気がしたからだ 。


「ええ。金自体を集めるのも大変だし、金型を持ってなかった彼らには、それなりの技術も必要だったらしいから 。

 どちらにしろ偽造品を作るには、莫大な資金と最高峰の職人、そして時間が必要だったのよ 。

 ……でもね、リオン。数は関係ないのよ 。たった百枚でも、街の市場で『偽物が流通している』という噂が流れれば、理由はそれで十分だったわ 。商人が『商売相手の手の中にある金貨が、本当は価値がないんじゃないか』と疑い始めたら、もうその通貨は死んだも同然よ」



シルヴィアの瞳には、かつて自国で起きた「信用の崩壊」という名の怪物の影が宿っていた 。百枚の偽金が、何十万枚という本物の価値まで奪い去る 。それが経済の、いや、人間心理の恐ろしさなのだろう 。


「百枚か。……よし、じゃあ手始めに五十枚から始めようか」


僕がぽつりと呟くと、シルヴィアは不思議そうな顔をして僕を見た 。


「五十枚? リオン、今度は何を始めるつもり?」


「さっき言ったじゃない。僕の『信用』を配るんだよ。まずは僕が責任を持てる範囲からね。

 それにうまくいったら、金貨を全部新しくするより、よっぽど安くてよっぽど早く偽造金貨を回収できると思うよ」



城に戻るなり、僕は執務室で待っているハンスに声をかけた 。

僕の机には、今日の公務で溜まった書類の山があったけれど、そんなものは後回しだ 。



「ハンス、悪いけどとにかく質の良い紙を五十枚持ってきて。それと、いつもの大きいやつじゃなくて、小さい版の『王家の印章』も用意して」


「紙に、王家の印章……ですか? 殿下、公務を放り出して工作に励まれるとは 。もしやケーキが売り切れで、ついに現実逃避を始められましたか?」


ハンスは眼鏡の奥の瞳で、本気で僕の精神状態を心配していた 。僕は苦笑いしながら、机の上の空いたスペースを叩く 。


「違うよ。これ、紙をお金にするんだ 。さっきのケーキ屋のおばさんのところで、ちょっと思いついてね 。金の重さを量るのがだるいなら、量らなくていい『約束』を流通させればいいんだ」


僕が「価値と信用の分離」について、金の物理的な重さではなく、さっきまでシルヴィアと相談をしていた紙に価値を持たせるアイデアを説明した 。

説明を聞き終える頃、ハンスの動きが石像のように固まった 。いつもは冷徹なまでに正確に動く彼の頭脳が、今、猛烈な勢いで火花を散らしているのがわかる 。


「……なるほど。王家が一定量の金との『引換』を保証することで紙に価値を持たせ、取引自体は金の物理的な価値に頼ら……ず……」


ハンスの顔色が、みるみるうちに青ざめていく 。


(今、国が持っている金を担保に、ただの紙切れの価値そのものを変えようとしている 。


 いや、待て。紙切れの価値が変わったのではない 。

 

 信用で取引ができれば、この紙である必要もない 。必要なのは王家の信用のみ 。最悪、金が手元にある必要もない )


(リオン様は、一体どれほど先を見越しておられるというのだ……!)


「どうしたの? ハンス。大丈夫?」


「殿下、理由がわかりました。ならば、その辺で手に入るような紙ではいけません 。すぐには街が偽造品であふれかえります 。このハンス、そこらの職人では偽造できないほどのものを用意いたしましょう」


ハンスは急にシャキッとした動作で、棚から一冊の台帳を取り出した 。


「まずは王家にしか納められていない、特殊な繊維を漉き込んだ高級紙を使いましょう 。それと私が信頼できる王家御用達の印刷職人に、複雑な紋様を印刷させます 。それと……」


それから、たっぷり次の鐘がなるまでハンスの印刷にかける思いを聞かされた 。


「お、おう。ハンスがそこまで考えてくれるなら安心だね」



次の日の朝。ハンスが息を切らせて持ってきたのは、雪のように白く、しっとりとした重みのある高級紙だった 。その表面には、複雑な幾何学模様が緻密に印刷されている 。

僕は執務室の椅子に深く腰掛け、小さな王家の印章を手に取った 。


「……おはよう、リオン」


不意に横から声をかけられ、顔を上げるとシルヴィアがいた。まだ起きたばかりなのか、少し眠たげな様子で僕の手元を覗き込んでくる。


「おはよう、シルヴィア」


「もうできたの? すごいわね、これ……」


シルヴィアは感心したように呟き、机の上に並んだ紙を一枚手に取った。


「シルヴィア様。今は非常に大事な儀式の最中です。どうかその『紙』を汚さぬようお願い申し上げます」


ハンスが眼鏡をキリリと光らせ、厳しい口調で割って入った。今の彼にとって、この作業は一国の運命を左右する聖なる工程に見えているらしい。


「わかってるわよ。そんなに怒らなくてもいいじゃない」


シルヴィアは苦笑しながら紙をそっと戻すと、僕の隣に椅子を引いて腰を下ろした。ハンコが押されていく様子を、じっと見守るつもりのようだ。


僕は一枚、また一枚と、丁寧に、そして手際よくスタンプを押していく 。

そこには、僕たちが普段使っているものより一回り小さい、それでいて威厳に満ちたカニの紋章が刻まれていた 。



ポン、ポン、ポン…… 。


五十回 。ただの紙切れが、五十金貨分の重みを帯びていく 。いや、物理的には軽いままだけど、そこに宿る意味はどんどん重くなっていく気がした 。


「よし、これで完成だね。じゃあ金貨の代わりによろしく、ハンス。これね」


五十枚の『カニ券』を机に並べ、僕は満足げに伸びをした 。ハンスは、まるで伝説の聖遺物を拝むような手つきで、その紙束をうやうやしく受け取った 。


「殿下……。これは世界を変える最初の一歩になります 。これよりただちに、城への納品業者、および御用聞きへの支払いとして一部を試験導入いたします 。人々が『王家が金に換えてくれる』と認識した瞬間、アルカディアの経済は今までにないほどの栄華を見ることでしょう」


ハンスはそう言い残すと、驚くべき速さで部屋を出ていった 。


(ん? ん? 偽造金貨の締め出しだよね)


僕は、この券を使えば「次からケーキ屋のおばさんのところで、待たずにケーキが買えるな」ということばかりを考えていた 。あー、ケーキのことを考えたら、急激にお腹が空いてきた 。


「それよりシルヴィア、お腹空かない? 朝ごはんを用意してもらおう」


「ええ、そうね。私もお腹が空いたわ」


僕は椅子から立ち上がり、まだ朝の光が差し込む窓の外を見つめた 。


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