第7話:ルネ回:影の観察者と『カニの見えざる手』
アルカディア王宮、執務室。
そこは今、夜の終わりと朝の始まりが溶け合う、幻想的な光に包まれていた。
重厚なカーテンの隙間から、狂気的な創作意欲に震える極彩色のベレー帽が覗く。
宮廷絵師ルネは、瞬きさえも惜しむように室内の光景を網膜に焼き付けていた。
「……これざんす。これこそが、わたくしが求めていた『家族愛』の極致ざんす……!」
ルネの瞳の中で、現実はまたしても神話へと書き換えられていく。
◇
画面の左、窓から差し込む青白い朝日に照らされているのは、リオン様。
だが、その机の上には、短くなってもまだ消え残る一本の蝋燭が揺らめき、彼の顔に深い陰影を落としている。
それは夜を徹して民(と妹)のために尽くした「父性的な自己犠牲」の影。
手元に置かれたわずか数枚の白い書類が、画面全体の構図を引き締め、絶妙な緊張感を生んでいる。
そして対照的に、画面の右。
そこに佇むシルヴィア様には、一切の影ができていない。
彼女はただそこにいるだけで周囲を照らす、光そのもの。慈愛に満ちた「母性」の象徴のように、ルネの炭筆によって力強く引かれていく。
その中央で、無垢な笑みを浮かべ、右手で手が隠れるほどの大きなカニの印を掲げ、左手は体の後ろに回して得意げな天使リーゼ様。
茶色の耳当てには犬の耳がついており可愛らしい。
だが、ルネが真に魂を震わせたのは、その背後にある大きな鏡の中であった。
決して見えない、机の死角。
鏡の中にだけ微かに映し出された、リオン様とシルヴィア様の「重なる手」。
ただその「絆」が繋がっていることを、ルネは繊細なタッチで描き留めた。
「あー、この家族愛……。表で見守る光と影、そして裏で結ばれた秘められた絆。これこそ、わたくしが後世に書き残すべき歴史の正体ざんす!」
◇
数日後、アルカディア王宮の執務室。
ようやく「事後届出制」が軌道に乗り、なんとか人間らしい正気を取り戻した僕の前に、その「特大の時限爆弾」は持ち込まれた。
「殿下! 見ていただくざんす! わたくしが目撃した、あの日あの時の『真実』の記録ざんす!」
バターン! と扉を蹴破って入ってきたのは、絵具まみれのルネだった。
彼女はまだ乾ききっていない巨大なキャンバスを、僕の机の上にドサリと置いた。
「どうしたの……ルネ?。まだ仕事中なんだけど」
「黙って見るざんす! これこそが、『家族の絆』の美しさざんす!」
僕とシルヴィアは、ココアを飲みながら恐る恐るその絵を覗き込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ! ……いや、これ、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻像』かよ!?」
「……わあ、リーゼはなんだか子犬っぽいよ。あはは、ハンコを持って得意げな顔をしているね……って、僕の顔、影とのコントラストで彫りが深く見えるよ」
僕は純粋に、リーゼの可愛さと、自分の顔の描かれ方のギャップに驚いていた。
左からの朝日と、手元の蝋燭の光が、僕を「不眠不休で国を支える賢公」に見せているのが、なんだか気恥ずかしい。
しかし、隣にいたシルヴィアの様子が、どこかおかしかった。
「……ちょっと」
絵画を指さすその指先は微かに震えていて、視線は一点――絵の背景にある、小さな鏡の描写に釘付けになっている。
「ん? どうしたの、シルヴィア。……ああ、背景の鏡まで描き込んでるのが凄いのかな? ルネのこだわりって本当に細かいよね」
僕がのんきな感想を漏らすと、シルヴィアは何かを言いかけ、そしてギュッと唇を噛んで黙り込んでしまった。
彼女は一人、顔を林檎のように真っ赤に染めながら、必死に視線を逸らそうとしている。僕には何が彼女をそこまで動揺させているのか、さっぱりわからなかった。
「どうざんす! この家族愛! カニを掲げる見えざる手。またその裏側にある、見えない支えの手……。最高にロマンチックざんす!家族愛とは人に見せびらかすものではないざんす。」
「あ、ああ……。そうだね。リーゼがすごく可愛く描けてるよ。うん、家族愛?がテーマなら大成功じゃないかな」
「そうでしょ! そうでしょ! 芸術の勝利ざんす!」
ルネは満足そうにキャンバスを抱えて去っていった。
ただ、執務室に残された僕の隣で、シルヴィアだけがジャスミンの香りと共に、鏡の中に閉じ込められた「あの時の熱」を一人で噛み締めていた。




