第6話:代理執行人リーゼと秘密の共犯者
「リオン様ぁぁ! 陛下より許可をいただいてまいりました!」
嵐のような足音をさせながら、大きな声で叫ぶ文官とハンスが執務室に戻ってきた。 その手には、国王の署名が入った布告書と、僕が最終確認すべき高額取引の書類の束――およそ30枚程度が握られている。
「日用品はすべて書類無しになりました。ただ、この30枚ばかりは国の根幹に関わる大口取引。これさえ終われば、本日の公務はすべて完了にございます。さあ、最後のご奉公を!」
ペンを握ろうとした僕の指先は、まだシルヴィアが塗ってくれた『ザボン』のクリームでしっとりとしていて、甘いジャスミンの香りが漂っている。 正直、もう一文字も書きたくないほど、心も体も完全に「休息モード」に入っていた。
そこへ、犬の耳っぽいふわふわがついた茶色の耳当てに、お出かけ用のこれまた茶色コートを羽織ったリーゼが、フリスビーを抱えて戻ってきた。
「めっ! ですわ、ハンス! お兄様のおてては、まだ凍えてカサカサなんですのよ! たった30枚程度、王女であるわたくしが代わりにやって差し上げますわ!」
「ええっ!? リーゼ様、王家の銀印は遊び道具では……!」
「遊びではありませんわ。わたくしだって、ちゃんと書類を見れば内容ぐらい理解できますの。……ねえ、お兄様? お兄様がいつも、遊びながら算術や世の中の仕組みを教えてくださるんですもの!」
リーゼはそう言いながら、書類の一枚を小さな指でなぞった。 「大型馬車の売買価格」と「事後報告の期日」。 彼女はそれをスラスラと正しく読み上げ、満足げにカニの印を「カン!」と力強く押し込んだ。
「……え、本当なの、リオン?」
隣にいたシルヴィアが驚きのあまり、僕の肩に触れるほど身を乗り出してきた。 彼女の大きな瞳がすぐ間近で僕を捉え、耳元でささやく。
「ねぇ、リオン。リーゼ様にあんな難しい実務を教えていたの? 全然知らなかったわ。……あんた、いつの間にそんな……」
「あ、いや……たまに、物語を読み聞かせるついでに教えてるだけだよ。リーゼの頭が良いだけさ」
照れ隠しにそう答えたけれど、シルヴィアとの距離が急にゼロになったことで、僕の心臓は再び跳ね上がった。 彼女が動くたびに、僕の手のひらに残っているのと同じ、高貴なジャスミンの香りがふわりと重なる。
……そして、その時だった。
寄り添うように肩が触れ合い、机の下に置いていた僕の右手と、シルヴィアの左手が、吸い寄せられるようにぶつかった。
(あっ……)
どちらからともなく、指が絡まる。 さっきクリームを塗ってもらったばかりの、温かくて滑らかな手のひら。 シルヴィアの指が僕の指をしっかりと割り込むようにして、深く、固く噛み合った。 いわゆる「恋人繋ぎ」だ。
シルヴィアを盗み見ると、彼女は顔を真っ赤にしながらも、必死に正面のリーゼを見つめて「……そう、リーゼ様は、本当にすごいわね」と、震える声で相槌を打っている。 でも、机の下で握られた僕の手には、彼女の指先がギュッと力を込める感触が、はっきりと伝わっていた。
「カニさん、次の書類も放流ですわ! カン! カン! カン!」
リーゼの楽しげな声と、リズミカルな打刻音。 その背後で、僕たちは繋いだ手から伝わる熱に浮かされながら、二人だけの秘密を共有していた。
やがて、最後の書類にハンコを押し終えると、リーゼは満足げに胸を張った。
「……これで終わりましたわー!」
リーゼはひらりと僕とシルヴィアの間に割って入るようにして立ち、銀印をハンスの方へと突き出した。
「はい、ハンス! カニさんはみーんな、広い海へ帰っていきましたわ!」
「お、おお……! 素晴らしい。なんという速さ、なんという正確な処理能力……! リーゼ様、これこそがアルカディアの未来を照らす光ですな!」
ハンスは感激に震えながら、リーゼから銀印と書類の束を受け取った。 ハンスの立ち位置からは、リーゼの小さな体の後ろで、僕とシルヴィアが肩を寄せ合い、机の下で固く手を結び合っていることなど、微塵も気づくはずがない。
「さあ、お兄様、シルヴィアお姉様! お外へ行きましょう!」
リーゼの誇らしげな笑顔と、ハンスの興奮。 その光景を、執務室の物陰からルネが凝視していた。
無邪気にハンコを振るう幼き王女と、その後ろで運命を共にするように深く手を結び合う姿を、その瞳に焼き付けながら。




