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第5話:束の間の静寂と、手の匂い

「はっ! か、賢明なご判断です! 陛下にも、これこそが真の『引き締め』であると私が説明してまいりましょう!」


ハンスは救われたような顔で、文官たちを連れて嵐のように執務室を飛び出していった。 バタン、と重厚な扉が閉まり、執務室には一気に静寂が訪れる。


「……はぁ。やっと、一息つけるよ。あー、ハンス、その前に……ココアをもう一杯……あぁぁぁ」


僕は椅子の背もたれに深く体重を預け、遠ざかっていくハンスの背中に向かって力なく声をかけた。


「何よ、そのぐらい私が入れてあげるわ」


聞き慣れた涼やかな声が、隣から響いた。 シルヴィアは立ち上がると、手慣れた動作でココアを準備し始める。 カチャカチャという小さな音が、静かな部屋に心地よく響く。


「はい、どうぞ。火傷やけどしないようにね」


「ありがとう、シルヴィア……」


差し出された温かいカップを受け取ろうと、僕が右手を伸ばした時だった。 シルヴィアの動きが、ぴたりと止まった。


「……ちょっと、リオン。その手、どうしたの?」


彼女は僕の右手を、ひったくるようにして自分の手元へ引き寄せた。 改めて見れば、僕の指先は無残なことになっていた。 寒さでカサカサにささくれ立ち、あの『カニ印連打』の衝撃と冷気のせいで、あかぎれが赤くにじんでズキズキと痛む。


「……全くもう。あんたって人は、本当に目が離せないわね」


シルヴィアは呆れたように言いながら、ココアを机に置き、懐から小さな銀の容器を取り出した。 蓋を開けた瞬間、執務室の冷たい空気が一変する。 どこか遠くの夜の庭園を思わせるような、高貴で甘いジャスミンの香りがふわりと立ち上った。


「これ……すごくいい匂いだね」


「ゼノビアにある老舗、《ザボン》というお店のハンドクリームよ。お父様《皇帝》から贈り物として届いたの。……貸しなさい」


シルヴィアは僕の手をそっと自分の膝の上へと引き寄せた。 そして、指の一本一本に丁寧にクリームを乗せ、指先から付け根にかけて、小さな円を描くようにゆっくりと塗り込んでいく。 ささくれ立った節をなぞり、あかぎれの痛みを吸い出してくれるような、慈しみに満ちた手つき。


沈黙が、痛い。 聞こえてくるのは、外の風の音と、僕の心臓がうるさいくらいに脈打つ音だけだ。



シルヴィアは今まで見たこともないような慈しみをたたえた瞳で、僕の手を見つめている。 そして独り言のようにつぶやいた。


「……リオン。あんたが適当なことを言うたびに、みんなが振り回されて、でも最後にはなぜか国が良くなっていく。……まったく不思議な人ね」


耐えられなくなった僕は、この濃密な空気を逸らそうと、上擦った声で話題を投げ出した。


「……そ、そういえば、シルヴィアはこの匂い、好きなの? 僕はこういうの初めてだけど、本当にいい匂いだね……」


「……ええ。お父様が送ってくださるものの中でも、一番のお気に入りよ。ジャスミンは……落ち着くから」


彼女は顔を上げず、僕の指を包み込むようにしながら静かに答えた。 僕はその香りをあらためて確かめたくなって、無意識に自分の手を鼻先へ引き寄せた。


だが、その手はまだ、シルヴィアの温かい両手に包まれたままだった。


「……へぇ。本当にいい匂いだね」


目を閉じて、その香りを深く吸い込もうと顔を寄せた。 その瞬間、鼻先に伝わってきたのはシルヴィアの指先の、驚くほど滑らかな熱だった。


ハッとして目を開けると、そこには僕の指を握ったままのシルヴィアの指先が――僕の唇の、すぐ目の前にあった。 あと数ミリで、彼女の指先にくっつきそうなくらい。


「……リ、リオン?」


至近距離で、シルヴィアの震える声。 彼女の吐息が僕の頬を撫で、ジャスミンの香りが爆発したかのように濃く感じられた。


「あ……ごめん、その……」


謝ろうとして動かした唇が、彼女の肌を微かにかすめそうになり、シルヴィアは「っ……!」と短く息を呑んで顔を跳ね上げた。


「……もうっ! 本当に、あんたっていう人は……っ!」


シルヴィアは弾かれたように僕の手を放すと、真っ赤な顔をして自分の手を胸元でぎゅっと抱きしめた。 その時だった。


「お兄様ー! お仕事が終わりそうだと、ハンスに聞きましたのー!」


バタン! と扉が開き、リーゼたちが雪崩れ込んできた。


「見てください、お兄様! フリスビーも持って……あら?」


リーゼはぴたりと足を止め、顔を真っ赤にして胸元で手を握りしめて固まっているシルヴィアと、ポカンとしている僕をじーっと交互に見つめた。


「…………わたくしたちがいない間に、何か……ありましたの?」


リーゼの瞳に疑惑の色が浮かぶ。


「……お兄様! もしかして、またシルヴィアお姉様に無理なお願いをして、困らせたのではありませんか!? お姉様のお顔、真っ赤ですわ!」


「ち、違うわ、リーゼ! そんなことないのよ、ねえリオン!?」


必死に同意を求めるシルヴィア。 僕は慌てて助け舟を出した。


「あ、ああ、そうなんだよリーゼ。実は手が荒れてたから、シルヴィアが『ザボン』のハンドクリームを少し分けてくれたんだ。ほら、いい匂いだろ?」


僕が手を差し出すと、リーゼはパッと顔を輝かせ、それから不満げに頬を膨らませた。


「ええっ! ずるいですわ、お兄様だけ! わたくしもシルヴィアお姉様と同じ匂いになりたいですわ! さあ、わたくしにも塗ってくださいまし、お姉様!」


「そ、そうね。リーゼ様の綺麗なお手てには、この香りがきっと似合うわ。……こっちにいらっしゃい」


シルヴィアは逃げるように僕から距離を取ると、リーゼの手を優しく取った。 再び立ち上るジャスミンの香り。


「わあ……! お姉様と同じ匂い……。なんだか、わたくしも少しだけ大人になった気分ですわ!」


はしゃぐリーゼを見守りながら、僕は自分の手のひらから漂う甘い香りをそっと嗅いだ。 外の世界で「経済革命」が始まる直前。 部屋の中では、シルヴィアの優しい横顔と、僕のまだ治まらない鼓動だけが響いていた。

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