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第4話:無限の書類地層地獄

深夜の執務室。カチカチと凍りつくような空気の中、僕は一心不乱にペンを動かしていた。 すべては明日のイチゴタルトのため。そして、リーゼの笑顔を取り戻すためだ。


「……ふぅ。……ハンス、見てくれ。あと、あと100枚くらいだ……。ようやく底が見えてきたぞ……」


僕は真っ黒に汚れた指先を眺めながら、深い溜息をついた。 机の上には、「未処理」の小さな書類の山と、僕が徹夜で処理した「許可済み」の大きな書類の山。


普通なら絶望する量だけど、今の僕には「これだけやったんだ」という確かな手応えがあった。


「……殿下、本当にお疲れ様でございます。これほどの量を一晩で……。まさに執念ですな」


「だろ? 僕、頑張ったよね……。これで明日には書類全部届けられそうだね……」


心地よい疲労感に包まれていると、静かに扉が開いた。


「あら、おはようリオン。……ふふ、本当に頑張ったじゃない。顔がインクで真っ黒よ」


様子を見に来たシルヴィアが、机の上の「成果」を見て、少し驚いたように、そして優しく微笑んだ。


「シルヴィア……。見てよ、これ。僕、やればできる子だったよ……」


「ええ、認めてあげるわ。……少し休憩しなさい。今、温かいココアを入れてきてあげるから」


彼女のその言葉が、凍えた体に何よりの報酬だった。


――だが、シルヴィアがココアを置いた、そこに文官たちが書類を持って執務室に入ってきた。


「リオン殿下、シルヴィア皇女殿下。おはようございます。新たに届いている書類をお持ちいたしました」


新しく運び込まれた「今日の分」の書類に目を向けた瞬間、彼女の表情が微妙なものに変わった。


「……リオン。これ、今届いた分よね? 宝飾ギルドに、運輸ギルド……全部許可を求める書類なの?」


「ええ。それに運輸ギルドの方は、馬車に積まれた積荷――売り物一つひとつについても個別の輸送許可証が必要になっているみたい……。グレモリー公爵も辛辣ね」


僕はシルヴィアが置いてくれたココアを啜りながら、その言葉を頭の中で反芻はんすうした。


「……わかってるよ、シルヴィア。公爵が嫌な奴だってことは、もう嫌というほどね。……でも、もう少しだけ頑張ってみるよ。あとちょっと、あとちょっとやれば、道が開けるかもしれないし……」


僕は自分に言い聞かせるように、再びペンを取った。


――それから一時間後。


「…………もう、だめだ」


僕は、一文字も書けなくなったペンを握ったまま、机に突っ伏した。 一時間で減ったのは、わずか数十枚。対して、文官たちが申し訳なさそうに持ってきた「追加」は、その10倍。


物流は止まり、街からケーキが消え、僕はただのハンコ押しマシーンとして人生を終える。……そんな未来が、はっきりと見えた。


魂が口からふわふわと抜けていきそうな僕は、


「……ねえ、これ。僕じゃなくて、そこの文官たちで勝手にやっといてよ。内容の確認なんて、君たちの方が得意でしょ?」


僕が死にそうな声で、部屋の隅に控えていた文官たちに振ると、彼らは一斉に顔を真っ青にしてガタガタと震えだした。


「り、リオン殿下! それは、その……あまりにご無体でございますっ!」


「我らのような者が王印を押すなどという行為、国家反逆罪に問われかねません! 王印を押せるのは、正統な血を引く王族の方のみ……。我らが代行するなど、天地がひっくり返っても不可能にございますっ!」


必死の形相で首を振る彼らを見て、僕は乾いた笑いが出た。 そうだよね、ごめんね。


「……そっか。僕が押さなきゃいけないんだよね。……でも、僕の手は一本しかないし、一日は二十四時間しかない」


意識が混濁こんだくし、思考が停止しかけたその時。


「……あんたねぇ。見てられないわ」


シルヴィアは呆れたように僕を見下ろしながら、僕の手からそっと判子を取り上げ、机にコト、と置いた。


「いい? ハンス、文官たちも聞きなさい。……リオンの言いたいことを、私が翻訳してあげるわ」


シルヴィアは僕の「限界ゆえのポカ」を、さも最初から高度に計算されていたかのように、凜とした声で塗り替えていく。 その横顔を見て、僕の頭の中は『シルヴィアたん……しゅごい……女神だ……』という、語彙力を完全に喪失した崇拝の念で埋め尽くされていた。


シルヴィアは続ける。


「商売のたびに『事前に許可』を求めるから、こんな不条理な山のようになるのよ。これからは『王家の事前許可』を全面的に廃止しなさい。商人が自分の責任で売った後に、何をいくらで売ったかだけを報告させる『事後届出制』に変えるのよ」


「「「……じ、事後届出!?」」」


ハンスたちが驚きで目を剥く中、シルヴィアは僕を盗み見て続けた。


「そもそもね、お義父様がやりたいのは、この浮かれた王都の『引き締め』でしょ? だったら、商人たちに『常に書類を出させて、王家が常にチェックしているぞ』と思わせればいいのよ」


ほうほうと耳を傾ける文官たちを、シルヴィアは満足そうに見回しながら話を続ける。


「形として管理しているポーズさえあれば、お義父様もグレモリー公爵も文句は言えないわ」


「……まあでも船や馬車のような金額の大きいものとか、大事なものだけはしっかり書類を提出させて。ケーキとかパンとかは種類ごとじゃなくて、まとめて『パン』でいいんじゃない?」


「そのぐらいだったらギルドの取りまとめがなくても、尚書部(しょうしょぶ)に窓口作って、直接受け取ってもらいましょう。そっちの方が早いしね!」


――理解した。 シルヴィアの言っていることの凄まじさが、ようやく僕の頭に浸透してきた。


僕がハンコを押すのを待たなくていい。街の経済は今すぐ動き出す。 それでいて「管理している」という建前は守られ、公爵の嫌がらせも無効化される。


「完璧な解答」。 僕は震えるほどに感激し、思わず身を乗り出した。そして、机を挟んでシルヴィアの両手をがっしりと包み込むように握りしめた。


「シルヴィア、君は救世主だ! 本当に、本当にありがとう!」


「……っ!? ひゃあ!? ちょっと、リオン!?」


シルヴィアが驚きで肩を跳ねさせた――が、その直後、彼女の顔が引きった。


「つ、冷たっ……! いきなり何よこの手、氷みたいじゃないの!」


「えっ? あ、ごめん……」


あまりの冷たさに、シルヴィアは反射的に僕の手を離した。 自分の手をさすりながら、彼女は信じられないものを見る目で、僕の指先を見つめる。


「あんた、いくらなんでも冷えすぎよ。指先が真っ白だし、あかぎれもひどいわ。……はぁ。ハンス、聞いたわね? 今すぐこの方針で手続きを整えなさい」


「はっ! か、賢明なご判断です! 陛下にも、これこそが真の『引き締め』であると私が説明してまいりましょう!」


ハンスは救われたような顔で、文官たちを連れて嵐のように去っていった。 残されたのは、静まり返った執務室と、真っ赤な顔をして自分の手を温めているシルヴィア。


「……リオン。さっさと離れなさいよ。」


「……ああ。ごめんよ、シルヴィア」


……この時、僕が「もう嫌だ」という一心で受け入れたこの制度が、後にアルカディア王国の商業をかつてないほど自由に、そして強大にする第一歩になるなんてことは、まだ誰も気づいていなかったんだ。

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