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第8話:兄の過剰な防衛線

祭典当日。

王都の朝の空気は、冬の厳しい寒さを吹き飛ばすような熱気に包まれていた。


ここ数日、僕のスケジュールは忙しいながらも、どこか充実していた。

それもこれも、あのグレモリー公爵が面倒な書類仕事一式を引き受けてくれたおかげだ。


おかげで僕は、警備のリハーサルを何度も繰り返し、騎士団の配置を確認し、ハンスが作ってくれた開幕式のスピーチ原稿を暗記することに全力を注ぐことができた。

まさに、理想的な現場監督の日々である。


それにしても、ハンスの仕事ぶりには恐れ入る。

この完璧なスピーチ原稿といい、一切の隙がない警備計画書といい、非の打ち所がない。


しかし……正直、あの気さくな騎士団の団長と同期で仲がいいだなんて、今でも信じられないくらいだ。

(しかも、団長の妹さんとあんなことがあったなんてね……。僕の胸の中にだけしまっておこう。)


そんな僕の元に、噂の有能すぎる腹心、ハンスがやってきた。


「いかがでしょうか、リオン様。少しもの足りなかったでしょうか」


ハンスが少し自信なさげに聞いてくる。

僕は原稿に目を落とし、思わずこめかみを押さえた。


(いやいやいや……ハンスの書く原稿は完璧だ。一言一句に無駄がなく、王族としての威厳やさりげない貴賓客への気遣いなどが絶妙にブレンドされている。)


「……ハンス。内容は素晴らしいよ。流スタだ。でもさ、これ、噛まずに読むの難しくない? 専門用語と格調高い言い回しが密集しすぎて、舌を噛みそうなんだけど」


「ふむ、なるほど。滑舌のトレーニングが必要ですね」


ハンスは納得したように頷くと、真顔でとんでもないことを言い出した。


「早口言葉でも練習してみましょう。さあ、リオン様、ご一緒に。……なまカニ巻き、やきカニ巻き、煮カニ巻き」


「は?」


「さあ! なまカニ巻き、やきカニ巻き、煮カニ巻き!」


「……な、なまカニ巻き、やきカニ巻き、煮カニ巻き」


「声が小さいです! もっとキレよく! なまカニ巻き、やきカニ巻き、煮カニ巻き!」


「なまカニ巻き、やきカニ巻き、煮カニ巻き!!」


廊下を通りかかったメイドたちが、開いた扉の隙間からこちらを見て、何とも言えない表情で去っていった。

王族と、その腹心が、真顔で「カニ巻き」について連呼している。

客観的に見て、この光景はかなり「ヤバい」部類に入るだろう。


(……変な目で見られている気がする。いや、絶対に見られている。でもここで止めたら負けな気がする!)


僕は羞恥心を心の奥底に閉じ込め、ハンスと共にカニ巻きの連呼に没頭した。


***


それからやっとハンスから合格点をもらい、発音も一箇所も噛まないレベルまで到達した。


「……完璧です、リオン様。もはや『カニ巻き』言わせたら右に並ぶものはない、と言っても過言ではありません」


「『カニ巻き』が上手くなりたくて頑張ったわけじゃないんだけど……」


ハンスの謎の称賛を受け流し、僕はようやくテントの中の椅子に腰を下ろしてお茶を啜った。

舌の筋肉が少し疲れているが、これで開幕式への不安要素は一つ解消された。


テキパキと検査会場の配置図を整理していたシルヴィアが、一息ついた僕に声をかけてくる。


「リオン、お疲れ様。実務的な整理は私がやるから、貴方は職人たちの様子でも見てきたら? 主催者が顔を出すだけでも士気に関わるわよ。……そうね、何か差し入れでも持って、声をかけてあげたらいいと思うの」


「差し入れか。……うん、それなら僕に任せて」


僕は、自分の特技である「事務の合間の家事」を活かすことにした。


***


それから一時間後。

僕はエプロンを締め、リーゼと一緒に調理場に立っていた。

作るのは、ヴィラールの村で教わった、あの『ジャガイモと牛肉のグラタン』だ。


「お兄様、リーゼも手伝いますわ! 皮を剥くのはこうですのね?」


リーゼが小さな手で、驚くほど手際よくジャガイモの皮を剥いていく。

その無駄のない動き、一定の厚みでスライスされる正確さ……。

僕が見惚れるほどの手際だった。


「……リーゼ、すごいな。そんなに手際が良いなんて、将来はきっと、いいお嫁さんになるね」


何気なく、本当に何気なく口にした言葉だった。

それを聞いたリーゼは、パッと顔を輝かせた。


「本当ですか、お兄様! リーゼ、いいお嫁さんになれますか?」


「ああ、もちろんだとも。リーゼなら誰だって……」


言いかけて、僕は凍りついた。


(……待て。いいお嫁さん? ということは、いつかリーゼの隣に、僕以外の『誰か』が立つということか……?)


脳内で警報が鳴り響く。

想像してほしい。どこの馬骨ともしれない不届き者が、リーゼの作ったこの完璧なグラタンを、当然のような顔をして食べている光景を。


(……無理だ。耐えられない。)


「お、お兄様? 急にどうしたのですか? 目と顔が怖いですわ……」


「リーゼ。いいかい、大切な約束だ。もし万が一、将来君の前に『結婚相手』を名乗る不審者が現れたら、必ず僕に報告するんだ。いいかな?」


「ふ、ふしんしゃ……?」


「書類選考から始めるよ。まず履歴書、健康診断書、過去三代の納税証明、そして現時点での全資産リスト。あ、それからリーゼについてのエッセーも提出してもらおう。それらを精査し、僕が作成したリーゼの好きなものについての百問の筆記試験に合格した者のみ、僕との最終面接だ。そこで僕が少しでも『こいつはリーゼを利用するだけの不審者だ』と判断したら、その瞬間に不採用にするからね」


「お兄様……。もしかしてシルヴィアお姉様の時にそんな試験を受けたのですか……? あ、ソースが焦げちゃいます!」


リーゼの言葉で我に返り、僕は必死で鍋を混ぜた。


僕は複雑すぎる兄心をグラタンの中に封じ込め、チーズがこんがりと焼ける香ばしい匂いに包まれながら、特大の耐熱皿をオーブンから取り出した。

「なまカニ巻き、やきカニ巻き、煮カニ巻き」は言えたでしょうか?

私は言えなかったです。

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