第16話:銀の手紙と、揺れる恋心
月明かりが静かに執務室を照らす夜。
リオンが激動の数日間と、父上からの長すぎる説教のダメージで泥のように眠りについた後、シルヴィアは一人、机に向かって羽ペンを走らせていた 。
宛先は、故郷であるゼノビア帝国の父……皇帝陛下だ 。
ふわりと部屋には、爽やかで落ち着いたゼラニウムの香りが満ちている 。
今日、リオンから借りてきたのボディーバームを、先ほど侍女に塗ってもらったのだ 。
「ふーん。なかなかいい匂いね。……本当にいい匂いじゃない」
シルヴィアはふとペンを止め、自分の腕を眺めた 。
華やかではないけれど、なんだか落ち着く匂いとしっとりと肌に馴染んだバームの感触が、彼女の記憶を数日前のあの午後に引き戻す 。
◇
手紙に「カニ券」の成功を書こうとして、シルヴィアはそれが本格的に広まるきっかけとなった、あの「事件」のことを思い出していた 。
リーゼに背中を押されて二人でアクセサリーを選んだ後、リオンが「これ、いい匂いだよ」と保湿クリームを求めて立ち寄ったのが、そのお店だった 。
意外にもリオンは乾燥肌らしく、熱心に品を選んでいたのを覚えている 。
「これ、保湿もすごいんだ。冬場なんてハンスに無理やり腕とかに塗り込まれてるんだよね」
有能な官僚が、死んだ魚のような目で主君の腕にクリームを塗り込む光景 。
それを想像してシルヴィアが少し遠い目になっていると、リオンがさらりと言ったのだ。
「だからさ、これ、本当にいいんだ。……今度、シルヴィアに塗ってあげようか?」
その瞬間、二人の間に流れた奇妙な沈黙 。
「「…………っ!」」
シルヴィアの顔が夕焼けよりも赤く染まる 。
リオンは慌てて視線を泳がせ、取り繕うように言葉を濁した 。
「い、いや! つまり、ほら、貸してあげるから! もし侍女も乾燥肌だったら塗ってあげたらいいんじゃないかな 。
それで、もしシルヴィアも気に入ったら侍女に塗ってもらってよ 。
そうだよ。うん、それがいい、絶対にいい。本当にいい匂いだからさ……」
シルヴィアもまた、赤くなった顔を伏せたまま、蚊の鳴くような声で応えるのが精一杯だった 。
「……ええ、そうね。そうするわ」
◇
香りと共に蘇る記憶を反芻しながら、あの直後に起きた、リーゼ様の誘拐事件を思い出す 。
冷徹に状況を分析し、騎士団を指揮していた、あの怖いくらいに鋭いリオンの横顔 。
リーゼ様を抱きしめた時の、あの必死な瞳 。
シルヴィアは無意識に、自分の胸元をぎゅっと押さえた 。
(羨ましいわね、リーゼ様……)
そう思った瞬間、なんだか胸の奥がキュッと締め付けられるような、熱い痛みを感じた 。
もし私が、いつか同じような苦境に立たされた時。
あんな風になりふり構わず、私を助けに来てくれるのかしら…… 。
高鳴る鼓動を、ゼラニウムの香りが優しくなだめてくれる 。
彼女は深く息を吐き、そんな乙女じみた悩みは胸の奥にしまい込んで、凛とした表情で筆を動かした 。
『お父様、お久しぶりです。そちらはお変わりありませんか? こちらは、リオン殿下が考案し、私も全力でサポートした「カニ券」という新しい通貨が、信じられないほどの成功を収めています 。
私が隣で支えているおかげで、この国の経済は今、劇的な進化を遂げています 。
市場から偽造金貨は一掃され、取引のスピードはこれまでの数倍に跳ね上がりました』
シルヴィアは、自分がこの「革命」にいかに貢献したかを、少しだけ誇らしげに書き連ねる 。
『追伸:いつものように、お抱え絵師のルネが描いた肖像画も同封いたしますね。忙しい政務の合間の、ふとした記録です』
◇
数日後。ゼノビア帝国、王宮 。
ゼノビア皇帝は、最愛の娘からの手紙を、震える手で受け取った 。
「おおお! シルヴィアちゃんからのお手紙だ! 一行たりとも見逃さんぞ!」
皇帝は食い入るように手紙を読み進め、娘が誇らしげに語る様子に目尻を下げて頷いた 。
そして手紙を読み終えた皇帝は、期待に胸を膨らませながら、同封されていた絵画を広げた 。
そこに描かれていたのは、執務室で机を挟む二人の姿だった 。
リオンが古い天秤を使い、一枚一枚金貨の重さを計る「旧来の苦労」を体現している一方で、その対面に座るシルヴィアの前には、新しい時代の象徴である「カニ券」が整然と積まれている……という構図だ 。
「ふむ……。あちらでも仲良くやっておるようだな。あの小僧も、仕事の時はそれなりに真剣な目をするではないか」
皇帝が目を細めて絵を眺めていると、傍らに控える腹心の側近が、心底から感服したように身を乗り出した 。
「……素晴らしい。これは実に見事な絵ですな、陛下 。
この空気感……まだお若いお二人だというのに、まるで長年連れ添った夫婦のような、円熟した情愛すら感じさせます 。
実に見事な『夫婦の肖像』ですな!」
「ふ、ふ、ふうふだと……? 言わせておけば……!」
皇帝の顔がみるみるうちに般若のごとく歪んでいった 。
「私のシルヴィアちゃんが、あんな小僧とそんな空気感を醸し出しおって……!
昔、四歳ぐらいの頃は『大きくなったらパパと結婚する』と言っておったのだぞ! 許さぬ、絶対に許さぬぞ!!」
「陛下、落ち着いてください……」
皇帝は憤慨しながらも、手紙に書かれた「カニ券」の記述を鋭い目で見つめた 。
「……おい、そこにいるんだろう。出てこい」
皇帝が虚空へ声をかけると、部屋の隅の影が揺らぎ、一人の男が姿を現した 。
アルカディアの裏側で糸を引く男、グレモリー公爵である 。
「……お呼びでしょうか、ゼノビア皇帝陛下」
「お前の国で流行っているという、この『カニ券』とやら。どう思う?」
グレモリーは薄笑いを浮かべ、慇懃に一礼した 。
「……大変素晴らしいものでした 。
経済の血流を加速させ、富を瞬時に集積させる 。
あのリオン殿下の思いつきにしては、あまりに出来すぎたシステムです」
「ふむ。そこまで素晴らしいものなら、我が帝国でも導入を検討したいところだが……」
皇帝の言葉に、グレモリーは不敵な笑みを浮かべ、回答する 。
「それなら簡単なことです。ゼノビア券を発行し、金貨の流通の代わりに使わせましょう 。
……あとそうですな、アルカディアとの貿易にも、このシステムを導入すればよいのです 。
帝国と王国は対等な友好国。
ならば、我がゼノビアの紙幣と、あちらのカニ券……交換比率を『1対1』で固定させてはいかがでしょう」
「ふむ。固定させると」
「はい。仕組みが単純であればあるほど、浸透するのも早いですから 。
国民もゼノビア券の便利さに、皇帝に感謝をするでしょう」
皇帝は、娘の恋心への嫉妬を、冷酷な統治者の計算へと切り替えた 。
「よかろう。グレモリー、通商関連を任せている『ペッグ卿』を紹介しよう 。
後の細かいところは、彼とお前で進めておけ」
「御意。……さすがは陛下、お話が早い」
こうして、リオンが「面倒くさい」から始めたカニ券は、シルヴィアの秘めた想いと皇帝の親バカな嫉妬、そしてグレモリーの奸計を巻き込み、巨大な経済戦争の引き金へと変わっていくのである 。




