TVIR&GNXR 7
前
白暦ビルの八階へと続くエレベーターに、俺と藤枝先輩は乗り込んだ。
エレベーターの中は俺たちだけだったが、やたらと広く感じられたのはそのせいではない。駅などで見かけるエレベーターはだいたい六人定員だが、ここはなんと十五人定員らしい。最大それだけの人数が入る想定だからか、広さも普段のおよそ倍だ。
内部のデザインもビル全体に合わせたアイボリーで、床は白の御影石だ。細部までオーダーメイドされているのだろう、統一性が感じられる。庶民視点では、ビル内装はともかく、エレベーターにそこまでこだわる感性は分からない。が、投じたであろう資金に見合うだけの仕上がりではある。ここのホテルにも、一度は泊まってみたいものだ。
「八階までなんですね、ここのエレベーターは」
先輩が押した行先ボタンを見ながら言うと、「ええ」という短い返事があった。
このビルは十二階建てであるはずだが、ボタンは八までしか備えられていなかった。恐らく、そこから先は別のエレベーターを乗り継ぐのだろう。
「八階に白暦会の受付があって、その先のエレベーターに乗らないと、それ以上の階へは行けないようになっているの。入場には会員証が要るわ」
先輩の手には、いつの間にかカードが握られていた。中央にリンゴ型のマークが印刷されている以外は、シンプルなデザインだった。マークはおそらく、りんご教のロゴか何かなのだろう。
「ICカードですね。俺も入れますか?」
「これは個人用で、いわゆる共連れは禁止されているわ。受付でゲストカードを借りないと」
なるほど、と頷く。一つの企業なわけだし、それなりのセキュリティは敷かれていて当然だ。
「変に緊張する必要はないわ。団体の性質上、会員がゲストを連れてくることはよくあるから、受付の人も慣れているわ。入場理由は見学とでも書いておいて」
「勧誘目的ということですか?」
「強引なものはないから、そこも安心して。まあ、入会したくなったというのなら、止めはしないけど」
などと、先輩はクスリとも笑わずにそう言った。
目的階に到着し、エレベーターを降りると、エントランスの雰囲気とは真逆のフロアが待ち構えていた。
黒。
真っ黒。
壁も天井も床も、すべてが黒く染まっていた。すべて御影石のようだが、一面敷き詰められた様子は異様の一言だった。照明は明るいのがせめてもの救いだが。まるで、墓石の立ち並ぶ霊園にでも迷い込んだかのようだ。
先行する先輩の背中を追おうとして、しかし足が一瞬動かなかった。何かに足首を掴まれているような気がして、視線を落とす。当然、見慣れた俺の靴が見えるだけだったが。
「どうしたの? 立ち眩み?」
「ああ、いえ、大丈夫です」
妙に響いて聞こえる先輩に言われ、慌てて歩き出す。
エレベーターホールを抜けた通路の向こうは、先ほどの会話のとおり、また別の受付に続いているようだ。
通路の壁面には、りんご教の名前とロゴが入ったプレートと、埋め込みの大型ディスプレイが備え付けられている。ディスプレイで流れているのは、りんご教の宣伝動画のようだ。にこやかな人たちが明るく楽しそうにしている。それ自体は、企業のオフィスとしては当たり前の光景なのだろうが、背景が違うだけで、こんなにも歪に見えてしまう。
反対側には小さな窓があり、覗き込めば地上まで見えた。あまり実感は湧かないが、高層ビルの八階、高所恐怖症であればぞっとする高さだろう。
かつかつと、二人分の足音が鳴り響く。ほんの短い廊下なのに、二度も後ろを振り返ってしまった。二度目に振り返ったときには、その短さに少し驚いたほどだ。
「こんにちは」
先輩が挨拶すると、受付席に座っていた女性もにこやかに返す。
遅れて俺が挨拶すると、驚いたように視線を向け、すぐに微笑んで返してくれた。
受付は二十代後半くらいの、いかにも事務職という小綺麗な人だった。柔らかい笑顔と右耳に付けたピンクゴールドのイヤリングが特徴的だ。その服装は黒のビジネススーツで、外でも見慣れているはずなのに、まるで喪服のような印象を受けた。
入場手続きは簡単なもので、氏名と生年月日、職業のほか、入場目的を紙に書くのみだった。受付の女性はさっと内容を確認してから、ゲスト用の入館証を手渡してくれた。
「ご礼拝でしたら、まもなく開始となります。十二階本殿へお向かいください」
と促されつつ、入場ゲートにゲストカードをかざし、通過した。
「ご礼拝?」
受付まで声が届かない距離になったのを見計らい、藤枝先輩に尋ねた。
「十二階にご神体があって、それを崇めたり、感謝を伝えたり。見慣れていないと少し異様に感じるかもしれないけど、そこまで派手な催しではないわ」
「先輩は、それに感銘を受けたとか?」
「ないわね、ない。こういうものか、というだけ。でも今まで、宗教ってあまり触れてこなかったから、ある意味新鮮で面白いとも言えるわね」
社会勉強よね、などと先輩は気楽そうに言った。
慣れていない俺はと言うと、心臓が痛いほどに高鳴っていた。隣を歩く先輩に心音が聞こえやしないかと、内心ひやひやしていた。
それに、なんとなく。どこまでも続く黒は、静謐ではあるが、どこか閉塞的で。常に何か、疎外感のようなものを感じさせてくる。
「ご神体っていうのは? まさかりんごじゃないですよね?」
「そのまさかよ。女神風の像が、天高くりんごを掲げてるわ」
まじかよ、と仰け反りそうになるのを、なんとか堪える。宗教色の薄いお国柄であっても、その総本山で礼を欠くような真似は流石にできない。信心深い人、その教えに実際救われた人だっているのだろう。それは紛れもない事実であり、部外者が揶揄していいことではない。
「そんなに構えなくていいわ」
すごい顔してるわよと、先輩は軽く微笑んだ。
「出てますか、顔に」
「そうね、まるで敵の本拠地に潜入するスパイみたい」
まさか、などと笑って、先輩の冗談を返したが。よくよく考えてみれば、まさにそういう状況を想定していたのではなかったか? と、今更ながら思い至って、血の気が引いた。引き返そうと思って引き返せる段階は、とっくに過ぎている気がする。
そもそも俺は、悠助と一星を探しにきたのだ。あの二人が、この先にいる可能性はあるだろうか? 仮にりんご教とVAXとの関連を見込んでいたとして、いきなりここまで踏み込むなんてするだろうか?
『まあ、行けそうなら行くんじゃない?』
と、脳内悠助がケラケラ笑いながら言った。確かにアイツならやるだろう。そしてセキュリティなどものともせず、さらっとやり遂げるだろう。そうだとしても、俺がそれを追いかける必要性はない。どうあれ俺に、ここで果たせる役割はないのだ。
というか、成り行きとは言え、りんご教には近づくなという、鬼贄さんの忠告を俺が裏切ってしまった。次会うときには謝らなくてはならない。
「こういうところで働いている人だっているのよ。野宮君、ご両親は何をなされているの?」
「教師と、スポーツトレーナーですが」
「どちらも教導者なのね、とても立派だわ」
でも、と言ってから、先輩は一拍置いて、
「蛙の子が蛙とは限らないんだし。貴方が貴方だけの将来を見つけるためにもね、いろんな人と出会うことを、今は大事にすべき。少なくとも、私はそう思うわ」
藤枝先輩は言って、長い髪をさらりとかきあげた。
無性に恥ずかしくなる。先輩の言葉は、思いやりに満ちたものに感じられた。俺の将来の事を、こんな風に心配してくれる。本当に、誤解されがちなのが惜しいほどに、得難い先輩だ。
一星たちのこと。鬼贄さんのこと。どちらも大事だが。藤枝先輩の好意も、俺は無視したくない。覚悟を決めて、この先へ進む両足に力を込め直す。
そうだ。たとえVAXとのかかわりはないのだとしても。俺がここに来た意味はある。いや、ここに来た意味を、俺が見つけ出さなくちゃならないんだ。それは誰より、俺自身のために。
「藤枝先輩は、将来どうするんですか?」
「将来――進路ということ?」
はい、と返す。
進学先、将来の夢。そういった話を、そう言えば先輩とはしたことがなかった。
一年上の先輩ということは、間もなく高校三年生。まさしく人生の岐路に差し掛かっている頃合いだ。だからこそ俺に対しても、ああいった気遣いをしてくれたんだろう。まだ一年だからって油断していると、そのときはあっという間に来るぞ、という意味合いで。
「私は、そうね。まずは進学。年明けの模試の結果を見て、志望先も固めるわ」
それはそうか、と頷く。聞いた話、先輩の成績は学年内で五指に入る。風紀委員の仕事もそつなくこなし、学外でも後輩のことを思いやり、さらに学業も疎かにしない。本当に、尊敬に足る先輩だ。
「じゃあ、学部は決まってるんですか?」
「ええ。医学部に」
先輩は、まっすぐに前を見て、言う。
どこか遠くを見ながら、言う。
「将来、私は医者になりたいの」
後
八階まで乗ってきたものとは別のエレベーターに乗って最上階へ上り、再び黒い通路を歩いた。
そして、たどり着いた終着点。映画館のような両開きの扉をくぐると、空気が明らかに一変した。
その部屋は、広さとしてはバスケットボールコート一つ分くらいだろうか。奥行きのあるアリーナがあり、両サイドの二階部分にはキャットウォークが見える。
壁も床も黒一色なのはここまでの通路と同じだ。その上で、ここには窓が一つもない。地上十二階のビルの中にあって、その景色を楽しもうという趣向は一切ないようだ。
一歩踏み入れて、まず明らかに匂いが変わった。恐らく換気は行き届いているのだろう。湿気やカビ臭さは一切なく、むしろ澄んですらいる。だが、これは香だろうか、かすかに甘ったるい匂いが鼻孔に溶ける。
変わったのはそれだけではない。肺に満ちる重苦しい空気。澄んでいるはずなのに、どこかから漂う異物感、重苦しいさ。その正体は分からないが、しかし目の前に広がっている光景が原因なのだと、断定するのに迷いはなかった。
八列に直立する、黒い人影。それが各列につき十人ほど連なっている。つまり八十人前後の大人数が、アリーナに整列している。
影と感じたのは比喩ではない。並んでいるすべての人間が頭から黒い外套を被り、こちらに背を向けているのだ。八十人の影の隊列。学校の集会で見慣れた光景にも近いが、感じる印象は葬儀に近かった。
そして、その集団の向く先に、件の女神像はあった。それは精緻で、神々しさすら感じる芸術作品。本当にりんごを掲げた大理石の像で、徹頭徹尾暗いこの空間においては、比喩ではなく、五光が滲んでいるようにすら思えた。
視界の端で、藤枝先輩が手招きしているのを見た。出入り口で棒立ちしていたことにようやく気付き、慌てて先輩を追う。
先輩に倣い、アリーナ後方の隅に陣取る。誰に言われずともすり足気味になり、自分の呼吸音にすら気を遣う。何か大きな物音の一つも立てたら、並ぶ全員が一斉にこちらを向きそうで、正直怖かった。
先輩の方を見ると、いつもと変わらない様子で隊列を眺めていた。そんな先輩が隣にいてくれたのは本当に幸いだった。
当たり前だが、先輩は初見ではないのだろう。これから何が起きるのかを知った上で、気構える必要はないと言ったのだ。今はそれを信じる他ない。
そうして向き直った、そのとき。
俺たちも通った入り口から、鉄を打つような音が繰り返し響いた。
徐々に近づいてくるそれが、人の足音であると認識したのも束の間、アリーナの証明が徐々に明度を失っていった。
仄白い明かりだけの一室、冷たい夜のように静まりかえった空間に、その人物は迎え入れられた。
大柄で、ガタイの良い男だった。短い白髪には風格があり、笑みを浮かべた顔全体に刻み込まれた皺が、勲章のように輝いて見える。ケープ付きの司祭服は質素な黒だが、首から掛けた帯は血のように赤黒く、そして煌びやかな刺繍が施されている。
暗転した視界にもかかわらず、こうしてその人物――司祭の姿がはっきりと見えるのは、スポットライトの影響だった。死に体の心音のように響く足音とともに、ゆっくりと歩く司祭を、一筋の光芒が追従している。
すれ違い様に、司祭は一瞬、俺と先輩に視線を投げる。思わず奥歯を食いしばる俺を、司祭はまるで慈しむように、穏やかに笑った。そして、何事もなかったかのように、再び歩き出した。
八十人の信徒たちは、微動だにしない。あるいはすべて人形なのではと思うほど、そこに生き物の気配はなかった。ただそこにそびえる柱のように、司祭の歩みを見守っていた。
やがて、司祭はアリーナの最奥、女神像の前までたどり着き、そして静かに振り返った。
「今再びこの地に集い、女神の威光を仰ぐ栄誉を賜れたことに、深き感謝の意を」
両手を広げる司祭に促され、信徒たちは深々と頭を垂れた。
俺も一礼くらいすべきかと迷ったが、隣の先輩はじっと立ったままだったので、静かに息を吐くのみに留まった。
「どうぞ、楽になさるといい」
その言葉で、信徒たちは姿勢を戻した。だから、そのための合図だと思ったのだが。司祭が俺たちの方を見て微笑んでいることに、少し遅れて気がついた。
「林檎を掲げし女神は、衆生を分け隔てなく愛します。我らと道を進むもよし、己が道を往くもよし。その苦難の道のりを、女神よ、いずれ降り注ぐ祝福にて照らしたまえ」
言いながら、司祭は女神像を仰ぎ、両手を掲げた。
その後も、司祭は同じ調子で呪文のような言葉を紡ぎ続けた。
言葉の意味は分かるものの、難解な単語や言い回しで躓き、解釈に戸惑っているとすぐについていけなくなった。
恐らく内容は、女神の愛への感謝と、やがて来る新世界への解脱を祝う、そんなようなものだった、と思われる。
たっぷり一時間くらいそうしていただろうか。アリーナに明かりが戻り、わずかなざわめきが耳に入った。
見ると、八十人の信徒たちの大半がフードを外し、大きく溜息をついたり、肩を回したり、小さめの声で談笑したり、思い思いに動き始めていた。年齢層はまばらだが、みんな一様に笑みを浮かべている。
本当に、これまでの不気味さはなんだったのかと思うほどだ。遊園地のお化け屋敷から抜け出て、青空の下に出た瞬間を思い出す。否応なく安堵する。悪夢から覚めたようだった。
「お疲れさま」
ええ、と藤枝先輩に相槌を打ちつつ、司祭の姿を追った。女神像の前から消えていると思えば、信徒の何人かと親しげに話をしているようだった。今日のご礼拝とやらは無事に終了したらしい。
「感想を聞いても?」
「英語のリスニングみたいだったなと」
「そう。深くは聞かないでおくわ」
先輩にも通じたようで安心した。内心呆れられているかもしれないから、やはりもう少し勉強はしようと、改めて思い直す。なんとしても、悠助から英語のコツを聞き出さなくてはならない。
「このあとはどうする? 折角だから、ボランティア活動もやっていく?」
そうですねと、検討するポーズをとりつつ、かなり乗り気だった。考えているのは一星と悠助のことで、合流後にどう説明したものかと思案していると、
「どうも、お疲れさまでした」
不意に、横から話しかけられた。
「お時間、よろしいですかな?」
振り向いた先で、あの司祭が立っていた。




