TVIR&GNXR 8
エレベーターで一階だけ下り、また別の黒い通路を抜け、応接間と札の書かれた部屋に通された。
入室した途端、あまりの明るさに目が眩んだ。部屋の奥の壁は一面ガラス張りになっており、あのアリーナには一つもなかった外の景色が映りこんでいた。
「今日はいい天気ですな。こんな日は日向で、本でも読んでいたい気分になる」
手庇をしながら、司祭はゆっくりと、中央の応接スペースまで歩いた。それが司祭の自然な歩調なのか、こちらの目が慣れるのを待ってくれているのかは、定かではなかったが。
応接間は、十畳よりやや広いくらいだろうか。中央の四角い長机と、それを取り囲むソファ三つで構成されている。ソファは手前に三人掛け一つ、奥に一人掛け二つである。
右手側の壁には油絵が、左手側の壁には雲海とご来光の写真が飾られている。そのほか、棚やら調度品やら、どうも校長室を彷彿とさせる部屋である。
「まあ、お二人ともお掛けなさい」
司祭は三人掛けのソファの手前で、俺たちを奥のソファへと促した。
ボランティアには遅れて行けばいいと、藤枝先輩も一緒に来てくれている。しかし、先ほどのご礼拝とはまた別の緊張が拭えない。一瞬、両の足のどちらから踏み出せばいいか、本気で迷ってしまったほどだ。
そもそも、なぜ応接間になど通されているのか。恐らくはりんご教で最も偉いのだろう司祭が、会員でも何でもない俺をわざわざ呼び止める理由はなんだろうか。まさか、直々に布教しようというほど、暇なわけでもないだろうに。
何度か、助けを求める意味で、俺の右側に座った先輩に視線を送った。
しかし、先輩はじっと正面を見つめたままだった。真一文字に閉じられた口元は、なかなか開く気配を見せない。
「名乗るのが遅れて申し訳ない」
三人がソファに座ったところで、司祭は深々と頭を下げた。そうして初めて、白髪の頭頂部が視界に入った。
「わたくし、りんご教にて司祭を務めさせていただいている、九尾 稔侍と申します。そちらは――」
「野宮君、同じ高校の後輩です」
俺が挨拶する間もなく、藤枝先輩が紹介してくれた。俺が話しやすいよう、気を遣ってくれているのだろう。
「やあ、やはり藤枝さんの後輩でしたか。礼儀正しく、爽快そうな青年だと思いました」
くすぐったさを跳ね退けるイメージで「ありがとうございます」と返す。ほとんど条件反射で、声量の加減を誤ったかと一瞬焦ったが、
「元気でよろしい。こちらまで若返る気分ですよ」
九尾司祭は愉快そうに笑う。
それと同時に、出入り口の扉からノックの音が聞こえた。
びくりとそちらへ視線を向けると、扉の向こうから現れた人と目が合った。
先ほどの受付の女性だった。高級そうなティーカップを三つ、手にしたお盆に乗せている。
「お二方とも、急にお呼び止めして申し訳なかった。さぞ驚かれたことでしょう」
言ってから、司祭はティーカップを配膳した女性に礼を言った。
続けて女性は、俺の左側から、俺と藤枝先輩の前にもティーカップを置いた。目の前で、あの片耳だけのイヤリングが揺れ、それが妙に印象に残った。
「いえ。でも、俺に何かご用でしたか? もし何か、知らないうちに失礼なことをしていたら――」
「ああ、いやいや」
違うのです、と司祭は大げさに手を振って、
「お二人にはまだ縁遠い話でしょうが。この歳になると、将来の事が色々と心配になる頃でして。なるべく長く、健やかに過ごすため、日々刺激を求めているのです。停滞は後退であるなどと申しますが、我々からするとこれがなかなか、致命的なわけですな」
「はあ」
流石に返答に困った。本人は楽しそうに話しているが、非常に触れづらい話題だ。
視線を泳がしていると、入り口扉の前でお盆を抱え、受付の女性が苦笑しているのが見えた。司祭の自虐ネタは、最近の十八番なのかもしれない。
「ですからまあ、あまり気負われぬよう。若者と語り合いたい年寄りの、まあ妄言と受け取っていただければ」
「いえ、そんなことは。ご立派な心がけだと思います」
差し出がましいかとも思ったが、素直に気持ちを口にした。
死んだ祖父の姿が重なる。もう十年近く前の話、記憶もおぼろげだが。俺たち孫に手を焼いてくれたあの人が、どんなことを考えてそうしてくれていたか。あの人の死後、無駄と分かっても、想像しようとしたことは何度もあった。
それは、焦りだったのか。悔いを残すまいとしていたのか。あるいは、それ以外か。きっと、今の俺には想像し得ない、しかし確かに存在する感情が、そこにはあるのだろう。
敬意を表する。先人へ向けるその行為に、間違いなどあるはずがない。
「本日は、見学に来られたのですね」
いっそう顔の彫りを深くして、司祭は言う。
「宗教にご興味が? それとも、藤枝さん同様、ボランティア活動ですかな?」
「興味というか、気にはなっていました。以前、会員の方からパンフレットを頂いて」
「ほう、それはそれは」
事実ではある。が、言葉が完全に入信希望者のそれだと気づき、すぐさま丁寧に否定する。
司祭は、気を悪くした様子一つ見せず、「そうでしょうとも」と何度も頷いた。
「よいのです。寄りかかる標とは、万民に必要なものではない。興味本位、結構ではないですか。本当に怖いのは、悪感情を向けられるより、無関心でいられることです。この膨大な社会において、自身が何者であるかの確信を得られないことの、なんと恐ろしいことか。興味関心を持たれない、惹かれないとは、相手にとって自分が、透明人間であるということと同義です。到底、耐えられるものではない」
司祭の言葉には重みがあった。含蓄を感じるというか、説得力があった。服装も、姿勢も、話しぶりも、目を離せないものがある。あるいは、こういうものをカリスマ性と呼ぶのかもしれない。
「しかし、野宮君と言いましたか」
司祭は穏やかな視線で、俺をしげしげと見つめて言った。
「何か悩みがあるようだ。まるで山中を、地図もなしにさまよっている、そんな顔をされている」
「それは」
「いやなに、深く探ろうなどとは言いません。老若男女、生きていれば悩みの一つや二つ、あって当然ですから」
言ってから、司祭は瞑想するように目を閉じる。
まるで、心の声を聞かれているような気がして、知らず息を止めてしまった。
「恐れなくてよい。老婆心ながら、言えるのはそんなところです。存外人とは死ににくい。取り返しの付かない失敗も、失意も挫折も後悔も絶望も、力に変えて生きてゆける。人とはそうした、ある意味たくましく、貪欲でありつつ、ある意味傲慢な生き物なのです。時に、失った以上ものをも切り捨てる決断さえ――」
そこまで言ってから、司祭は一つ咳払いをして、照れくさそうに笑う。
「いけませんな、年寄りはすぐに説教臭くなる。老人のお節介をお許しください」
「いいえ、ご忠告ありがとうございます」
司祭は目を細めて、「こちらこそ」と軽く頭を下げた。
実際、お節介だなどとは思わない。行動しなければ解決しないことすら、怖くて手が出せない。そんなときこそ、司祭の忠言は背中を押してくれるだろう。
山中を、地図もなくさまよっている。それは、悠助たちを宛もなく探しているという現状を言い表した、わけではないだろう。
もっと違うところ、心の奥底で、何かがずっともやもやしている。
違和感。俺の行動原理はいつも単純で、俺は俺の思うとおりに行動しているはず。
そのはずなのに、何か。説明できない何かが、俺の中に巣くっているような。そんな気がしてならないのだ。
「本題に入りましょう。お二方に、少し見ていただきたい物がありまして」
そう言ってから、司祭は懐から名刺のような物を取り出し、テーブルの上に置いた。
俺と藤枝先輩が覗き込むと、藍染めの色紙で作られたそれが、ただの名刺でないことは明白だった。
そこには、シルクハットを被った鍵のイラストが描かれ、さらにこんな文字が書かれていた。
『次のFHAQNLの二十三時、神聖なる女神のNCCYRを頂戴する。十三番目の鍵を携えて待つといい。怪盗レッドより』
俺と先輩が同時に顔を向けあい、目の前の物の理解が遅れてしまった。
それは紛れもなく、病院のニュース番組で見た、最近巷を騒がせている怪盗の犯行予告、そのものだった。
「怪盗レッドって、ニュースでやっていた?」
「まあ、いたずらという可能性もあります」
俺の問いに答えた司祭が、眉間を押さえて天を仰ぐ。
「新興宗教というのは、何かと奇異の目を向けられてしまうものです。そうすると時々、そういったいたずらも受けるものでしてね。一応警察にも届け出てはおるのですが、まあ半ば、いたずらに過ぎないだろうと」
司祭は自嘲気味に笑って、ティーカップの中身を啜った。
俺と先輩も、それに習ってティーカップを仰ぐ。中身は鮮やかな赤茶色の飲み物で、林檎の甘酸っぱさの強い紅茶だった。
「噂の怪盗が現れるとなれば、それは大事件でしょうが。いつ、何を狙っているのかすら分からないのでは、警察とて動きようもないでしょう」
確かにそのとおり、だとは思ったが。警察というと一内さんの顔がチラついて、単にサボっているだけなのでは、と思ってしまう。当然、断じてそんなことはない。普通のお巡りさんは、きちんと真面目に働いている。逆に、だから忙しくて、不確定情報で動けないというのはあるだろうが。
「何か、心当たりは?」
思案しながら、手探りで聞いてみる。警察の代わりになれる訳ではないが、それで司祭の気持ちが晴れるなら、無駄ということもないはずだ。
「高価な芸術品で、女神のナントカ、みたいな名前の」
「ありませんな。女神と言えば、先ほどの礼拝で祈りを捧げた女神像でしょう。あれは確かに二つとない一点物で、我らにとっての拠り所であり、大切な品ではあるのですが。それ以外の者からすれば価値もなく、売って大金になるようなこともありますまい」
ああいった像の相場など分からないが、何億という値でも付かない限り、危険を冒して窃盗を図る意義があるとは思えない。もちろん、相手が金目当ての盗人であれば、という話ではあるが。
「FHAQNL、NCCYR……文脈を考えれば、前者が日付、後者は盗む対象、ということになるけれど。こんな単語は見たことないわね」
と、藤枝先輩も腕を組んで、予告状を見つめている。先輩が言うならば、俺が無学で、単語を知らないというだけではないのだろう。
「それと、十三番目の鍵、というものも現状謎ね。もっとも、ターゲットさえ分かれば、それを保管している鍵だとか、連想することもできるのでしょうが」
やはり、暗号か何かだろうか。だとしても、俺には何も分かりそうになかった。そのことを告げると、司祭は目に見えて肩を落とし、
「我々も見当がつかず、さりとて真偽も分からぬまま公表してしまうのもリスク。正直お手上げでして、若いお二人にもご意見賜りたかったのですが……」
そこまで言ってから、司祭は「ああ、いえ」と自ら遮り、
「お二人を責めているわけではないのです。誤解を招く物言い、申し訳ない」
「いえ、力になれずすみません」
配慮してくれてはいるが、司祭の微笑みの裏に落胆があることは事実だろう。多分、色々と検討した後で、藁にも縋る思いで、俺たちに声をかけたのだろうに。
その表情が気の毒で、つい余計な一言が口に出る。
「一人だけ、解決できそうな人物を知ってます」
「ほう、本当ですか?」
「ええ、友人で。暗号であれば、どんなものであれ解読してくれると思います」
藤枝先輩が横目で、じっとこちらを見つめている。見せてもいないのに、そこまで言っていいのかと、疑っているのだろう。
携帯電話をポケットから取り出し、画面を見ようとして、電源を落としていたことを思い出す。電源ボタンを長押しして、短く振動するのを感じながら、再びポケットに仕舞った。
まだ確認はできない。けれど、ほとんど確信している。これまでの経験が、奇跡とすら言えるほどの未来を、容易に思い描かせる。あいつなら、この予告状を見せさえすれば、下手をすれば一瞬で、答えを導いてしまうだろう。
そう思った矢先。ポケットのケータイがうるさく振動した。




