1-5 映るシルエット
長くなったので分割しました。
今日中にもう1話アップするかもしれません。
「おはようございます」
蓮と平井は、どちらからともなく朝の挨拶を交わした。
すっかり慣れたやりとりのはずなのに、今日はいつもと違って、蓮の表情は自然と引き締まる。
蓮は車椅子に座ると、平井に押されて病室を後にした。
廊下を移動してしばらくすると、リハビリ室と書かれた入口の前で止まった。
蓮にわずかな緊張が走る。リハビリ室に入った瞬間、空気が違うのが分かった。
天井の照明は病室より少し明るく、冬の陽射しが大きな窓から斜めに差し込み、床に描かれた薄い模様が揺らめく。
室内では、数人が歩き方を練習し、足を持ち上げ、器具に触れていた。
その動きひとつひとつが、蓮の目には、自分がやるべき未来の動きのように見えていた。
ここまで車椅子を押してきた平井が、蓮に声を掛ける。
「無理しないでくださいね」
平井に続いて、理学療法士が今日のメニューを告げた。
「今日は身体を動かした時に、どこかに違和感がないかの確認をしましょう」
蓮はうなずき、用意されたリハビリシューズへと履きかえた。
蓮が手すりの前まで移動したのを確認すると、療法士が次を促す。
「まずは手すりをしっかりと持って、ゆっくり立ち上がってください」
蓮は、言われた通り手すりに手を添えると、恐る恐る立ち上がった。
その瞬間、足の裏から重さが伝わり、膝の角度が微妙にズレていることが分かる。
蓮がわずかによろめいたところを、療法士がすぐに横から支えた。
「ゆっくりでいいですよ。体がどう変わったかを知るところからです」
蓮は、手すりを握り直し、恐る恐るその場で足踏みをした。
すると、身体は動かせたものの、自由自在とはいえず、少しばかりの痛みと違和感を伴うものとなった。
床を踏み締めるたび、床の感触が足先から身体を通り抜けていく。
筋肉の張り方も骨盤の動き方も違う。
軽く背中を伸ばすだけでも、身体の内部にひとつひとつ筋が通るような、慣れない伸び方をした。
指先まで神経が伸びるような感覚は、自分の体なのに、まるで誰かの手足を借りているみたいだった。
まだ完全には慣れない体。
それが、自分のものだと頭では理解していても、動かすたびにむず痒くなる。
立って座ってを何度か繰り返し、少し休憩を挟んだ。
椅子に腰を下ろして外に目を向ける。
窓の外には葉が落ちた木々と小鳥が一羽。
留まって羽を休めていた鳥が飛び立った拍子に、枝先が揺れる。
静かに揺れていた枝は、ゆっくりと揺れを小さくしていき、やがては動きを止めた。
その枝先の揺れが、今の自分とシンクロしているような、不思議な孤独感を抱えたまま、一日目のリハビリは続いた。
太ももが熱を持ち、膝の後ろがつりそうになり、肩甲骨のあたりにじんわり汗が滲む。
初日は無理をせず、ただ自分の身体を知る。
それだけのはずなのに、蓮にとっては知らない世界を漂っているようだった。
前みたいに動けるようになるのか。
動けるようになったとして、どうやって生きていけばいいのか。
ふと、そんな考えが浮かんでは消える。
誰かに答えをもらえるわけじゃない。
前を向くしかないんだと、自分に言い聞かせた。
蓮がリハビリを終えて病室に戻ると、蓮の帰りを待っていた明美が問いかける。
「リハビリ、どうだった?」
「まあ……動けてはいるかな。違和感はあるけど」
心の奥で燻っている不安を掻き消すように、少し強がって見せると、隣に腰を下ろした明美は頷いた。
「そう、それならよかった」
微笑みながらそう話す母の声は温かく、幼い頃から変わらない。
見抜かれているのだ。
強がりの奥にある不安を。
そう思うと、蓮は恥ずかしくなって反射的に目をそらした。
その日の夜。
蓮は、静かになった病室で一人、天井をぼんやりと見つめていた。
両手を頭の上でゆるく組むと、頭の中に残るざらつきがゆっくり浮き上がってくる。
変わった自分と向き合うのは、まだ少し怖い。
だからこそ、これまで鏡を見ることを意識的に避けていた。
鏡を直視するにはまだ勇気が足りないが、そろそろ前を向くべきだと自分に言い聞かせる。
蓮はゆっくり体を起こし、僅かな震えを抑え込んで、電源の入っていないスマートフォンを手に取っあ。
薄暗い病室の中で、何も映していない画面に微かな明かりがにじみ、その淡い反射に、自分の影が浮かんでいた。
画面に反射されて映る細い輪郭を見た瞬間、心臓が小さく跳ねる。
その姿は真っ黒なシルエット、床へと伸びる影を見ているのとほとんど変わらない。
けれど、肩のラインも首の細さも、以前とは違うことが見て分かる。
画面越しの姿は、無言で蓮を見返してくる。
蓮はゆっくり息を吸い、胸の奥に沈んでいた不安と戸惑いにそっと触れた。
「……これが、俺なんだ」
つぶやいた声は確かに自分のものだ。
前を向き始めたはずなのに、その響きにはまだ微かな迷いが混ざる。
スマートフォンを置くと、再びベッドに体を預け、そのまま静かに目を閉じた。




