1-4 親友
綾香との再会から、数日が経っていた。
まだぎこちなさが残る身体は、蓮の思い通りには動いてくれない。
そのたびに、蓮は自分の身体が変わってしまったことを否応なく思い知らされた。
変化を実感すればするほど、その姿を目で確かめることが怖くなる。
だから、蓮はいまだに鏡を見ることができずにいた。
鏡の中の自分と向き合うには、まだ勇気がたりなかった。
今はただ、この身体で息をしているのも、こうして物を考えているのも、間違いなく自分自身なのだと、何度も心の中で言い聞かせるしかない。
ふと、蓮は窓の外へ視線を向けた。
朝からぐずついていた空は、窓ガラスに水滴を作っていく。
その水滴が集まり、一筋の雫となって流れ落ちていく様を、蓮はしばらく黙って目で追っていた。
やがて視線を手元へ戻すと、指先でシーツの皺をゆっくりとなぞる。
病室に響くのは、時計の秒針と遠くから聞こえる人の気配だけ。
時間の流れが、いつもより遅く流れているように感じられた。
そんな日の午後、病室のドアが勢いよく開いた。
快活な足音を響かせ蓮に近寄るのは、一之瀬悠真。
蓮からは見上げる形になる、180センチ近い身長。
無駄のない引き締まった体つきに、短く切りそろえられた前髪からのぞく健康的な肌が、スポーツに打ち込んできたことを一目で感じさせる。
「よう、蓮! 元気してるか?」
「元気だよ、悠真は?」
「俺は、見てのとおりだな」
悠真はいつも通り、大きな声で笑う。
しかしその目の奥には、心配の色がうっすらとにじんでいた。
後から入ってきた綾香が、苦笑交じりにたしなめる。
「一之瀬くん、入るときはノックしようよ」
「おっと、そうだった」
「あと、病室だから、もうちょっと落ち着いてね」
綾香の指摘に、悠真は頭をかきながら、それでも笑みを崩さない。
蓮はその姿に、肩の力がふっと抜けた。
彼らが入ってきた瞬間、室内が明るくなる。
「……なんか、悠真、相変わらずだね」
「当たり前だろ。俺は俺だ。お前の方は、ちょっと……雰囲気変わった?」
「まあ、いろいろあったからね。でも少しずつ慣れてはきてるよ」
「……そうか。でも、なんか、ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ちょっと不思議なだけ」
「そっか。なら良いんだけどな」
悠真は照れ隠しのように笑って、いつもの調子を取り戻した。
綾香が微笑む。
「こうやって話してるの、なんだかほっとするね」
「うん。学校みたいだ」
蓮も明るく答えた。
悠真はベッドに腰を下ろし、話を切り出した。
「なあ、大会、見に来る約束してたの覚えてるか?」
「覚えてるよ。地区予選は応援に行けるか分かんないから、予選は突破してよね。そしたら、関東大会は行ってあげるよ」
「優勝してやるから期待して待っとけ」
「さすが、努力してるんだね」
「おう、さすがに優勝は冗談だけど、努力だけは自信ある」
悠真はあっけらかんと笑いながら、胸を張った。
二人のやりとりを見ていた綾香が、それを見て言った。
「ほんと、ポジティブだね、一之瀬くんは」
「お褒めにあずかり、光栄です」
悠真がそう茶化すと、三人の笑い声が、白い病室に溶けていった。
まるで普通の時間が戻ってきたような感覚は、蓮にとって、ずっと張りつめていた心を解かしてくれた。
綾香はふと思い出したように立ち上がり、紙袋から果物ゼリーを取り出すと、病室の冷蔵庫へ向かう。
「ゼリー、冷蔵庫に入れておくね。放送部のみんなから」
その後ろ姿を見ながら、蓮は僅かに体を起こし、息を漏らした。
「ありがとう。……そろそろ学校のことも考えないとな」
ぽつりと漏らした蓮の言葉に、綾香は振り返って、緩やかに首を振る。
「とりあえず今はまだ、心配しないで良いんじゃないかな」
すぐそばで椅子に座っていた悠真が、肘を膝にかけたまま口を開く。
「どうせ、もうじき春休みだし、ついでに2年の一学期も休んじゃえよ」
「それじゃあ流石に留年しちゃうよ、放送部の皆にも迷惑かけちゃうし」
蓮が苦笑すると、悠真は肩をすくめてみせる。
「それもそうか。まあ、俺もお前が教室にいないとつまんねえし、来てくれる分にはありがたいけどな」
綾香はその軽口に小さく笑い、蓮の枕元の布団を整えるように手を伸ばした。
「身体のこともあるし、ゆっくり考えようよ」
「そうだね」
蓮は頷き、ふと何か思い出したように顔を上げた。
「あっ、そうだ、クッキーありがとう。美味しかった」
先日の礼を口にしたその瞬間、横から悠真の声が飛んできた。
「蓮、俺の分は?」
「もうないよ」と、素気ない返事をする。
すかさず悠真が「おーい、俺にも取っておけよ」と大袈裟に残念がった。
蓮が言葉を返す前に、綾香がくすっと笑って言った。
「今度は一之瀬くんの分も用意しておくから、今日はゼリーで我慢しよっか」
「おっ、篠原さんありがとうございまーす」
わざとらしく礼を言う悠真に、蓮も綾香も吹き出した。
やがて面会が終わる時間が近づく。
「あっ、もうこんな時間。じゃあ、蓮くん、また来るね」
綾香が立ち上がり、コートを羽織った。
「うん、またね」
蓮は綾香に向かってそう言うと、手を振って見送った。
すぐに、視線だけ悠真に移して続ける。
「悠真、よろしく」
悠真は、蓮に応えるように立ち上がった。
ブルゾンのファスナーを閉めると、蓮に向かって「了解。じゃあな」と言いながら軽く手を上げる。
蓮も、「サンキュ」と短い言葉で返すと、同じように手を上げた。
悠真は、廊下へと足を踏み出しながら声を出した。
「篠原さん、俺も帰ります」
二人が病室を出ていくと、扉の向こうから綾香の小さな声と、悠真の大きな笑い声が届く。
その音が遠ざかるのを、蓮はしばらく聞いていた。
前と同じように話してくれる人たちがいる。
それだけで、自分が確かにまだここにいる、と思える。
両親とはまた違った優しさに、胸の奥がほんのりと温かくなっていた。
二人を見送ってしばらくすると、控えめなノックが聞こえ、今度は辻村と明美が入ってきた。
辻村はカルテを手に、口を開く。
「佐倉くん、体調は安定しているね。ただし体質変化の原因はまだ不明だ。当面の間は慎重に身体を動かしながら、経過を見よう」
明美が真剣な表情でたずねる。
「今後はどのように……?」
「はい。リハビリを開始しましょう。筋肉や姿勢のバランスが変わっていますから、徐々に慣らしていく必要があります。二週間後くらいを目安に退院を目指しましょう」
「わかりました」
明美は、不安そうな面持ちで頷いた。
「大丈夫だよ。俺、ちゃんとやるから」
蓮は、少しだけ声を張ってそう言った。
「うん、くれぐれも無理はしないようにね」
医師は安心させるように微笑んだ。
ひと通り話し終えると辻村が去り、明美が静かに息をつく。
「蓮……少しずつ、ね」
「うん」
ベッドにもたれながら、蓮は目を閉じる。
家族、それから友人の姿が瞼の裏に浮かんだ。
きっと、大丈夫。
そう思えたのは、みんなが変わらずにいてくれるからだ。
そんな変わらない日常が、自分を足元から支えてくれている。
蓮はほっと息を吐いた。




