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佐倉蓮の変わらない日常  作者: 八千三百
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18/20

2-5 悩みと向き合って

今回少し長めです。

 来た道を戻り、家の玄関を開ける。


「おかえり」


 明美が声をかけた。


「ただいま」


「早かったね」


「……ちょっと疲れちゃって」


「そう。少し休んでなさい」


 明美は何かに気づいた様子だったが、それ以上は聞かなかった。


 蓮は部屋へ戻り、ベッドに倒れ込む。

 ぼうっと焦点を合わせないまま天井を見つめ、考え込んだ。

 今まで忘れていた――いや、あえて頭の隅に追いやっていた問題が、目の前に突きつけられたようだった。

 昨日のプリントの内容を思い返す。

 プリントには、二年生の準備について記載されたものが多かった。

 事故に遭ったのは期末テスト直後で、出席日数が十分だったことも幸いし、二年生へ進級していたことは聞かされていた。

 でも、そんなことはさして問題ではなかった。


 男から女に変わったなんてこと、学校のみんなにはどう説明するんだろう。

 不安どころの話じゃない。絶対に変な目で見られる。

 いっそのこと、もともと女だったことにする?

さすがに無理だ。

 今までのことが矛盾だらけになる。


 それとも、このまま何もなかったかのように男として学校に戻る?

 それもできない。

 学校内で生活していれば、いつかバレるに決まっている。


 じゃあ、今の俺を見て、佐倉蓮だと気づかれなかったら?

 もし、特進科から普通科にクラス替えすることができれば、俺のことをあまり知らない人たちとの間でなら、普通に学校生活を始められるのかもしれない。


 でも、それじゃあ、今までの友達とはどうなるんだ。

 俺は、今までのことをなかったことにしたくない。

 ただ、みんなが今の俺を見て、どう思うのかが分からない。


 現実逃避しているうちは、妙案が浮かぶはずもない。

 プリントに書かれた文字を目で追いかけても、思考はぐるぐると渦を巻くばかりだった。


昼食の時間が近づき、自室からリビングへ移った蓮は、明美に聞いてみることにした。


「俺ってさ、前の面影ってそんなに残ってるかね?」


「もちろんよ。蓮は蓮だもの」


「いや、そういうことじゃなくてさ。傍目から見て、今の俺ってどれくらい男に見えて、どれくらい女に見えるかってことなんだけど」


 蓮は一度頭を振り、真剣な眼差しで尋ねた。


 その様子を見て、明美も家事の手を止め、居住まいを正して向き合った。


「今の蓮は、女の子にしか見えないわね」


「男には全く見えない?」


「……そうね」


「じゃあ、前の俺は? どう見えてた?」


「もちろん男の子だったわよ。ずっと昔は女の子に間違われることもあったけど、中学に入ってからは、それもなくなったかしら」


「だよね。もう一ついい?」


「なあに?」


「ほかの人たちから見たら、変わる前と後で同一人物だと思うかな?」


「私たちみたいに、よく見ていた人は気づくかもしれないけど、よほどのことがない限り、気づかないでしょうね」


「……そっか」


 蓮は自分の手を見つめた。

 自分では、名前も記憶も変わっていない。

 姿が以前と違っていても、蓮が蓮であることに変わりはなかった。

 けれど、周りの人間にとっては違うのかもしれない。


 気づかれなければ、今の姿を当たり前のものとして受け入れてもらえるのだろうか。

 それでも、悠真や綾香に、今までの蓮ではない誰かとして接してほしいわけではない。 

 蓮のままでいたい。

 ただ、周りがこの変化をどう受け止めるのかが分からなかった。


「……ありがと。ちょっと聞いてみたかっただけ」


 蓮はそう言って、話を切り上げた。

 昼食の間は気もそぞろで、何を食べたのかさえ曖昧になるほどだった。


 午後は教科書を開いたり、室内でストレッチをしたりしたが、何をしていても学校のことが頭から離れず、たびたび物思いに沈んだ。


 日が沈み始めたころ、外で人の気配がした。

 窓から庭を眺めると、博人が仕事から帰宅したところだった。

 蓮は窓を半分開けて手を振る。


「おかえり」


 博人もそれに気づいて、小さく手を挙げた。


 博人の帰宅からしばらくすると、二階まで香ばしい匂いが漂ってきた。

 夕食の支度が整ったことを知らせる声が、階下から聞こえる。


今日も三人で食卓を囲んだ。


「今日は蓮が食べたがっていた唐揚げよ」


「やった」


 病院にいたときから待ち望んでいた鶏の唐揚げに、蓮の気分もわずかに浮上する。

 蓮は一つ取って口に運んだ。

 サクッとした衣に包まれた唐揚げは、うま味調味料が振られた優しい味わいだった。

 噛むと、醤油と生姜の香ばしい風味が口いっぱいに広がる。

 衣の内側からあふれる肉汁も、柔らかな鶏肉のうま味も、どれも懐かしく感じられた。


「美味いね」


 病院にいたときから、ずっと楽しみにしていた味に頬が緩む。

 もう一つ、もう一つと箸を伸ばした。

 すると、思っていたよりも早く満腹感がやってきた。

 入院生活によるものか、身体が変わったせいなのか、以前のようには食べられない。

 蓮は名残惜しそうに、もう一度皿へと視線を落とした。

 そこへ、博人が話を切り出す。


「蓮、学校のことを少し話さないか?」


「お昼に蓮も気にしてたでしょう? そろそろ考えておいたほうがいいと思って」


 明美が言葉を添えた。

 その言葉に、蓮は顔を上げる。


「……そうだね」


「まず、今の学校に戻ることを前提に考えていたが、それとは別に、県外の高校に転校する方法もある」


「おじいちゃんの家から、自転車で通えるところもあるし、そこで相談もできるそうよ」


 明美が続けた。


「うん」


「市内の通信制高校を選ぶこともできるわ」


 いくつもの選択肢が並べられていく。

 博人と明美は、蓮のために様々な可能性を視野に入れ、情報を集めていた。

 もっと早く話すこともできただろうが、蓮がそのことを考え始めるまで待っていた。

 これもまた、蓮のためだった。


「考える時間はあるから、すぐに答えを出さなくていい」


「……分かった」


 昨日までは、家に帰ってきたことだけでよかったが、外へ出ればそうはいかない。

 同じ場所へ戻るのか。

 別の場所へ行くのか。

 今までの生活を取り戻すためには、学校は切り離せない。


 それから三人は、蓮のこれからについてじっくりと話し合った。


「いろんな選択肢を話したけどな。どれかを今すぐ選ばなきゃいけないわけじゃない」


「でも、いつかは決めないといけないんだよね」


「そうだね。でも、その前に考えてほしいことがあるの。蓮自身が、どうしたいのかってことよ」


「……どうしたいか?」


「ああ、今の学校に戻りたいのか。別の学校へ行きたいのか。それとも、まだ学校のことを考える余裕がないのか。どれでもいい。まずは、自分の気持ちを整理することから始めればいい」


 蓮は黙って聞いていた。


「周りがどう思うかも大事だけど、そればかり考えていたら、蓮が本当はどうしたいのか分からなくなるでしょう?」


 昼間、明美に尋ねたことが蓮の頭をよぎった。

 自分が男に見えるのか、女に見えるのか。

 以前の自分だと気づいてもらえるのか。

 そもそも気づいてもらったほうがいいのか。

 そのことに気を取られ、自分が学校に戻りたいのかどうかさえ、曖昧になっていた。


「俺は、前と同じように過ごせるならそうしたい。でも、そんなの無理かもしれないし……」


 途中、蓮が言葉に詰まっても、二人は急かさず続きを待った。


「……みんなに、普通に受け入れてもらえるのかな」


 博人は少し考えてから答えた。


「全員がすぐに受け入れてくれるとは限らない。戸惑う人もいるかもしれないな」


「……うん」


「でも、蓮が蓮であることは変わったわけじゃないって話しただろう? それをどう伝えるか、一緒に考えていけばいい」


 蓮は俯いた。


「……もし、誰にも受け入れてもらえなかったら?」


「誰にも? そんなことはないだろう」


「そうよ。悠真くんと綾香ちゃんは、最初から受け入れてくれてたでしょう?」


 明美が力強く語りかけた。


「そうだけど……ただ、どうしたらいいのか分からないんだ」


「そうだな」


 博人は静かに頷いた。


「だったら、今は分からないままでいいんじゃないか」


「え?」


「今すぐ答えを出さなくてもいいってことだ。蓮が何を不安に思っているのか、少しずつ整理していけばいい。俺たちも一緒に考えるから」


 蓮は頷いて、リビングを後にした。

 自室に戻り、机の上に置かれた悠真のノートのコピーを整理する。

 一枚ずつ目を通していると、紙の裏側に黄色い付箋が一枚、貼り付けてあるのが目に留まった。

 昨日は気づかなかったそれには、ひと言だけ『あんまり無理すんなよ』と書かれていた。

 蓮は付箋を剥がし、片手で掲げて眺めてから呟く。


「キザな奴」


 悪態をつきながら、付箋を机に戻す。

 目頭が熱くなり、強く結んだ唇が震えた。

 気持ちが落ち着くのを待ってから、悠真にメッセージを送ろうとスマートフォンをタップする。


 明日、悠真にも相談してみよう。

 メッセージアプリを開き、返信欄に文字を打った。

 途中で消し、また打ち直す。

 何度か迷ったあと、ようやく送信ボタンを押した。


『明日、遊びに来る?』


 蓮が送った短い文章にはすぐに既読がつき、そのあと返信が届いた。


『おけ。午後行っていいか?』


『了解』


『時間は後で』


 蓮は悠真とのやりとりを終えると、グループトークの画面を眺めた。

 みんなは、今までと同じように自分に接してくれるのだろうか。

 それとも、今の自分を見たら、何かが変わってしまうのだろうか。

 考えても答えは出なかった。


 その夜、布団に入ると、外で感じた視線や、両親から聞いた学校の話など、いくつものことが頭に浮かんだ。


 どこへ行くのか。

 いつ戻るのか。

 戻らないのか。

 まだ、何も決まっていない。


 蓮は寝返りを打ち、暗い天井を見上げた。

 昨日と同じ家、同じ部屋。

 けれど、二日目の夜は昨日ほど穏やかではなかった。

 外へ出れば、今までとは違う自分を意識する。

 学校へ行けば、もっと多くの人と向き合うことになる。

 胸の奥が重くなるのを感じながら、蓮は布団を少しだけ引き上げた。


答えが出せないまま、ただ目を閉じた。

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