2-5 悩みと向き合って
今回少し長めです。
来た道を戻り、家の玄関を開ける。
「おかえり」
明美が声をかけた。
「ただいま」
「早かったね」
「……ちょっと疲れちゃって」
「そう。少し休んでなさい」
明美は何かに気づいた様子だったが、それ以上は聞かなかった。
蓮は部屋へ戻り、ベッドに倒れ込む。
ぼうっと焦点を合わせないまま天井を見つめ、考え込んだ。
今まで忘れていた――いや、あえて頭の隅に追いやっていた問題が、目の前に突きつけられたようだった。
昨日のプリントの内容を思い返す。
プリントには、二年生の準備について記載されたものが多かった。
事故に遭ったのは期末テスト直後で、出席日数が十分だったことも幸いし、二年生へ進級していたことは聞かされていた。
でも、そんなことはさして問題ではなかった。
男から女に変わったなんてこと、学校のみんなにはどう説明するんだろう。
不安どころの話じゃない。絶対に変な目で見られる。
いっそのこと、もともと女だったことにする?
さすがに無理だ。
今までのことが矛盾だらけになる。
それとも、このまま何もなかったかのように男として学校に戻る?
それもできない。
学校内で生活していれば、いつかバレるに決まっている。
じゃあ、今の俺を見て、佐倉蓮だと気づかれなかったら?
もし、特進科から普通科にクラス替えすることができれば、俺のことをあまり知らない人たちとの間でなら、普通に学校生活を始められるのかもしれない。
でも、それじゃあ、今までの友達とはどうなるんだ。
俺は、今までのことをなかったことにしたくない。
ただ、みんなが今の俺を見て、どう思うのかが分からない。
現実逃避しているうちは、妙案が浮かぶはずもない。
プリントに書かれた文字を目で追いかけても、思考はぐるぐると渦を巻くばかりだった。
昼食の時間が近づき、自室からリビングへ移った蓮は、明美に聞いてみることにした。
「俺ってさ、前の面影ってそんなに残ってるかね?」
「もちろんよ。蓮は蓮だもの」
「いや、そういうことじゃなくてさ。傍目から見て、今の俺ってどれくらい男に見えて、どれくらい女に見えるかってことなんだけど」
蓮は一度頭を振り、真剣な眼差しで尋ねた。
その様子を見て、明美も家事の手を止め、居住まいを正して向き合った。
「今の蓮は、女の子にしか見えないわね」
「男には全く見えない?」
「……そうね」
「じゃあ、前の俺は? どう見えてた?」
「もちろん男の子だったわよ。ずっと昔は女の子に間違われることもあったけど、中学に入ってからは、それもなくなったかしら」
「だよね。もう一ついい?」
「なあに?」
「ほかの人たちから見たら、変わる前と後で同一人物だと思うかな?」
「私たちみたいに、よく見ていた人は気づくかもしれないけど、よほどのことがない限り、気づかないでしょうね」
「……そっか」
蓮は自分の手を見つめた。
自分では、名前も記憶も変わっていない。
姿が以前と違っていても、蓮が蓮であることに変わりはなかった。
けれど、周りの人間にとっては違うのかもしれない。
気づかれなければ、今の姿を当たり前のものとして受け入れてもらえるのだろうか。
それでも、悠真や綾香に、今までの蓮ではない誰かとして接してほしいわけではない。
蓮のままでいたい。
ただ、周りがこの変化をどう受け止めるのかが分からなかった。
「……ありがと。ちょっと聞いてみたかっただけ」
蓮はそう言って、話を切り上げた。
昼食の間は気もそぞろで、何を食べたのかさえ曖昧になるほどだった。
午後は教科書を開いたり、室内でストレッチをしたりしたが、何をしていても学校のことが頭から離れず、たびたび物思いに沈んだ。
日が沈み始めたころ、外で人の気配がした。
窓から庭を眺めると、博人が仕事から帰宅したところだった。
蓮は窓を半分開けて手を振る。
「おかえり」
博人もそれに気づいて、小さく手を挙げた。
博人の帰宅からしばらくすると、二階まで香ばしい匂いが漂ってきた。
夕食の支度が整ったことを知らせる声が、階下から聞こえる。
今日も三人で食卓を囲んだ。
「今日は蓮が食べたがっていた唐揚げよ」
「やった」
病院にいたときから待ち望んでいた鶏の唐揚げに、蓮の気分もわずかに浮上する。
蓮は一つ取って口に運んだ。
サクッとした衣に包まれた唐揚げは、うま味調味料が振られた優しい味わいだった。
噛むと、醤油と生姜の香ばしい風味が口いっぱいに広がる。
衣の内側からあふれる肉汁も、柔らかな鶏肉のうま味も、どれも懐かしく感じられた。
「美味いね」
病院にいたときから、ずっと楽しみにしていた味に頬が緩む。
もう一つ、もう一つと箸を伸ばした。
すると、思っていたよりも早く満腹感がやってきた。
入院生活によるものか、身体が変わったせいなのか、以前のようには食べられない。
蓮は名残惜しそうに、もう一度皿へと視線を落とした。
そこへ、博人が話を切り出す。
「蓮、学校のことを少し話さないか?」
「お昼に蓮も気にしてたでしょう? そろそろ考えておいたほうがいいと思って」
明美が言葉を添えた。
その言葉に、蓮は顔を上げる。
「……そうだね」
「まず、今の学校に戻ることを前提に考えていたが、それとは別に、県外の高校に転校する方法もある」
「おじいちゃんの家から、自転車で通えるところもあるし、そこで相談もできるそうよ」
明美が続けた。
「うん」
「市内の通信制高校を選ぶこともできるわ」
いくつもの選択肢が並べられていく。
博人と明美は、蓮のために様々な可能性を視野に入れ、情報を集めていた。
もっと早く話すこともできただろうが、蓮がそのことを考え始めるまで待っていた。
これもまた、蓮のためだった。
「考える時間はあるから、すぐに答えを出さなくていい」
「……分かった」
昨日までは、家に帰ってきたことだけでよかったが、外へ出ればそうはいかない。
同じ場所へ戻るのか。
別の場所へ行くのか。
今までの生活を取り戻すためには、学校は切り離せない。
それから三人は、蓮のこれからについてじっくりと話し合った。
「いろんな選択肢を話したけどな。どれかを今すぐ選ばなきゃいけないわけじゃない」
「でも、いつかは決めないといけないんだよね」
「そうだね。でも、その前に考えてほしいことがあるの。蓮自身が、どうしたいのかってことよ」
「……どうしたいか?」
「ああ、今の学校に戻りたいのか。別の学校へ行きたいのか。それとも、まだ学校のことを考える余裕がないのか。どれでもいい。まずは、自分の気持ちを整理することから始めればいい」
蓮は黙って聞いていた。
「周りがどう思うかも大事だけど、そればかり考えていたら、蓮が本当はどうしたいのか分からなくなるでしょう?」
昼間、明美に尋ねたことが蓮の頭をよぎった。
自分が男に見えるのか、女に見えるのか。
以前の自分だと気づいてもらえるのか。
そもそも気づいてもらったほうがいいのか。
そのことに気を取られ、自分が学校に戻りたいのかどうかさえ、曖昧になっていた。
「俺は、前と同じように過ごせるならそうしたい。でも、そんなの無理かもしれないし……」
途中、蓮が言葉に詰まっても、二人は急かさず続きを待った。
「……みんなに、普通に受け入れてもらえるのかな」
博人は少し考えてから答えた。
「全員がすぐに受け入れてくれるとは限らない。戸惑う人もいるかもしれないな」
「……うん」
「でも、蓮が蓮であることは変わったわけじゃないって話しただろう? それをどう伝えるか、一緒に考えていけばいい」
蓮は俯いた。
「……もし、誰にも受け入れてもらえなかったら?」
「誰にも? そんなことはないだろう」
「そうよ。悠真くんと綾香ちゃんは、最初から受け入れてくれてたでしょう?」
明美が力強く語りかけた。
「そうだけど……ただ、どうしたらいいのか分からないんだ」
「そうだな」
博人は静かに頷いた。
「だったら、今は分からないままでいいんじゃないか」
「え?」
「今すぐ答えを出さなくてもいいってことだ。蓮が何を不安に思っているのか、少しずつ整理していけばいい。俺たちも一緒に考えるから」
蓮は頷いて、リビングを後にした。
自室に戻り、机の上に置かれた悠真のノートのコピーを整理する。
一枚ずつ目を通していると、紙の裏側に黄色い付箋が一枚、貼り付けてあるのが目に留まった。
昨日は気づかなかったそれには、ひと言だけ『あんまり無理すんなよ』と書かれていた。
蓮は付箋を剥がし、片手で掲げて眺めてから呟く。
「キザな奴」
悪態をつきながら、付箋を机に戻す。
目頭が熱くなり、強く結んだ唇が震えた。
気持ちが落ち着くのを待ってから、悠真にメッセージを送ろうとスマートフォンをタップする。
明日、悠真にも相談してみよう。
メッセージアプリを開き、返信欄に文字を打った。
途中で消し、また打ち直す。
何度か迷ったあと、ようやく送信ボタンを押した。
『明日、遊びに来る?』
蓮が送った短い文章にはすぐに既読がつき、そのあと返信が届いた。
『おけ。午後行っていいか?』
『了解』
『時間は後で』
蓮は悠真とのやりとりを終えると、グループトークの画面を眺めた。
みんなは、今までと同じように自分に接してくれるのだろうか。
それとも、今の自分を見たら、何かが変わってしまうのだろうか。
考えても答えは出なかった。
その夜、布団に入ると、外で感じた視線や、両親から聞いた学校の話など、いくつものことが頭に浮かんだ。
どこへ行くのか。
いつ戻るのか。
戻らないのか。
まだ、何も決まっていない。
蓮は寝返りを打ち、暗い天井を見上げた。
昨日と同じ家、同じ部屋。
けれど、二日目の夜は昨日ほど穏やかではなかった。
外へ出れば、今までとは違う自分を意識する。
学校へ行けば、もっと多くの人と向き合うことになる。
胸の奥が重くなるのを感じながら、蓮は布団を少しだけ引き上げた。
答えが出せないまま、ただ目を閉じた。




